「京都十六社朱印めぐり」吉祥院天満宮からスタート
10年連続となる「京都十六社朱印めぐり」を、今年は1月5日(日)に、吉祥院天満宮からスタートしました。
いつも吉祥院天満宮には、公共交通を利用して行ってましたが、今年は車で向かいました。車で行くのは初めてですし、地図は何度も確認。私はナビは殆ど利用しません。この日は所用があったので、終わり次第車で向かった訳です。そして、事前に地図で調べていた通りに車で走り、吉祥院天満宮には9時3分に着きました。
吉祥院天満宮の「南鳥居」です。車は、ここから入ります。
吉祥院天満宮は、菅原道真公がおなくなりになって31年目に当たる934年(承平4年)に菅原家ゆかりの道真公御誕生の地に朱雀天皇(第61代天皇)の勅命により創建された最初の天満宮である(北野天満宮より13年早い)。これより先、平安遷都とともに文章博士として恒武天皇(第50代天皇)に随行された道真公の祖父清公卿は遣唐使の命を受けて唐へ渡航中暴風に遭遇、船上にて吉祥天女の霊験を得て入唐、無事任務を終えて帰国後、自邸内にお堂を建て吉祥天女の尊像をまつった。これが吉祥院の由来で地名の起源となっている。境内には道真公のへその緒を埋めたと伝えられる「胞衣(えな)塚」をはじめ、少年時代に習字に使用したという「硯の水」や顔を写したと伝える「鑑(かがみ)の井」などがある。
予定より早く着いたので、境内は空いてました。先ずは「手水舎」に寄りました。

御祭神は、菅原道真公。ちえと能力開発の神さまで、御利益は受験合格・開運招福とありました。
まだ空いている間に、「京都十六社朱印めぐり」の御朱印をいただきました。
参拝を済ませると、右手にある菅原道真公が、少年時代に習字に使用したという「硯の水」を撮りました。

吉祥院天満宮には、このお正月の時期にしか来たことがありません。ここに来る楽しみの一つが「葉ボタン展」です。






毎年、干支の置物が可愛いので、楽しみにしています。今年は巳年、可愛いヘビの置物でした😊。
今日はお参りに行かなかった「吉祥院(吉祥天女社)」です。ここでは、秘仏「吉祥天像」が、他に菅原清公卿、菅原是善公、伝教大師、孔子が祀られています。
本殿前にある「金のなで牛・くぐり牛」です。菅原道真公が丑年生れで、牛を乗り物として愛用されていたことから牛とのご縁は深く、この大きな金の牛を、それぞれの願い事が成就するようにお祈りします。

こちらは境内の片隅にある、菅原道真公の臍の緒を埋めたと伝えられる「胞衣(えな)塚」です。初宮詣りには、本殿で祈祷の後ここに参り、赤ちゃんの鼻をつまみ泣かせ発声の初めとします。

ここでトイレを借りたので、奥に行ってみました。こちらは「春房稲荷大明神」があって、御祭神は、正一位 春房稲荷大明神だそうです。
そして、本殿の裏側を通ります。
本殿の裏を通って右側に出てくると「五社」があります。右から「白太夫社」「松梅社」「吉野社」「琴比羅社」「秋葉山」と並んでました。
今日は日曜日でしたが、私が出て行くまで空いてました。混雑する三が日を避けて良かったですね、早々に次の目的地に向かいました。
吉祥院天満宮を9時13分頃に出て、次へと向かいましたが、道路は空いていて9時18分に着きました。次は「京都十六社朱印めぐり」の六孫王神社です。
ここは、「桜の名所」で、数知れず訪れました。今では、「京都十六社朱印めぐり」の時期しか来なくなりました。
六孫王(ろくそんのう)は、清和天皇(第56代天皇)の六男を父として生まれ、経基(つねもと)と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていた。15歳にて元服、源の姓を賜わり、源経基(みなもとのつねもと)と名乗り、先例に従い臣籍に加えられたとある。承平天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられた。王は現在の社地に住居を構え、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言された。王の長子満仲公は遺骸を当地に埋葬され(本殿後方に石積の神廟がある)その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりである(平安時代中期)。境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社がある(6月13日弁財天御開帳祭)。江戸時代の江戸幕府5代将軍徳川綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。毎年10月体育の日に例祭(再興が元禄より始まり宝永年間に完成したゆえ別名“宝永祭”とも謂われる)が行われる。王の後裔には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将が多数輩出され、それぞれ子孫繁栄されている。昔は、六ノ宮権現とも呼ばれ、今昔物語に「六の宮」それを基に芥川龍之介が「六の宮の姫君」にも載せている。小泉八雲著の「怪談」には、「弁天の同情」と題して不思議な夫婦の出会いの話が紹介されている。
境内も空いていたので、先に社務所で御朱印をいただきました。そして「手水舎」に向かい・・・。

