細川頼之公が建立した衣笠山 地蔵院(竹の寺)の紅葉
12月5日(木)から、長い長い長い間続いた高温傾向が終わり、この日から大変寒くなりました。天気予報士さんの話しでは、もう平年より高温になることは無いと断言されてました。最低気温も4.4℃、最高気温も13.6℃しか上がりません。そして、翌日の12月6日(金)の最低気温は、3.9℃しかなく大変寒くなりました。これで、遅れていた紅葉も一気に進むでしょう。
12月6日(金)でも京都の紅葉は、まだまだ見頃が続いています。この日は洛西にある、古刹の紅葉を見に車で出掛けました。場所は、世界文化遺産の西芳寺(苔寺)や鈴虫寺の近くにある、細川頼之公が建立した衣笠山 地蔵院(竹の寺)です。ここの紅葉は、2021年(令和3年)11月25日(木)に来て以来、ただ、この日の目的は、ここではなく9時30分から開門され、春と秋に特別公開される寺院です😊。
この日は所用があったので、所用先から車で向かいました。周辺のコインパーキングを探しましたが、選んだのは「鈴虫寺前第3駐車場」で、入庫は8時54分。ここから衣笠山 地蔵院(竹の寺)から向かいます。
車から降りたら、目の前が綺麗な紅葉でした。例年なら散り始めている紅葉も、まだまだ見頃が続いています。
この石段の右側が「京都バス苔寺鈴虫寺バス停」です。その横の石段を登って行きます。
衣笠山 地蔵院(竹の寺)の前に9時00分に着きました。開門前に2組の方が待たれてました。私が着いたと同時に開門されたようです。


「山門」を入って左手に拝観受付所があります。そこで拝観料500円を納め境内に入りました。

通称の「竹の寺」と呼ばれるだけに、参道の両側に竹林が広がっています。このあと綺麗な紅葉を見ながら歩きます。
衣笠山(きぬがさやま)と号する臨済禅宗の寺で、通称、「谷の地蔵」や、境内が広く竹林で覆われていることから「竹の寺」とも呼ばれている。この地には、もと歌人の衣笠内大臣藤原家良(ふじわらのいえよし)の山荘があったが、家良の没後、1367年(貞治6年)に、管領の細川頼之(ほそかわよりゆき)が、宗鏡(そうきょう)禅師に深く帰依して当寺を創建した。勧請開山は夢窓国師、自らは第2世となった。その後、北朝系の崇光天皇・後光厳天皇・後円融天皇の勅願寺に準ぜられた。また、細川家の庇護を受け、次々と伽藍を建立し、境内塔頭三院、末寺23寺を数える一大禅刹となったが、応仁の乱により堂舎は悉く焼失。その後、江戸時代の1686年(貞享3年)に、第14世古霊和尚によって寺観が整えられた。現在の本堂(地蔵堂)は、1935年(昭和10年)に再建したもので、堂内には、本尊の延命安産地蔵菩薩のほか、夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像を安置している。また、方丈前には、「十六羅漢の庭」と呼ばれる枯山水庭園があり、羅漢に見立てられた十六個の自然石が配されている。本堂南には、宗鏡禅師、細川頼之の墓がある。なお、一休禅師が幼少のころ修養された寺でもある。境内一円が鮮やかな苔に覆われ、また、楓が多いため、春は新緑、秋は紅葉が美しい。
この「本堂」は「地蔵堂」と呼ばれ、1935年(昭和10年)の再建です。堂内中央には伝教大師の作と伝わる本尊の「延命安産地蔵菩薩像」を右脇に開山の「夢想国師像」、第2世の「宗鏡禅師」、左脇に開基「細川頼之公像」を安置。内部は見えますが撮影禁止です。
「本堂(地蔵堂)」の右手奥には「鎮守堂」があって、この辺りも紅葉が綺麗です。

