足利尊氏生誕の地 景徳山 安国寺へ
京都府綾部市の国道27号線沿いにある「ローソン 綾部渕垣店」を出て、国道27号を北上していると、「安国寺」の標識が出てました。特に順番を決めていたわけでもないので、さっそく最初の訪問地として寄って行くことになりました。ナビの誘導もあって道路は狭かったけど、景徳山 安国寺の駐車場に9時6分に着きました。
景徳山 安国寺は、臨済宗東福寺派の寺院。寺伝によると安国寺は、993年(正暦4年)に地蔵菩薩を本尊とし光福寺として創建された。1252年(建武4年)に勧修寺(かじゅうじ)重房が上杉荘を賜り、以降、「上杉」を姓とすることとなった。以降、光福寺は上杉家の菩提寺となります。上杉重房の妹は足利頼氏の妻となり、重房の孫娘の上杉清子は足利貞氏に嫁して尊氏、直義を産み、そのことで上杉氏と足利氏が密接な姻戚関係を結ぶことになり、以後足利氏の外戚として重きをなしていきます。1305年(嘉元3年)足利尊氏の誕生によって、光福寺は足利家からの帰依を受け、南北朝時代のはじめ足利尊氏が弟の直義と共に、夢窓疎石の勧めによって、1331年(元徳3年)4月29日~1333年(元弘3年)6月5日に起こった「元弘の乱」以降に亡くなった多くの戦没者の霊を慰めるため、全国66箇所に「安国寺 利生塔」を建てることににり、光福寺を丹波の安国寺とし、諸国安国寺の筆頭に置きました。1342年(康永元年)足利尊氏は、南禅寺に住したた天庵妙受大和尚を招請して安国寺の始祖とし、多くの寺領を寄進。それ以降、塔頭16、支院28を有する大寺院であったが、江戸中期に至るまでの間に、大半の寺領は押領されて、江戸時代末期には塔頭・支院は廃寺となっていき、明治末期には常光寺を残すのみとなりました。多くの重要文化財、京都府指定・綾部市指定文化財を有し、また、境内にある紅葉が美しく、「もみじ寺」と呼ばれる名所となってる古刹です。 足利尊氏の母が男子出生を祈願したとされる地蔵菩薩は、今も子安地蔵として信仰を集め、 周辺には尊氏の産湯井戸や、尊氏夫妻と母のものとされる墓も残されています。
ここは紅葉の名所であるのは知って来ましたが、「開山堂」の「正賡庵(しょうこうあん)」辺りの紅葉が綺麗に色づいてます。
その右横にある宝篋印塔に注目です。中央が足利尊氏、左側が母の上杉清子、右側が妻の赤橋登子のものです。室町幕府2代将軍足利義詮が遺骨一分を奉納して建立したものです。
この開山堂に通じる「門」には、1794年(寛政6年)再建、1904年(明治36年)再々建、2001年(平成13年)全面修理と書いてあって、山家城主谷家の門を移築したそうです。
この移築された門の周りのモミジが色づいてました。最盛期には真っ赤に染まるのでしょう。
先ずは、茅葺き屋根の「仏殿(本堂)」に向かいました。
安国寺の伽藍は、1735年(享保20年)6月の山津波で裏山が崩れ、仏殿のほか諸堂が倒壊し埋没したあと整地されたのが現在の寺地です。仏殿は1743年(寛保3年)に再建されたものです。屋根は茅葺きの入母屋造り、桁行五間、梁行五間の単層。床は四半敷にし、中央の天井は鏡天井を避けて格天井とし、正面両脇には花頭窓を配しています。
堂内には入れませんが、外から内陣は明るいので見えます。ここでお参りさせて貰いました。
本尊の木造釈迦如来座像を中央に、右には獅子に乗った文殊菩薩坐像、左には象に乗った普賢菩薩坐像の両脇侍を祀り、釈迦三尊像の右手には木造地蔵菩薩半跏像が祀られていました。いずれも重要文化財に指定されています。
正面に見えているのが「書院」で、そま前庭が「清龍庭」があります。手前は枝垂れ桜のようでした。庭園の石はすべて中国の西安より運んでようです。
この境内に入ってきたとき、ちょうど車で出て行かれた方がご住職かどうか知りませんが、御朱印を貰おうと尋ねたんですがお留守のようでした。もう少し早く来たら良かったなぁ。
