滝口と横笛の旧蹟 滝口寺(旧往生院三宝寺)へ

祇王寺を出て、今日は2021年(令和3年)9月6日(月)以来、来て無かった滝口寺に行くつもりでした。祇王寺から滝口寺の拝観受付所は見えませんが、ライトが付いているのが見えたので、拝観はされていると思われます。猿が怖かったけど、せっかくここまで来たので行って見ることにしましたが、さて猿は?。

IMG_0853.jpg祇王寺の表門を出て、右手を登ると滝口寺があります。この時、9時8分でした。

IMG_0969.jpgIMG_0916.jpg祇王寺に居た猿が上へ上へと登って行く音が聞こえるなか、「表門」を入った所にある「拝観受付所」で300円納めました。

余談ですが、2012年(平成24年)4月15日に来た時も拝観料は300円でした。ずっと値上げされてないですね。拝観料を納めたら、境内に入ります。ただ、猿についての説明は無かったです。

滝口寺は、もと法然の弟子念仏房良鎮が開創した往生院の子院三宝寺と称し浄土宗に属したが、明治維新の際に、廃絶してしまいました。かつて三宝寺には滝口入道と横笛との悲恋の物語が伝わえられていたところから滝口寺と呼ばれていました。近年、有志によって庵室が建てられ清涼寺内の史跡となって蘇った。本堂には出家して滝口入道と称した斎藤時頼と横笛の坐像を本堂に安置。平重盛(清盛の嫡男・重盛)に仕えた武士の斎藤時頼(滝口入道時頼)は、平清盛の西八条殿での花見の宴で、横笛の舞姿を見て恋心を抱き、恋文を送るようになりました。やがて二人は恋に落ちましたが、時頼の父の厳しい叱責にあい、時頼は俗世を捨て奥嵯峨の往生院に出家してしまいます。横笛はその話を聞き、探し当てますが、滝口入道は、頑なに会うのを拒み、横笛は泣く泣く帰っていたそうです。滝口入道は修行の妨げになるため、女人禁制の高野山に移ります。それを聞いた横笛は悲観にくれて大堰川に身を投げたとも、奈良法華寺で尼になったとも言われてますが、心の傷は拭えきれず暫くしてこの世を去ったと言う。それを伝え聞いた滝口入道は、より一層修行に励み高野の聖といわれる高僧になったと伝わります。また滝口寺には、新田義貞の首塚が表門の左奥にあります。鎌倉幕府を倒した武将 新田義貞は越前で足利尊氏との戦いで討ち死にし、首が三条河原で晒しものにされました。妻の勾当内侍(こうとうのないし)は、夫の首を密かに盗み出し、出家してこの地で夫を弔ったと言う。

IMG_0957.jpg表門を入って、さっそく左手に進みました。最初は「勾当内侍(こうとうのないし)供養塔」から。

南北朝時代の女性。生没年不詳。後醍醐天皇に仕え,勾当内侍の職にあったので,その名をもって呼ばれる。一条経尹あるいは一条行尹の娘、または一条行房の娘もしくは妹とも言う。新田義貞に見そめられ,天皇の許しを得て義貞の妻となった。1338年(延元3年・建武5年)7月2日、新田義貞は越前国藤島(現在の福井市)の「灯明寺畷の戦い」において、斯波高経が送った細川出羽守、鹿草公相の軍勢と交戦中に眉間に矢を受け戦死。夫の戦死後、尼になって洛西嵯峨に住み、夫の菩提をとむらった。一説には琵琶湖に身を投げて義貞のあとを追ったともいう。

IMG_0918.jpgIMG_0919.jpg「勾当内侍(こうとうのないし)供養塔」の右横にあるのが「新田義貞公首塚」です。福井県の称念寺には「新田義貞公墓所」があって行ったことがあります。

新田義貞は、1301年(正安3年)生まれ。本名は源義貞。源義国(みなもとのよしくに)の長男義重(よししげ)の子孫。義重が、上野国新田荘(現在の群馬県太田市付近)を任せられたことから、新田姓を名乗るようになった。1331年(元徳3年/元弘元年)に、後醍醐天皇(第96代天皇)の勢力と鎌倉幕府の間で「元弘の乱」が勃発。同乱で新田義貞は当初、鎌倉幕府方に付き、後醍醐天皇方の楠木正成との包囲戦「千早城の戦い」に従軍した。しかし、その翌年に新田義貞は、同合戦の途中で帰国。その後、後醍醐天皇の皇子護良親王(もりよししんのう)の綸旨を受け、鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵。鎌倉幕府滅亡させることに成功させる。この功績が高く評価された新田義貞は、後醍醐天皇による「建武の新政」下で、越後守や上野介などを兼任。そのあと、足利尊氏が建武政権に背くと、その討伐のために各地を転戦。「箱根・竹ノ下の戦い」などで敗れた新田義貞は、北陸へと下り、1338年(延元3年・建武5年)7月2日、越前国藤島(現在の福井市)の「灯明寺畷の戦い」において、斯波高経が送った細川出羽守、鹿草公相の軍勢と交戦中に眉間に矢を受け戦死する。