まだ緑の葉も残っているので、これから見頃となりそうな紅葉です。

庭園入口にある「中門」をくぐります。最初に来たとき、ここから先は撮影禁止でしたが・・・。
中門を入った正面は「庫裏」ですが、非公開です。左手にある庭園入口に向かいます。

庭園を見られる方丈に上がるための門をくぐります。



「方丈」に上がるため「玄関」から靴を下駄箱に入れ上がります。
入ると2021年(令和3年)11月25日(木)で見た、細川護煕元首相揮毫の「海南行」を見ました。細川護熙元首相が奉納した襖絵は3種あって、こちらの公開は3月~12月の公開となっています。
細川頼之(ほそかわよりゆき)は、1367年(貞治6年)に地蔵院を建立したあと、室町幕府2代将軍足利義詮の遺言通り、管領として幼少の3代将軍足利義満に代わって政権を担当した。ところが、それを妬む斯波・土岐・山名氏などのライバル大名たちが1379年(康暦元年)にクーデターを起した、いわゆる「康暦(こうりゃく)の政変」で、頼之は失脚し、領国の讃岐への退去を命じられ、そのときに地蔵院に立ち寄って詠んだのが「海南行」と題される七言絶句である。
2021年(令和3年)7月26日に初めて見た「瀟湘(しょうしょう)八景の図」の襖絵の公開は1月~2月。(この日は公開されてません)
私は、まだ見てませんが水墨画の「瀑布図」は、1月~2月の公開となっています。紫外線による劣化防止のためだそうです。

「方丈」に入って座り、「十六羅漢の庭」(京都市登録名勝庭園)を見ます。ただ、冬の太陽の日差しが正面から入ってきて・・・。


方丈の裏には茶室「猪目(いのめ)窓」があります。バックが「竹の寺」と呼ばれる由縁となる竹藪が、手前のモミジは日当たりが悪いのか色づいてません。

方丈の仏間には、「毘沙門天像」が祀られています。そして、ここのメインである庭園を見てます。



この庭は、細川頼之公が愛した「十六羅漢の庭」と呼ばれる平庭式枯山水庭園です。
地蔵院2世宗鏡(そうきょう)禅師の作と伝わる。十六羅漢の修行の姿を表したもので、石の一つ一つは羅漢を意味している。ここの羅漢は、男山八幡宮に願いを懸けているので、その方向(左手)に傾いている。ここでは5種類の椿(胡蝶侘助・袖隠・獅子頭・白侘助・藪椿)が咲く。
最後に方丈に架かっていた、細川家の家紋「細川九曜紋」を撮って出ていきました。


玄関を出てから「十六羅漢の庭」を撮りました。種類は分かりませんが椿の花が咲いています。


方丈を出て中門を出ると、このように参道脇に紅葉が広がっています。ただ、逆光で眩しいのが・・・。


ここを出る前に、本堂の奥に行ってみます。
こちらに「一休禅師母子像」の石像があるので寄りました。前途したとおり、「竹の寺 地蔵院」にて、6歳で安国寺に入られるまで、ここで過ごされたのを記念して建立されたものです。

左奥には墓が二基ならんでおり、こちらは室町幕府管領の「細川頼之公墓所」で細川護煕元首相は子孫にあたります。

こちらは地蔵院第二世「宗鏡禅師墓所」です。自然石を置いただけの簡素なものです。これは遺言によるものとありました。
2020年(令和2年)3月11日に、頼之公の墓所復興を願い細川護煕元首相が寄贈された「枝垂れ桜」は、円山公園の枝垂れ桜の孫木にあたります(佐野藤右衛門師御手植えによる)。


綺麗な紅葉を見ながら出口に向かう途中にある「細川頼之公の碑」に寄りました。細川潤次郎氏が1891年(明治24年)2月に建立したものです。頼之公の功績が詳しく書かれているとあるそうです。