お寺の由緒書はありました。100円を賽銭箱に入れる方式です。「タダではありません」と書いてありましたね😊。山門横には「鐘楼」もありました。
帰りは駐車場から遠回りになりますが、「山門」から出て行きました。
この山門を注目すると、扉の彫刻には足利家の家紋である「二つ引」が掘られている。のを見つけました。
この山門を出るとモミジのトンネルですね、真っ赤に染まる山門も見てみたいですが、今年はもう綾部市には来ないです。
この山門は、1838年(天保9年)に住持の大柱妙甫(だいちゅうみょうほ)が山門再興を志して国中を勧化し、1843年(天保14年)に再建されたものです。再建の大工は棟札によって天田郡観音寺の大槻由平時秀と亀岡の田中仙助忠茂であったことがわかりました。1988年(昭和63年)4月15日、京都府登録文化財ととして登録されました。
京都北部では京都市より早く紅葉するかと思いますが、まだ緑が多いです。今年の紅葉は遅れています。
JR舞鶴線「梅迫駅」から歩いて来たら、ここから入るかと思います。ただ本数が少ないので電車では・・・?。
景徳山 安国寺に来たら、ここには必ず寄りたいです。「足利尊氏産湯の井」とありました。
この地域はもと上杉荘と呼ばれ1252年(建長4年)から上杉氏の所領となり、庄内に居館を構えていました。上杉頼茂の娘清子は足利貞氏に嫁ぎ、出産のため故郷の丹波に帰り安国寺門前の別邸に住んで、当時の地蔵菩薩に安産を祈願し、1305年(嘉元3年)に尊氏を生んだと伝わり、この井戸は、その産湯として使用されたという言い伝えが残っています。この別邸は、のちに安国寺へ寄進され常光寺という門外塔頭となっていましたが、大正初年廃寺となり、現在は地元の公会堂になっています。
9時25分頃、ここを出ました。次は当初の予定どおり舞鶴市に向かいます。もちろん高速道路は利用しません。車は国道27号を北上。西舞鶴から東舞鶴に入っから、海上自衛隊 北吸係留所、舞鶴赤れんがパーク、舞鶴引揚記念館の前を通りました。京都府舞鶴市に入っても霧は少し残っています。これから山道に入りそうな?そんな予感があるほど道幅が狭くなってきました。
景徳山 安国寺は、臨済宗東福寺派の寺院。寺伝によると安国寺は、993年(正暦4年)に地蔵菩薩を本尊とし光福寺として創建された。1252年(建武4年)に勧修寺(かじゅうじ)重房が上杉荘を賜り、以降、「上杉」を姓とすることとなった。以降、光福寺は上杉家の菩提寺となります。上杉重房の妹は足利頼氏の妻となり、重房の孫娘の上杉清子は足利貞氏に嫁して尊氏、直義を産み、そのことで上杉氏と足利氏が密接な姻戚関係を結ぶことになり、以後足利氏の外戚として重きをなしていきます。1305年(嘉元3年)足利尊氏の誕生によって、光福寺は足利家からの帰依を受け、南北朝時代のはじめ足利尊氏が弟の直義と共に、夢窓疎石の勧めによって、1331年(元徳3年)4月29日~1333年(元弘3年)6月5日に起こった「元弘の乱」以降に亡くなった多くの戦没者の霊を慰めるため、全国66箇所に「安国寺 利生塔」を建てることににり、光福寺を丹波の安国寺とし、諸国安国寺の筆頭に置きました。1342年(康永元年)足利尊氏は、南禅寺に住したた天庵妙受大和尚を招請して安国寺の始祖とし、多くの寺領を寄進。それ以降、塔頭16、支院28を有する大寺院であったが、江戸中期に至るまでの間に、大半の寺領は押領されて、江戸時代末期には塔頭・支院は廃寺となっていき、明治末期には常光寺を残すのみとなりました。多くの重要文化財、京都府指定・綾部市指定文化財を有し、また、境内にある紅葉が美しく、「もみじ寺」と呼ばれる名所となってる古刹です。 足利尊氏の母が男子出生を祈願したとされる地蔵菩薩は、今も子安地蔵として信仰を集め、 周辺には尊氏の産湯井戸や、尊氏夫妻と母のものとされる墓も残されています。