IMG_0959.jpgIMG_0960.jpgIMG_0961.jpgIMG_0962.jpgIMG_0963.jpgIMG_0964.jpgIMG_0965.jpg首塚」の前には、新田家の家紋「一つ引き紋(にったひとつひき)」が見えます。

IMG_0921.jpgIMG_0922.jpgこの石段を登り、本堂に向かいます。その前に、石標を見て行きます。

IMG_0923.jpgIMG_0924.jpgIMG_0925.jpg石段を少し登った先に石碑があります。横笛が指を切った血で書いて帰ったとされる歌碑だそうです。「山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我を導け」。

IMG_0954.jpg石段を登り切ると、このような広場になっています。本堂は、この先にあります。

余談ですが、石段の右手が祇王寺にあたり、猿の群れが居たところです。祇王寺には人が来られているので、それを見て猿は逃げます。一匹や二匹なら問題なんですが、あれだけ居ると怖いです。ここも早々に退散したい気分・・・。

IMG_0926.jpgIMG_0928.jpg茅葺き屋根の「本堂」です。ここは後程上がります。

IMG_0929.jpg本堂の前に深く覆い茂った竹藪の中にあるのが「平家供養塔(十三重塔)」を先に見ました。滝口入道と平家一門の供養塔です。

この十三重塔の裏手から本堂に至る庭園を巡ることができますが、今日は勇気が要ります。あの猿の群れを見たらね。

IMG_0930.jpgIMG_0932.jpgここから本堂に上がりました。

IMG_0935.jpg本堂に安置されてる仏像です。「滝口入道木像」(右) 「横笛木像」(左)は 鎌倉後期の作で、眼が水晶(玉眼)となっており往生院遺物の一つだそうです。

IMG_0936.jpgIMG_0939.jpgIMG_0940.jpgIMG_0941.jpgIMG_0942.jpgまさか、ここまで猿は来ないでしょう。外にはガサガサ音はしてますが、この写真を撮って本堂から降りました。

IMG_0943.jpgここで、「巡回路(庭園)」(竹林の道)と書いてあります。私はビビリですが、ここまで来たので行ってみることにしました。

IMG_0944.jpgIMG_0945.jpgIMG_0946.jpgこの先を進むわけです。右手の森には猿が居ます。怖かったけど、ここまで来たので行きます。

IMG_0947.jpgIMG_0948.jpgIMG_0949.jpg案内にしたがって進むと、前方に「小松堂」まで来ました。こちらに平重盛が祀られています。

平重盛は、平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。 保元・平治の乱で若き武将として父・清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身に伴って累進していき、最終的には左近衛大将、正二位内大臣にまで出世した。通称は、小松内府(こまつのないふ)、灯籠大臣(とうろうのだいじん)。病弱のため父に先立って死去した。

IMG_0950.jpgこの先の「竹林の道」を抜けると「平家供養塔(十三重塔)」に出るですが、さすがに、怖いのでこれ以上は無理で引き返しました。

IMG_0951.jpg小松堂があるので、怖かったけど行きました。もうこれ以上はここに居られないので出て行きます。

IMG_0953.jpgここを下るときに、私の猿が横切りました。さすがに驚きましたが、声は出してません😊。滑り落ちそうになりましたね。

IMG_0955.jpgIMG_0967.jpg9時17分に「表門」から出て行きました。

IMG_0968.jpgこの先の左手が祇王寺の表門です。下っていくとき、数人が入って行かれました。祇王寺は人気がありますね。

IMG_0970.jpg祇王寺の表門から、帰りは違うルートから帰ります。

IMG_0971.jpgIMG_0972.jpgIMG_0973.jpgIMG_0974.jpgIMG_0975.jpgIMG_0976.jpgIMG_0977.jpgIMG_0978.jpg今日は、まさか猿があんなに居るとは・・・ハプニングで、ゆっくり見ることはできませんでしたね、また季節が良いときに再訪します。

祇王寺にけっこうな人が来られますが、滝口寺には行っても空いてます。ここでは人と出会ったことが無いかもです。本当は、ここから化野念仏寺まで行くつもりでしたが、ここより奥にある化野念仏寺にも猿が居るかもと思い、断念し帰りました。

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