18年振りに公開が始まった世界文化遺産 元離宮二条城 本丸御殿へ
長い間、保存修理工事をされ、このたび9月1日(日)から18年振りの公開が始まった世界文化遺産 元離宮二条城 本丸御殿。詳細は後程紹介しますが、皇室ゆかりの御殿を、京都市民限定の内覧会が8月8日(木)~22日(木)にあって、事前申込制で無料で見られました。ご存じのとおり、今年の8月は猛烈に暑かって、連日熱中症警戒アラートが出されていたので、私は申込みしなくて、一般公開が始まる9月1日(日)以降に行くこととしました。理由は・・・?。
元離宮二条城に入るのに800円。二の丸御殿に入るのに500円。そして本丸御殿に入るのに1000円が必要です。ただ、京都市民限定の「年間パスポート」を持ってると、すべてパスポートを見せるだけで入れるので、大変暑いなか無理に行かなかったです。
本丸御殿は事前予約制で、一ヶ月前から予約できます。本当は10月の初めに行くつもりで予約していたんですが、所用が入ったので、キャンセルし予約を取り直ししました。その日が10月15日(火)だったわけです。ただ、10月も中旬になるのに、朝は確かに涼しくなりましたが、日中は、まだまだ暑いです。夏場と違って湿気が少ないので、カラっとした暑さですが、14日(月・祝)の最高気温は28.8℃まで上がりました。ちなみに最低気温は17.3℃でした。
前回、元離宮二条城には、8月26日(月)に国宝 二の丸御殿「式台の間 特別入室」に行きました。その日は、目眩がするほどの暑さで、フラフラに。もう真夏に元離宮二条城には行かないと決めてから約二ヶ月が経ちました。その日と同様に地下鉄東西線二条城前まで下車し向かいましたが、時間的には早かったので、ゆっくり歩いて行くと・・・?。
信号を渡ると、いつものように「東南隅櫓」(重文)を撮りました。
8時37分に「東大手門」(重文)に着きました。8時45分開城には、まだ時間があります。
いつものようにチケット売場には行列ができてます。それより驚いたのは、WEBでチケットを購入された列が10㍍もあったことですね。こんなの初めてです。係の方に聞くと8月下旬頃から多くなったとか。8時45分に開城され、順番に入って行きます。出遅れは仕方無いけど、二の丸御殿には入らないので、一目散に目的地に向かいました。
絢爛豪華な重要文化財に指定されている「唐門」には、一番早く着きました。
今日は国宝「二の丸御殿」には入りません。
8時46分に「二の丸庭園」の入口まで来ました。二の丸庭園を経由して本丸に入ります。
三連休は快晴でしたが、この日は曇り空です。少し残念でした。
いつ見ても、特別名勝の「二の丸庭園」は綺麗です。今も暦では秋ですが、もっと秋が深まったら再訪したいです。
8時50分に「二の丸庭園」を出ました。
二の丸庭園を出て、「東橋」を渡って、「本丸櫓門」から本丸に入ります。
今日、久しぶりに入る「本丸御殿」です。写真が残ってないので、いつ以来か分かりませんが、楽しみです。
芝生の綺麗な「本丸庭園」を見ながら、天守台の下までやって来ました。
8時54分に「天守台」に上がりました。本丸御殿は9時30分からで、ここに座って休憩します。
北東の比叡山を見ると、山頂付近は雲で隠れています。
今日は曇っているので、東の方向にある如意ヶ嶽の大の文字もはっきり見えました。
本丸の内堀を見ています。
天守台から南の方向を見ています。
今日は、行く予定がない重要文化財に指定されいる「西南隅櫓」の方向です。
最後に北西の方向を撮ったあと、床几に座り休憩しました。予定では9時15分頃まで、ここに居ます。
今日も、気温は平年より高かったけど、真夏と違うのは、風が気持ちことです。乾いた風が吹き抜け心地良かったです。
予定どおり、天守台に9時15分まで居ました。その間に多くの方が上がって来られました。大半は海外の方のようです。この時間では学生さんの姿は無かったですね、私は15分になったのを確認し、下に降りました。
「本丸御殿」の車寄玄関に9時16分に来ました。既に並ばれている方が居ましたね。
本丸御殿の観覧は、9時30分で15名限定です。20分毎に予約となるので、私は9時30分ですが、次が9時50分、そのあとが10時10分と続いていきます。事前の注意事項で、本丸御殿にトイレが無いので、さきに済ませます。
「西橋」を渡って本丸を出て、トイレに行きました。そして、その前の休憩所で座り時間を待ちました。
再び、西橋を渡って、本丸御殿に向かいました。そして予定どおり9時25分に玄関前に並びました。
少し早く入れるのかなあ・・・と思ってましたが、9時30分になって、列の前から上がりました。それまでにQRコードは確認されます。私は、年間バスボート証も確認されました。
本丸御殿内は、撮影禁止です。御殿内の模様については、案内のみになります。それで、所々外観の写真を載せることにします😊。