主祭神が、「六孫王大神(源 経基)」、相殿に「天照皇大御神、八幡大神(源氏の守護神)」。御利益が出世開運・家運隆昌・守護神でした。

今日は午前中に、何箇所か回りたいので、ここは早々に出て行くことにしました。なお、吉祥院天満宮と六孫王神社の駐車場は無料です。
六孫王神社を出て、壬生川通りを南に走り、九条通りに出ます。そこを左折し九条通りを東に走らせると、左手に東寺があります。ほぼ毎日見ていた東寺は懐かしい風景です。九条通りを東に進み、烏丸通り、河原町通り、そして鴨川を渡ると右手に東福寺にあって、道路は北上し、名称も東大路通りと変わります。そして泉涌寺道を少し上がった先に、目的地の新熊野神社(いまくまのじんじゃ)がありますが、ここは駐車場やトレイはありません。ここでは新熊野神社の近くにあるDパーキング南瓦町に9時43分に車を停めました。
9時45分に鳥居前まで来ました。余談ですが、私が車を停めるときに空きは三箇所ありました。私の前に1台、後ろに1台、たちまち満車となりました。
新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は熊野信仰の盛んな平安時代末期の1160年(永暦元年)、生涯34回もの熊野詣をしたという後白河法皇(第77代天皇)によって創建された。後白河天皇は1155年(久寿2年)に即位され、1158年(保元3年)に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときのお住まいとなったのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺である。当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建された。その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子です。当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行けるわけではありません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが新熊野神社で、長らく京の熊野信仰の中心地として栄えた。新熊野神社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっている。その後350年間、新熊野神社は繁栄を極めたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になってしまいました。それを再建されたのが、江戸時代初期、後水尾天皇(第108代天皇)の中宮東福門院(徳川秀忠の娘)で、現在の本殿は1663年(寛文13年)聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)によって修復されたもの。社頭の大樟は当時、熊野より移植されたもので後白河上皇お手植。熊野の神降臨の霊樹と伝え、樹齢九百年、健康長寿・病魔退散・特にお腹の神と信じられ、参詣者が多い。本殿は京都市の重要文化財。 尚、能楽の祖、観阿弥・世阿弥父子は1374年(応安7年)室町幕府第3代将軍・足利義満台覧の下、有名な「新熊野神事猿楽」を演能、これが今日の能楽の礎となった。


境内に入って社務所に行き、ベルを押すと中から出てこられ、御朱印いただきました。
ご祭神は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)、天照大神(あまてらすおおみかみ)、速玉男尊(はやたまのをのみこと)、事解男尊(ことさかのをのみこと)を始め12社の神々。御利益は、健康長寿・病魔退散・特にお腹守護でした。
手水舎の奥に入口があるので入ってみました。
そこには「樟社」があって、祭神は樟大権現だそうです。「影向の大楠(ようごうのおおくすのき)」と呼ばれる大木は樹齢約900年だそうで、「影向」とは神仏か現れるという意味だそうです。
ここも早々に出て行きました。満車となったパーキングに戻り、9時53分に出て行きました。利用時間10分で、200円でした。コインパーキングを出て、東大路通りを北上し、七条通りを左折すると、南に「蓮華王院 三十三間堂」が北に「京都国立博物館」に見ながら、次の交差点を右折し、大和大路通りを北上して行きます。そして正面通りの右手(東側)に豊国神社がありました。
駐車場に入るとき、入口の看板を見ました。そこには30分200円と書いてありますし、係の方も居るようでした。普段は無料で入れるので、ここでは無料だと思い込んで来ました。そこで、妻には悪かったけど、大和大路通り沿いに車を停め、妻を残して私だけ参拝することとなりました。
10時00分に正面の鳥居から境内に入りました。ただ、正面に見えている唐門が開いてます。そこで先に社務所に言って御朱印をいただきました。
ここで聞いてみたんです。「今日は唐門内に入れるのですか?」と。すると「例年なら3日までなんでけど、今年は4日と5日が土曜日曜となったので5日まで延長しました」と。
1598年(慶長3年)8月18日、天下統一を果たした英傑豊臣秀吉公は伏見城においてその波乱に満ちた生涯を終えられた。御遺骸は遺命により東山阿弥陀ヶ峯の頂に葬られ、1599年(慶長4年)、豊臣秀吉公を祀る豊国社が創建された。正一位豊国大明神の神階神号を賜り、社領1万石、境内域30万坪を誇る壮麗かつ壮大な神社であった。毎年4月と8月に行われた豊国祭には朝廷より勅使が遣わされ、北政所を始め豊臣家、諸大名の参拝や寄進が相次いだ。特に1604年(慶長9年)の秀吉公七回忌にあたり斎行された豊国大明神臨時祭は空前絶後の大祭礼であったと諸記録に伝えられている。しかしこのように繁栄を極めた豊国社も1615年(元和元年)、「大坂夏の陣」において豊臣家が滅亡すると徳川家康により廃祀。以後江戸時代を通じ草叢に埋もれてしまっていたが、1868年(明治元年)、明治天皇(第122代天皇)の御沙汰により再興が決定。1873年(明治6年)に別格官弊社(べっかくかんぺいしゃ)に列し、1880年(明治13年)方広寺大仏殿跡地に社殿が造営され名実共に再興された。境内には伏見城の遺構と伝えられる国宝の大唐門が聳え、また1925年(大正14年)北政所豊臣吉子方を祀る貞照(さだてる)神社や秀吉公の遺品・豊国社の社宝を収蔵する宝物館等があり、現在では出世開運の神様として全国より崇敬を集めている。
国宝「唐門」横にある干支の絵馬です。ここの近くにある京都女子大学生が製作したようですね、可愛いです。
神域に入れるとは思って無かったので、ラッキーです。手前の「拝殿」から「本殿」へと向かいます。
御祭神は、「前関白太政大臣 正一位 豊臣秀吉公」。御利益は、出世開運・厄除招福・良縁成就・商売繁昌でした。
本殿前から「拝殿」、「唐門」を見ています。前途したとおり、ここには多くの方が入って来られました。
「本殿」を南側から撮りました。次は北政所を祀る社です。
北政所豊臣吉子方を祀る「貞照(さだてる)神社」です。ここも参拝させて貰いました。