9時22分に、地蔵院の「山門」から出て行きました。この時間になると多くの方が来られるようになってました。


9時23分、今日の目的地である「秋の特別公開」されている寺院に向かいます。
こちらは散りモミジに魅力があって、「地蔵院 竹の寺」では、この日から8日から10日ほど先に「散りモミジ」になりそうと出されてました。多分、再訪はしないと思います。
12月6日(金)でも京都の紅葉は、まだまだ見頃が続いています。この日は洛西にある、古刹の紅葉を見に車で出掛けました。場所は、世界文化遺産の西芳寺(苔寺)や鈴虫寺の近くにある、細川頼之公が建立した衣笠山 地蔵院(竹の寺)です。ここの紅葉は、2021年(令和3年)11月25日(木)に来て以来、ただ、この日の目的は、ここではなく9時30分から開門され、春と秋に特別公開される寺院です😊。
この日は所用があったので、所用先から車で向かいました。周辺のコインパーキングを探しましたが、選んだのは「鈴虫寺前第3駐車場」で、入庫は8時54分。ここから衣笠山 地蔵院(竹の寺)から向かいます。








衣笠山(きぬがさやま)と号する臨済禅宗の寺で、通称、「谷の地蔵」や、境内が広く竹林で覆われていることから「竹の寺」とも呼ばれている。この地には、もと歌人の衣笠内大臣藤原家良(ふじわらのいえよし)の山荘があったが、家良の没後、1367年(貞治6年)に、管領の細川頼之(ほそかわよりゆき)が、宗鏡(そうきょう)禅師に深く帰依して当寺を創建した。勧請開山は夢窓国師、自らは第2世となった。その後、北朝系の崇光天皇・後光厳天皇・後円融天皇の勅願寺に準ぜられた。また、細川家の庇護を受け、次々と伽藍を建立し、境内塔頭三院、末寺23寺を数える一大禅刹となったが、応仁の乱により堂舎は悉く焼失。その後、江戸時代の1686年(貞享3年)に、第14世古霊和尚によって寺観が整えられた。現在の本堂(地蔵堂)は、1935年(昭和10年)に再建したもので、堂内には、本尊の延命安産地蔵菩薩のほか、夢窓国師、宗鏡禅師、細川頼之の木像を安置している。また、方丈前には、「十六羅漢の庭」と呼ばれる枯山水庭園があり、羅漢に見立てられた十六個の自然石が配されている。本堂南には、宗鏡禅師、細川頼之の墓がある。なお、一休禅師が幼少のころ修養された寺でもある。境内一円が鮮やかな苔に覆われ、また、楓が多いため、春は新緑、秋は紅葉が美しい。














細川頼之(ほそかわよりゆき)は、1367年(貞治6年)に地蔵院を建立したあと、室町幕府2代将軍足利義詮の遺言通り、管領として幼少の3代将軍足利義満に代わって政権を担当した。ところが、それを妬む斯波・土岐・山名氏などのライバル大名たちが1379年(康暦元年)にクーデターを起した、いわゆる「康暦(こうりゃく)の政変」で、頼之は失脚し、領国の讃岐への退去を命じられ、そのときに地蔵院に立ち寄って詠んだのが「海南行」と題される七言絶句である。

私は、まだ見てませんが水墨画の「瀑布図」は、1月~2月の公開となっています。紫外線による劣化防止のためだそうです。











地蔵院2世宗鏡(そうきょう)禅師の作と伝わる。十六羅漢の修行の姿を表したもので、石の一つ一つは羅漢を意味している。ここの羅漢は、男山八幡宮に願いを懸けているので、その方向(左手)に傾いている。ここでは5種類の椿(胡蝶侘助・袖隠・獅子頭・白侘助・藪椿)が咲く。

























こちらは散りモミジに魅力があって、「地蔵院 竹の寺」では、この日から8日から10日ほど先に「散りモミジ」になりそうと出されてました。多分、再訪はしないと思います。
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