現在の本丸御殿は、1894年(明治27年)、京都御所の北隣にあった桂宮家の御殿の一部が移築されたもので、我が国で唯一現存する宮家の御殿として重要文化財に指定を受けています。玄関、御書院、御常御殿、台所及び雁之間の4棟からなり、建築年代は、棟により1793年(寛政5年)から1849年(嘉永2年)までとさまざまです。御所が火災にあった際に、一時仮御所として使われた御書院、居間であった御常御殿、そして玄関、台所等の移築前のの主要な建物がここに揃っています。桂宮家は、桂離宮を創設したことで知られる桂宮智仁親王を始祖として、12代を継承した淑子(すみこ)内親王が1881年(明治14年)に薨去したことで断絶。江戸幕府14代将軍徳川家茂の正室となった皇女和宮が江戸に向けて出立した御殿でもあります。桂宮淑子内親王は明治天皇の叔母にあたり、和宮は彼女の妹にあたります。この本丸御殿に明治天皇は、主要な部屋に「松鶴の間」などの名前を付け、「呈寿(ていじゅ)」と書いた額を2階の御座所に掲げさせました。本丸庭園も、明治天皇が草木の植栽などを細かく指示し造られたものです。明治時代から大正時代にかけて、本丸御殿は嘉仁皇太子(のちの第123代大正天皇)と裕仁皇太子(のちの第124代昭和天皇)等の宿泊所として使用されました。室内には畳の上に絨毯が敷かれ、テーデルと椅子が使用されるなど洋風の設えが取り入れられ、時代と共に、衣桁型シャンデリアなどの照明や電話といった、近代的な設備が整えられました。江戸時代から近代の宮廷文化の様相を伝える大変貴重な建物であり、室内装飾の障壁画とともに、優雅な趣を今に伝えてます。1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で、建物に歪みが生じたことから、室内を安全に観覧するために、2017年(平成29年から耐震補強工事を実施し、併せて障壁画の修理を行いました。そして、この度、これら保存修理工事が2023年(令和5年)度末に完了し、2024年(令和6年)9月1日から18年ぶりに一般公開を開始しされました。
9時30分になったら、車寄の「玄関の間」から入ります。先ずは案内に従って靴を袋に入れて上がると、右手にある「使者の間」に行くように案内されます。そこにはロッカーがあって、自分の持ち物を全て入れます。私は鞄と靴を入れました。なお、コインロッカーでは無いので料金はかかりません😊。
「玄関の間」は「取次の間」を合わせると約60平米の大空間となっています。他に、来訪者の控えの部屋として、使者の間、殿上の間、公卿の間があります。とくに、ここでは大原呑舟筆「波濤に鷲図」の衝立が迎えてくれました。
次に、「公卿の間」に移動し、本丸御殿を紹介するビデオを9時30分のグループで見ます。約8分ぐらいでした。このビデオでは、非公開の所も紹介されるとのこと。見終わると案内に従って見て行きます。ただ、ガイドさんの案内はありません。各自で見て行くシステムのようでしたね、ただ一回りしかできません。これは最後で分かったことです。
最初は「御書院」です。
御書院は、本丸御殿の中心となる建物。もっとも格式の高い「一の間」は、格天井で壁が金箔であり、違棚を備えています。「三の間」は畳を上げると能舞台になり、明治天皇も能を楽しんだと言われています。卍崩しの欄間は、よく似たものが桂離宮にもあり、桂宮家ゆかりの建物としてのつながりを感じます。
最初に見るのは「三の間」です。障子が開いているので、「二の間」「一の間」と見渡せます。正面から横から、じっくり見せて貰いました。ここでの襖絵は描いて無かったです。
御書院「一の間」から「三の間」は、主人と来訪者との公式な対面所として使われました。「一の間」には、床(とこ)と棚を備えます。主人は、床(ゆか)が一段高くなっている「一の間」に、対面相手は、「二の間」「三の間」に座りました。「三の間」は、畳を取り外すと能舞台になり、「三の間」の南西隅に接する廊下が、能舞台の橋掛りとされました。
次に、御常御殿に入ります。御常御殿は京都御所にもありますね。移動の間に、江戸時代から大正時代にかけて整えられた、繊細で雅な設え(唐紙など)も見所です。
唐紙(七宝柄)とは、胡粉(こふん)入りの絵の具を塗った表面に、版木を使って模様を刷った紙のことです。本丸御殿の部屋や廊下を彩っています。また、精巧な欄間や飾金具などの名工の技にも注目です。そして足元です。廊下が畳敷になっており、この畳の縁(ヘリ)には、赤い絹が使われています。通常は綿や麻が使われますが、衣装を滑りやすくする工夫と考えられます。そして、照明やシャンデリアなど洋風を取り入れた近代の宮廷文化が今に伝えてました。
最初に見るのは「耕作の間」で障壁画は「四季工作図」(中島華陽作)す。襖絵は、田植えや収穫など日本の米作りの風景を描いています。
障壁画を描いた中島華陽(岸派)は、幕末から明治の画家。京都生。娘婿は富岡鉄斎。西面に春の田お越しと浸種(しんしゅ)、南面に夏の田植え、東面に秋の収穫の風景が描かれています。稲作と農村の様子を描くの「耕作図」は、権力者が民の様子を知り、自らを戒めるために製作されたようです。