ここは紅葉の名所であるのは知って来ましたが、「開山堂」の「正賡庵(しょうこうあん)」辺りの紅葉が綺麗に色づいてます。
その右横にある宝篋印塔に注目です。中央が足利尊氏、左側が母の上杉清子、右側が妻の赤橋登子のものです。室町幕府2代将軍足利義詮が遺骨一分を奉納して建立したものです。
この開山堂に通じる「門」には、1794年(寛政6年)再建、1904年(明治36年)再々建、2001年(平成13年)全面修理と書いてあって、山家城主谷家の門を移築したそうです。
この移築された門の周りのモミジが色づいてました。最盛期には真っ赤に染まるのでしょう。
先ずは、茅葺き屋根の「仏殿(本堂)」に向かいました。
安国寺の伽藍は、1735年(享保20年)6月の山津波で裏山が崩れ、仏殿のほか諸堂が倒壊し埋没したあと整地されたのが現在の寺地です。仏殿は1743年(寛保3年)に再建されたものです。屋根は茅葺きの入母屋造り、桁行五間、梁行五間の単層。床は四半敷にし、中央の天井は鏡天井を避けて格天井とし、正面両脇には花頭窓を配しています。
堂内には入れませんが、外から内陣は明るいので見えます。ここでお参りさせて貰いました。
本尊の木造釈迦如来座像を中央に、右には獅子に乗った文殊菩薩坐像、左には象に乗った普賢菩薩坐像の両脇侍を祀り、釈迦三尊像の右手には木造地蔵菩薩半跏像が祀られていました。いずれも重要文化財に指定されています。
正面に見えているのが「書院」で、そま前庭が「清龍庭」があります。手前は枝垂れ桜のようでした。庭園の石はすべて中国の西安より運んでようです。
この境内に入ってきたとき、ちょうど車で出て行かれた方がご住職かどうか知りませんが、御朱印を貰おうと尋ねたんですがお留守のようでした。もう少し早く来たら良かったなぁ。
お寺の由緒書はありました。100円を賽銭箱に入れる方式です。「タダではありません」と書いてありましたね😊。山門横には「鐘楼」もありました。
帰りは駐車場から遠回りになりますが、「山門」から出て行きました。
この山門を注目すると、扉の彫刻には足利家の家紋である「二つ引」が掘られている。のを見つけました。
この山門を出るとモミジのトンネルですね、真っ赤に染まる山門も見てみたいですが、今年はもう綾部市には来ないです。
この山門は、1838年(天保9年)に住持の大柱妙甫(だいちゅうみょうほ)が山門再興を志して国中を勧化し、1843年(天保14年)に再建されたものです。再建の大工は棟札によって天田郡観音寺の大槻由平時秀と亀岡の田中仙助忠茂であったことがわかりました。1988年(昭和63年)4月15日、京都府登録文化財ととして登録されました。
京都北部では京都市より早く紅葉するかと思いますが、まだ緑が多いです。今年の紅葉は遅れています。
JR舞鶴線「梅迫駅」から歩いて来たら、ここから入るかと思います。ただ本数が少ないので電車では・・・?。
景徳山 安国寺に来たら、ここには必ず寄りたいです。「足利尊氏産湯の井」とありました。
この地域はもと上杉荘と呼ばれ1252年(建長4年)から上杉氏の所領となり、庄内に居館を構えていました。上杉頼茂の娘清子は足利貞氏に嫁ぎ、出産のため故郷の丹波に帰り安国寺門前の別邸に住んで、当時の地蔵菩薩に安産を祈願し、1305年(嘉元3年)に尊氏を生んだと伝わり、この井戸は、その産湯として使用されたという言い伝えが残っています。この別邸は、のちに安国寺へ寄進され常光寺という門外塔頭となっていましたが、大正初年廃寺となり、現在は地元の公会堂になっています。
9時25分頃、ここを出ました。次は当初の予定どおり舞鶴市に向かいます。もちろん高速道路は利用しません。車は国道27号を北上。西舞鶴から東舞鶴に入っから、海上自衛隊 北吸係留所、舞鶴赤れんがパーク、舞鶴引揚記念館の前を通りました。京都府舞鶴市に入っても霧は少し残っています。これから山道に入りそうな?そんな予感があるほど道幅が狭くなってきました。
この記事へのコメント