次に「四季草花の間」と見て行きます。障壁画は「四季草花の図」で、中島来章(円山派)の筆によるものです。
中島来章は、江戸時代の幕末から明治時代にかけて活躍した円山派の絵師。こちらの部屋は、移築後には皇太子などの食事の部屋として使われました。襖絵は南免にタンポポや菜の花などの春の花、菖蒲や河骨(こうほね)などの夏の花を。東面には、薄(すすき)や蜀葵(たちあおい)、秋海棠、菊、竜胆などの秋の花を。北面には、ツワブキと蔦を這わせる豆花、菊、水仙など冬の花を描き、部屋全体が四季の花で囲まれている。
次に奥の部屋に移動し、そこは「松鶴の間」で、ここは、ひときわ目を引く「松鶴図」があります。strong>狩野永岳(京狩野派)の筆によるものです。
この「松鶴の間」は、明治天皇により名付けられました。「御座の間」や「御座所」とも呼ばれる部屋で、御殿の主の居室です。障壁画は、金銀砂子で雲を表し、床の間と襖には、松と鶴が、棚の下部には亀が描いてあります。松・鶴・亀は長寿をイメージし、当主に長生きしてほしいとの願いが込められたものでしょう。狩野永岳は京狩野家の9代目当主で、濃密で華麗な画風は、狩野派の伝統を継承している。
そしてお隣に移動し、「雉の間」を見ます。障壁画は「春秋花鳥図」で、先の狩野永岳に師事した長野祐親(京狩野派)の筆によるものです。
この部屋も明治天皇によって名付けられました。「御寝の間」とも呼ばれる、御殿の主の場所にあたります。部屋の四隅には蚊帳を吊す金具が取り付けてあります。障壁画は、部屋の正面と右側に紅葉と雄の雉、、萩と菊などの秋の草花が、左側の壁には、桜と雌の雉と三羽の雛鳥を描く。
次が「御納戸」で、壁や襖には、緑青地に朽木雲文様の唐紙が使われています。
御殿の主の身の回りを世話する物が控えたと思われる部屋と考えられます。嘉仁皇太子(のちの第123代大正天皇)行啓(ぎょうけい)の際には、侍従の部屋として使われました。
この「御納戸」の廊下を挟んだ向かいの部屋を見ます。そこは「御化粧の間」と呼ばれ、障壁画は「御納戸」と同様の朽木雲文様の唐紙が使われてました。
御殿の主や身分の高い女性の身支度に使用された部屋とされています。北側には、棚と押し入れが設けられていて、身支度に使う物を入れていたのでしょう。
最後が「萩の間」で耕作の間の東隣の部屋になります。「萩図」筆者の八木奇峰(やぎきほう)は、最初、京狩野の山懸岐鳳に、後に、四条派の松村景文に師事したとされる。
御殿の主のそば近くに仕えた人が使用したと考えられます。障壁画は、満開を迎えた紅白の萩の花が、水流や土坡と共に描かれ、所々に露草も部屋全体に描かれ、清楚ながら華やかな空間となっています。
御常御殿で最後に見るのは「御湯殿」です。
御殿の主の浴室です。畳敷き部分は控えの間で、一段下がった板間の床には、中央に向かって勾配がついていて、溝を通じて排水できるようになっている。板間に浴槽を置き、湯呑みしたと考えられています。
そして、再び御書院に戻ります。最初に見た「一の間」のお隣の部屋から見て行きます。そこは「四季の間」と呼ばれてました。
「四季の間」は、田の字形に配された4つの部屋、それぞれの障壁画に春夏秋冬の景物が描かれることから、四季の間と呼ばれます。春の間と夏の間の境にある卍崩し形の欄間は、同じく桂宮家の別邸(現在の桂離宮)との繋がりを感じさせる意匠です。
最初は「夏の間」から見て行きます。障壁画は「夏景図」で、多村挙秀(円山派)によるもの。
夏の農村の風景が描かれています。春の間との境の襖の中央には、西に田植えの農夫、北に柴を担ぐ人物を田家と共に描き、南には柳の生い茂る水辺に舟に乗る二人の人物が描かれ、冬の間との境には柴を集める老人が見られる。
次の「春の間」は夏の間の奥に見え、部屋の境には「卍崩し」形の欄間があるのが特徴です。桂離宮にもよく似たデザインの欄間がみられます。前途したとおり桂宮家ゆかりの建物としてのつながりを感じます。
床と違い棚を備える四季の間の主室です。「春景図」は、円山応立(円山派)によるもの。床・壁・襖に松と満開の山桜が点在し、丘陵を描いています。違い棚の小襖には「往古図」と「貝図」が復古大和絵派の田中納言が描いたと思われる。
夏の間の隣のが「冬の間」です。障壁画の「冬景図」は、円山派の星野蝉水が描いたものです。星野蝉水は、円山応立の弟子で、明治時代に、二の丸御殿障壁画の補彩の作業にも携わりました。
「冬の間」の「冬景図」には、雪深い山村が淡彩で描かれており、白い雪に松などの木々の緑と水辺の藍色が映えます。
「四季の間」の最後は、「秋の間」で、障壁画は「秋景図」を岸派の岸竹堂が描きました。
「秋景図」は、水墨を主体に秋の山水が描かれいます。北面では、低い位置に木々に囲まれた草葺きの家が数軒描かれ、東面は中央左に遠山を配し、中央の渓谷を挟む山水景となっています。春の間との境の中央付近には、つがいの鹿が、西側の腰障子には、刈り入れの終わった田、稲架と稲束を運ぶ牛と人が描いてあります。
次に「御書院 雲鶴の間」に移動します。「四季の間」の向かいにありました。
部屋名は、襖と壁の唐紙が雲鶴文様であることに由来します。一の間に床と棚を備え、二の間、三の間が一列に続くことから、対面所としても機能したと思われます。一の間に備わる棚の上部の小襖には「海辺春景図」、下部の小襖には「海辺秋景図」が描かれています。
「雲鶴一の間、雲鶴二の間、雲鶴三の間」の襖が、すべて雲鶴文様の唐紙であることから、明治天皇によって「雲鶴の間」と命名されました。
雲鶴一の間の違棚に残る天袋小襖「海辺春景図」と地袋小襖「海辺秋景図」の筆者と製昨年度は不明ですが、画風から鶴沢探泉筆と考えられています。嘉仁皇太子(のちの第123代大正天皇)の行啓時には、随従する事務方の主任や侍医が使用しました。
ここでは「杉戸絵」も見学できます。18世紀から幕末にかけて描かれた杉戸では「花車」や「舞楽」などといった宮家にふさわしい画題が選ばれて展示されてました。
杉戸は2枚1組で廊下の棟境などに嵌められる建具です。本丸御殿には、7組14枚の杉戸が遺されており、一部をここで展示されてました。杉戸絵の筆者は、室内の障壁画の筆者の他に、長沢芦洲、鶴澤探真、五井友山の名が伝わります。杉戸には、虎や獅子といった獣、鶴、亀、鳳凰といった吉祥の動物、草花や花鳥などが描かれています。
次の「雁の間」に行く途中に、台所がありますが、ここは非公開です。台所は、食事を準備した場所で、北面には、流し台と水槽が備え付けられているようです。
雁の間二室(東・西)は、家来や従者が使用しました。室内の障壁画は、水墨画の「芦雁図」は、中島来章(円山派)の筆によるものです。渡り鳥である雁が飛ぶ姿が描かれています。
そして、「取次の間」と「玄関の間」に戻って参観は終了です。ロッカーから鞄と靴を取り出して出て行きました。
9時53分に出ました。少し物足りなさが残ったので、近々再訪を考えました。事前予約制のため、開いてるかどうか確かめてからとなるから😊。
今日は、城内で行く所があるので、最短コースで向かいます。再び、本丸御殿の横を通って本丸を出て行きます。
また「東橋」を渡りました。行きとちがい、人が格段に増えて来ました。
二の丸庭園も人が多すぎ😊。それで写真を撮らずに、二の丸庭園も出て行きます。
二の丸御殿の前を通りました。凄い人です。入りたくもありません😊。
この日、本丸御殿の参観のあとに、行く予定にしていたのは、「展示収蔵庫」です。
展示収蔵庫では、10月10日(木)~12月8日(日)まで、「令和6年度 秋期展」が始まってました。タイトルが「 葵から菊へ ~〈白書院〉一の間・二の間~」
夏場は暑くて、ここの冷房が気持ち良かったけど、今日はじっくり観賞させて貰いました。
葵から菊へ ~〈白書院〉一の間・二の間~ 1884年(明治17年)、二条城が二条離宮になると、皇太子時代の大正天皇が本丸御殿を宿泊所としました。〈白書院〉は、天井に至るまで飾金具が葵から菊の紋に変えられ、皇族の御座所となったことがうかがえます。江戸時代、一の間は将軍の居室として用いられ、ゆったりとした湖畔の眺望が障壁画に描かれます。明治時代、くつろぎの空間を飾った《西湖図》は、新たな主人も癒したことでしょう。
いつもは、ここで休憩しますが、迎えに来て貰う時間もあるので、今日は寄らずに帰ります。暑かったので、生ビール飲みたかったけど😊。
10時13分に「東大手門」を出て行きました。やっぱりここは早く行かないと、平日でも混雑してました。
この日飲みたかった最低気温は、20.0℃で、平年より随分高いです。曇っていたので、最高気温は25.6℃しか上がりませんでしたが、10月の中頃と思えないほど蒸し蒸ししてました。この日の翌日のニュースでは、関東の学校では、京都を修学旅行の行き先を敬遠する学校が増えてきたそうです。インバウンドで混雑してるので、人気の神社仏閣を予定どおり回れなくなったからとのことです。インバウンドの方に合わせて、宿泊代や飲食代も高くなっているみたいですね。学生さんの僅かな小遣いでの飲食代高騰は可愛そうです。京都市民も、市バスに乗れない、タクシーは捕まらないなど、オーバーツーリズムなんとかしてほしいです。今後、54%の学校が行き先の変更を検討されているようです。日本人が京都に行けないのは、あまりにも可笑しいです😡。
天気予報士さんが面白話しをしてました。10月16日現在、290日で、京都市では夏日が157日、真夏日が102日、猛暑日が54日、熱帯夜が64日と、真夏日、猛暑日、熱帯夜が過去最高日数だそうです。ここ最近、暑くなったので、夏日も更新するかもです。290日中、54%が夏日とは・・・京都は熱帯地方かなぁ・・・?😊。
元離宮二条城に入るのに800円。二の丸御殿に入るのに500円。そして本丸御殿に入るのに1000円が必要です。ただ、京都市民限定の「年間パスポート」を持ってると、すべてパスポートを見せるだけで入れるので、大変暑いなか無理に行かなかったです。
本丸御殿は事前予約制で、一ヶ月前から予約できます。本当は10月の初めに行くつもりで予約していたんですが、所用が入ったので、キャンセルし予約を取り直ししました。その日が10月15日(火)だったわけです。ただ、10月も中旬になるのに、朝は確かに涼しくなりましたが、日中は、まだまだ暑いです。夏場と違って湿気が少ないので、カラっとした暑さですが、14日(月・祝)の最高気温は28.8℃まで上がりました。ちなみに最低気温は17.3℃でした。
前回、元離宮二条城には、8月26日(月)に国宝 二の丸御殿「式台の間 特別入室」に行きました。その日は、目眩がするほどの暑さで、フラフラに。もう真夏に元離宮二条城には行かないと決めてから約二ヶ月が経ちました。その日と同様に地下鉄東西線二条城前まで下車し向かいましたが、時間的には早かったので、ゆっくり歩いて行くと・・・?。
信号を渡ると、いつものように「東南隅櫓」(重文)を撮りました。
8時37分に「東大手門」(重文)に着きました。8時45分開城には、まだ時間があります。
いつものようにチケット売場には行列ができてます。それより驚いたのは、WEBでチケットを購入された列が10㍍もあったことですね。こんなの初めてです。係の方に聞くと8月下旬頃から多くなったとか。8時45分に開城され、順番に入って行きます。出遅れは仕方無いけど、二の丸御殿には入らないので、一目散に目的地に向かいました。
絢爛豪華な重要文化財に指定されている「唐門」には、一番早く着きました。
今日は国宝「二の丸御殿」には入りません。
8時46分に「二の丸庭園」の入口まで来ました。二の丸庭園を経由して本丸に入ります。
三連休は快晴でしたが、この日は曇り空です。少し残念でした。
いつ見ても、特別名勝の「二の丸庭園」は綺麗です。今も暦では秋ですが、もっと秋が深まったら再訪したいです。
8時50分に「二の丸庭園」を出ました。
二の丸庭園を出て、「東橋」を渡って、「本丸櫓門」から本丸に入ります。
今日、久しぶりに入る「本丸御殿」です。写真が残ってないので、いつ以来か分かりませんが、楽しみです。
芝生の綺麗な「本丸庭園」を見ながら、天守台の下までやって来ました。
8時54分に「天守台」に上がりました。本丸御殿は9時30分からで、ここに座って休憩します。
北東の比叡山を見ると、山頂付近は雲で隠れています。
今日は曇っているので、東の方向にある如意ヶ嶽の大の文字もはっきり見えました。
本丸の内堀を見ています。
天守台から南の方向を見ています。
今日は、行く予定がない重要文化財に指定されいる「西南隅櫓」の方向です。
最後に北西の方向を撮ったあと、床几に座り休憩しました。予定では9時15分頃まで、ここに居ます。
今日も、気温は平年より高かったけど、真夏と違うのは、風が気持ちことです。乾いた風が吹き抜け心地良かったです。
予定どおり、天守台に9時15分まで居ました。その間に多くの方が上がって来られました。大半は海外の方のようです。この時間では学生さんの姿は無かったですね、私は15分になったのを確認し、下に降りました。
「本丸御殿」の車寄玄関に9時16分に来ました。既に並ばれている方が居ましたね。
本丸御殿の観覧は、9時30分で15名限定です。20分毎に予約となるので、私は9時30分ですが、次が9時50分、そのあとが10時10分と続いていきます。事前の注意事項で、本丸御殿にトイレが無いので、さきに済ませます。
「西橋」を渡って本丸を出て、トイレに行きました。そして、その前の休憩所で座り時間を待ちました。
再び、西橋を渡って、本丸御殿に向かいました。そして予定どおり9時25分に玄関前に並びました。
少し早く入れるのかなあ・・・と思ってましたが、9時30分になって、列の前から上がりました。それまでにQRコードは確認されます。私は、年間バスボート証も確認されました。
本丸御殿内は、撮影禁止です。御殿内の模様については、案内のみになります。それで、所々外観の写真を載せることにします😊。
現在の本丸御殿は、1894年(明治27年)、京都御所の北隣にあった桂宮家の御殿の一部が移築されたもので、我が国で唯一現存する宮家の御殿として重要文化財に指定を受けています。玄関、御書院、御常御殿、台所及び雁之間の4棟からなり、建築年代は、棟により1793年(寛政5年)から1849年(嘉永2年)までとさまざまです。御所が火災にあった際に、一時仮御所として使われた御書院、居間であった御常御殿、そして玄関、台所等の移築前のの主要な建物がここに揃っています。桂宮家は、桂離宮を創設したことで知られる桂宮智仁親王を始祖として、12代を継承した淑子(すみこ)内親王が1881年(明治14年)に薨去したことで断絶。江戸幕府14代将軍徳川家茂の正室となった皇女和宮が江戸に向けて出立した御殿でもあります。桂宮淑子内親王は明治天皇の叔母にあたり、和宮は彼女の妹にあたります。この本丸御殿に明治天皇は、主要な部屋に「松鶴の間」などの名前を付け、「呈寿(ていじゅ)」と書いた額を2階の御座所に掲げさせました。本丸庭園も、明治天皇が草木の植栽などを細かく指示し造られたものです。明治時代から大正時代にかけて、本丸御殿は嘉仁皇太子(のちの第123代大正天皇)と裕仁皇太子(のちの第124代昭和天皇)等の宿泊所として使用されました。室内には畳の上に絨毯が敷かれ、テーデルと椅子が使用されるなど洋風の設えが取り入れられ、時代と共に、衣桁型シャンデリアなどの照明や電話といった、近代的な設備が整えられました。江戸時代から近代の宮廷文化の様相を伝える大変貴重な建物であり、室内装飾の障壁画とともに、優雅な趣を今に伝えてます。1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で、建物に歪みが生じたことから、室内を安全に観覧するために、2017年(平成29年から耐震補強工事を実施し、併せて障壁画の修理を行いました。そして、この度、これら保存修理工事が2023年(令和5年)度末に完了し、2024年(令和6年)9月1日から18年ぶりに一般公開を開始しされました。
9時30分になったら、車寄の「玄関の間」から入ります。先ずは案内に従って靴を袋に入れて上がると、右手にある「使者の間」に行くように案内されます。そこにはロッカーがあって、自分の持ち物を全て入れます。私は鞄と靴を入れました。なお、コインロッカーでは無いので料金はかかりません😊。
「玄関の間」は「取次の間」を合わせると約60平米の大空間となっています。他に、来訪者の控えの部屋として、使者の間、殿上の間、公卿の間があります。とくに、ここでは大原呑舟筆「波濤に鷲図」の衝立が迎えてくれました。
次に、「公卿の間」に移動し、本丸御殿を紹介するビデオを9時30分のグループで見ます。約8分ぐらいでした。このビデオでは、非公開の所も紹介されるとのこと。見終わると案内に従って見て行きます。ただ、ガイドさんの案内はありません。各自で見て行くシステムのようでしたね、ただ一回りしかできません。これは最後で分かったことです。
最初は「御書院」です。
御書院は、本丸御殿の中心となる建物。もっとも格式の高い「一の間」は、格天井で壁が金箔であり、違棚を備えています。「三の間」は畳を上げると能舞台になり、明治天皇も能を楽しんだと言われています。卍崩しの欄間は、よく似たものが桂離宮にもあり、桂宮家ゆかりの建物としてのつながりを感じます。
最初に見るのは「三の間」です。障子が開いているので、「二の間」「一の間」と見渡せます。正面から横から、じっくり見せて貰いました。ここでの襖絵は描いて無かったです。
御書院「一の間」から「三の間」は、主人と来訪者との公式な対面所として使われました。「一の間」には、床(とこ)と棚を備えます。主人は、床(ゆか)が一段高くなっている「一の間」に、対面相手は、「二の間」「三の間」に座りました。「三の間」は、畳を取り外すと能舞台になり、「三の間」の南西隅に接する廊下が、能舞台の橋掛りとされました。
次に、御常御殿に入ります。御常御殿は京都御所にもありますね。移動の間に、江戸時代から大正時代にかけて整えられた、繊細で雅な設え(唐紙など)も見所です。
唐紙(七宝柄)とは、胡粉(こふん)入りの絵の具を塗った表面に、版木を使って模様を刷った紙のことです。本丸御殿の部屋や廊下を彩っています。また、精巧な欄間や飾金具などの名工の技にも注目です。そして足元です。廊下が畳敷になっており、この畳の縁(ヘリ)には、赤い絹が使われています。通常は綿や麻が使われますが、衣装を滑りやすくする工夫と考えられます。そして、照明やシャンデリアなど洋風を取り入れた近代の宮廷文化が今に伝えてました。
最初に見るのは「耕作の間」で障壁画は「四季工作図」(中島華陽作)す。襖絵は、田植えや収穫など日本の米作りの風景を描いています。
障壁画を描いた中島華陽(岸派)は、幕末から明治の画家。京都生。娘婿は富岡鉄斎。西面に春の田お越しと浸種(しんしゅ)、南面に夏の田植え、東面に秋の収穫の風景が描かれています。稲作と農村の様子を描くの「耕作図」は、権力者が民の様子を知り、自らを戒めるために製作されたようです。
次に「四季草花の間」と見て行きます。障壁画は「四季草花の図」で、中島来章(円山派)の筆によるものです。
中島来章は、江戸時代の幕末から明治時代にかけて活躍した円山派の絵師。こちらの部屋は、移築後には皇太子などの食事の部屋として使われました。襖絵は南免にタンポポや菜の花などの春の花、菖蒲や河骨(こうほね)などの夏の花を。東面には、薄(すすき)や蜀葵(たちあおい)、秋海棠、菊、竜胆などの秋の花を。北面には、ツワブキと蔦を這わせる豆花、菊、水仙など冬の花を描き、部屋全体が四季の花で囲まれている。
次に奥の部屋に移動し、そこは「松鶴の間」で、ここは、ひときわ目を引く「松鶴図」があります。strong>狩野永岳(京狩野派)の筆によるものです。
この「松鶴の間」は、明治天皇により名付けられました。「御座の間」や「御座所」とも呼ばれる部屋で、御殿の主の居室です。障壁画は、金銀砂子で雲を表し、床の間と襖には、松と鶴が、棚の下部には亀が描いてあります。松・鶴・亀は長寿をイメージし、当主に長生きしてほしいとの願いが込められたものでしょう。狩野永岳は京狩野家の9代目当主で、濃密で華麗な画風は、狩野派の伝統を継承している。
そしてお隣に移動し、「雉の間」を見ます。障壁画は「春秋花鳥図」で、先の狩野永岳に師事した長野祐親(京狩野派)の筆によるものです。
この部屋も明治天皇によって名付けられました。「御寝の間」とも呼ばれる、御殿の主の場所にあたります。部屋の四隅には蚊帳を吊す金具が取り付けてあります。障壁画は、部屋の正面と右側に紅葉と雄の雉、、萩と菊などの秋の草花が、左側の壁には、桜と雌の雉と三羽の雛鳥を描く。
次が「御納戸」で、壁や襖には、緑青地に朽木雲文様の唐紙が使われています。
御殿の主の身の回りを世話する物が控えたと思われる部屋と考えられます。嘉仁皇太子(のちの第123代大正天皇)行啓(ぎょうけい)の際には、侍従の部屋として使われました。
この「御納戸」の廊下を挟んだ向かいの部屋を見ます。そこは「御化粧の間」と呼ばれ、障壁画は「御納戸」と同様の朽木雲文様の唐紙が使われてました。
御殿の主や身分の高い女性の身支度に使用された部屋とされています。北側には、棚と押し入れが設けられていて、身支度に使う物を入れていたのでしょう。
最後が「萩の間」で耕作の間の東隣の部屋になります。「萩図」筆者の八木奇峰(やぎきほう)は、最初、京狩野の山懸岐鳳に、後に、四条派の松村景文に師事したとされる。
御殿の主のそば近くに仕えた人が使用したと考えられます。障壁画は、満開を迎えた紅白の萩の花が、水流や土坡と共に描かれ、所々に露草も部屋全体に描かれ、清楚ながら華やかな空間となっています。
御常御殿で最後に見るのは「御湯殿」です。
御殿の主の浴室です。畳敷き部分は控えの間で、一段下がった板間の床には、中央に向かって勾配がついていて、溝を通じて排水できるようになっている。板間に浴槽を置き、湯呑みしたと考えられています。
そして、再び御書院に戻ります。最初に見た「一の間」のお隣の部屋から見て行きます。そこは「四季の間」と呼ばれてました。
「四季の間」は、田の字形に配された4つの部屋、それぞれの障壁画に春夏秋冬の景物が描かれることから、四季の間と呼ばれます。春の間と夏の間の境にある卍崩し形の欄間は、同じく桂宮家の別邸(現在の桂離宮)との繋がりを感じさせる意匠です。
最初は「夏の間」から見て行きます。障壁画は「夏景図」で、多村挙秀(円山派)によるもの。
夏の農村の風景が描かれています。春の間との境の襖の中央には、西に田植えの農夫、北に柴を担ぐ人物を田家と共に描き、南には柳の生い茂る水辺に舟に乗る二人の人物が描かれ、冬の間との境には柴を集める老人が見られる。
次の「春の間」は夏の間の奥に見え、部屋の境には「卍崩し」形の欄間があるのが特徴です。桂離宮にもよく似たデザインの欄間がみられます。前途したとおり桂宮家ゆかりの建物としてのつながりを感じます。
床と違い棚を備える四季の間の主室です。「春景図」は、円山応立(円山派)によるもの。床・壁・襖に松と満開の山桜が点在し、丘陵を描いています。違い棚の小襖には「往古図」と「貝図」が復古大和絵派の田中納言が描いたと思われる。
夏の間の隣のが「冬の間」です。障壁画の「冬景図」は、円山派の星野蝉水が描いたものです。星野蝉水は、円山応立の弟子で、明治時代に、二の丸御殿障壁画の補彩の作業にも携わりました。
「冬の間」の「冬景図」には、雪深い山村が淡彩で描かれており、白い雪に松などの木々の緑と水辺の藍色が映えます。
「四季の間」の最後は、「秋の間」で、障壁画は「秋景図」を岸派の岸竹堂が描きました。
「秋景図」は、水墨を主体に秋の山水が描かれいます。北面では、低い位置に木々に囲まれた草葺きの家が数軒描かれ、東面は中央左に遠山を配し、中央の渓谷を挟む山水景となっています。春の間との境の中央付近には、つがいの鹿が、西側の腰障子には、刈り入れの終わった田、稲架と稲束を運ぶ牛と人が描いてあります。
次に「御書院 雲鶴の間」に移動します。「四季の間」の向かいにありました。
部屋名は、襖と壁の唐紙が雲鶴文様であることに由来します。一の間に床と棚を備え、二の間、三の間が一列に続くことから、対面所としても機能したと思われます。一の間に備わる棚の上部の小襖には「海辺春景図」、下部の小襖には「海辺秋景図」が描かれています。
「雲鶴一の間、雲鶴二の間、雲鶴三の間」の襖が、すべて雲鶴文様の唐紙であることから、明治天皇によって「雲鶴の間」と命名されました。
雲鶴一の間の違棚に残る天袋小襖「海辺春景図」と地袋小襖「海辺秋景図」の筆者と製昨年度は不明ですが、画風から鶴沢探泉筆と考えられています。嘉仁皇太子(のちの第123代大正天皇)の行啓時には、随従する事務方の主任や侍医が使用しました。
ここでは「杉戸絵」も見学できます。18世紀から幕末にかけて描かれた杉戸では「花車」や「舞楽」などといった宮家にふさわしい画題が選ばれて展示されてました。
杉戸は2枚1組で廊下の棟境などに嵌められる建具です。本丸御殿には、7組14枚の杉戸が遺されており、一部をここで展示されてました。杉戸絵の筆者は、室内の障壁画の筆者の他に、長沢芦洲、鶴澤探真、五井友山の名が伝わります。杉戸には、虎や獅子といった獣、鶴、亀、鳳凰といった吉祥の動物、草花や花鳥などが描かれています。
次の「雁の間」に行く途中に、台所がありますが、ここは非公開です。台所は、食事を準備した場所で、北面には、流し台と水槽が備え付けられているようです。
雁の間二室(東・西)は、家来や従者が使用しました。室内の障壁画は、水墨画の「芦雁図」は、中島来章(円山派)の筆によるものです。渡り鳥である雁が飛ぶ姿が描かれています。
そして、「取次の間」と「玄関の間」に戻って参観は終了です。ロッカーから鞄と靴を取り出して出て行きました。
9時53分に出ました。少し物足りなさが残ったので、近々再訪を考えました。事前予約制のため、開いてるかどうか確かめてからとなるから😊。
今日は、城内で行く所があるので、最短コースで向かいます。再び、本丸御殿の横を通って本丸を出て行きます。
また「東橋」を渡りました。行きとちがい、人が格段に増えて来ました。
二の丸庭園も人が多すぎ😊。それで写真を撮らずに、二の丸庭園も出て行きます。
二の丸御殿の前を通りました。凄い人です。入りたくもありません😊。
この日、本丸御殿の参観のあとに、行く予定にしていたのは、「展示収蔵庫」です。
展示収蔵庫では、10月10日(木)~12月8日(日)まで、「令和6年度 秋期展」が始まってました。タイトルが「 葵から菊へ ~〈白書院〉一の間・二の間~」
夏場は暑くて、ここの冷房が気持ち良かったけど、今日はじっくり観賞させて貰いました。
葵から菊へ ~〈白書院〉一の間・二の間~ 1884年(明治17年)、二条城が二条離宮になると、皇太子時代の大正天皇が本丸御殿を宿泊所としました。〈白書院〉は、天井に至るまで飾金具が葵から菊の紋に変えられ、皇族の御座所となったことがうかがえます。江戸時代、一の間は将軍の居室として用いられ、ゆったりとした湖畔の眺望が障壁画に描かれます。明治時代、くつろぎの空間を飾った《西湖図》は、新たな主人も癒したことでしょう。
いつもは、ここで休憩しますが、迎えに来て貰う時間もあるので、今日は寄らずに帰ります。暑かったので、生ビール飲みたかったけど😊。
10時13分に「東大手門」を出て行きました。やっぱりここは早く行かないと、平日でも混雑してました。
この日飲みたかった最低気温は、20.0℃で、平年より随分高いです。曇っていたので、最高気温は25.6℃しか上がりませんでしたが、10月の中頃と思えないほど蒸し蒸ししてました。この日の翌日のニュースでは、関東の学校では、京都を修学旅行の行き先を敬遠する学校が増えてきたそうです。インバウンドで混雑してるので、人気の神社仏閣を予定どおり回れなくなったからとのことです。インバウンドの方に合わせて、宿泊代や飲食代も高くなっているみたいですね。学生さんの僅かな小遣いでの飲食代高騰は可愛そうです。京都市民も、市バスに乗れない、タクシーは捕まらないなど、オーバーツーリズムなんとかしてほしいです。今後、54%の学校が行き先の変更を検討されているようです。日本人が京都に行けないのは、あまりにも可笑しいです😡。
天気予報士さんが面白話しをしてました。10月16日現在、290日で、京都市では夏日が157日、真夏日が102日、猛暑日が54日、熱帯夜が64日と、真夏日、猛暑日、熱帯夜が過去最高日数だそうです。ここ最近、暑くなったので、夏日も更新するかもです。290日中、54%が夏日とは・・・京都は熱帯地方かなぁ・・・?😊。
この記事へのコメント
大したものですね。こうした予約制で、人数限定の
見学にも使えるんですか。「この紋所が目に入らぬか」
という葵の御紋の印籠に近い威力かも知れません。
貴重な本丸御殿の内部が見学出来て
何よりです。撮影禁止なのは残念ですけど、
比叡山を見渡す天守台からの眺めなど、
いつもながら素晴らしいものがあると思いました。
今回、9月1日から本丸御殿の参観を再開されるときに、京都市民限定の年間バスボートも使えるときき嬉しかったです。
多分、来年も購入するかと思います。
本丸御殿も、部屋の保存のため、2回にわけて公開されるので、11月20日から変わります。また、それ以降多分行きます。