国宝「唐門」を早々に出てきました。元は伏見城の城門であったと伝えられ、南禅寺金地院から移築されました。西本願寺・大徳寺の唐門とともに「国宝の三唐門」と称されます。
唐門の前には陶器の「豊臣秀吉像」があります。この像は太平洋戦争中に制作されましたが、阪神淡路大震災により倒壊。長く蔵の中で保管されてきたそうですが、令和元年の新天皇即位に合わせる形で再び公開されることになったそうです。
10時5分に、正面大鳥居から出て行きました。
次は、正面通りを西に向かって車を走らせます。鴨川に架かる「正面橋」を渡り、そのまま西に進み、土手町通りを右折し北上。上数珠屋町通りを左折し河原町通りに出ました。ここには信号機があるので、河原町通りを右折するのに信号機がある方が良かったから。そのまま北上すると次の目的地である市比賣神社に着きますが、ここも駐車場がありません。そこで近隣のコインパーキングに10時15分に車を停めて向かうことにしました。
10時15分に市比賣神社(いちひめじんじゃ)に着きました。いつもなら河原町通り沿いに納経所がありますが、行ってみると閉まってました。そこで・・・?。
平安時代のより市場の守り神である市比賣社は、「誓約の神(物事の流れを良くする神様)」として多くの人々で賑わってきました。795年(延暦14年)に京都の左右両市場の守護神として左大臣・藤原冬嗣が現在の西本願寺のあたりに創建したのが始まりで、1591年(天正19年)豊臣秀吉の時代に当地に移転鎮座された。1927年(昭和2年)京都に日本初の中央卸売市場が開設された折、分社として「市姫神社」が祀られ、今現在も市場敷地中央にご鎮座されている。御祭神は全て女神様をお祀りしているところから女性の守り神とされ、全ての女性のお願い事にご利益があって、特に時の皇后陛下がお受けになられた「女人厄除け祈祷」は有名で、全国から女性の参拝者が絶えません。「五十日百日之祝(いかももかのいわい)」は生後五十日目・百日目に、当社御神水「天真名井(あめのまない」により、つき上げられた「五十日之餅・百日之餅(いかのもち・ももかのもち)」を授かり、子供の口に含ませ健やかな成長を願う現在のお食べ初めの発祥・源流として知られている。これは「源氏物語」など多くの古典文学にも描かれ、歴史にその名を残している。
御朱印は、入って直ぐの右手にありました。そこで御朱印をいただいたあと参拝です。
ここは境内が狭く、女性の参拝者も多かったので、「本殿」の写真は以前のを使いました。
御祭神が、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)、多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)、神大市比賣命(かみおおいちひめのみこと)、下光比賣命(したてるひめのみこと)。御利益は、女人厄除 祈祷所です。
本殿の参拝を済ませると、奥にある「稲荷神社」と書かれて扁額のある石鳥居をくぐります。
奥には、この神社の御神水「天真名井(あめのまない」と呼ばれる古井戸がありました。
この神社だけは、妻に参拝して貰いたかったので、今日は連れて来ました。圧倒的に女性の参拝者が多いなか、早々にここは出て行きました。
コインパーキングに戻る途中で見えた「京都タワー」です。現在は、「ニデック京都タワー」と言います。
コインパーキングで精算すると、出庫が10時22分で、利用時間は7分、料金は200円でした。ここから再度河原町通りに出て、高辻通りを西に走らせます。西洞院通り、堀川通り、大宮通りを通過すると、私の生まれ育った地です。懐かしい街並みが見たくて、このコースにしました。ただ、随分風景は変わってしまいました。私が利用していた医院も歯医者も今はありません。西新道商店街も今は人が少なかったです。私が子供の頃、あれだけ人で混んでいたのにね、寂しい風景でした。当時は年に一回あるか無いかのお寿司屋さんも無くなってました。そして同級生の前を何軒か通りましたが、今も済んで居るのかなぁ・・・と。車は高辻通りを佐井西通りまで進み、そこから北上します。次は予定にしてませんでしたが、駐車場が空いていたら入るつもりにしていた西院 春日神社です。幸いにも空いていたので、車を停めることができました。
10時45分頃に着きました。ここは普段、トイレはありませんが、臨時のトイレも設置されるほど人が多いです。境内には「西鳥居」から入りました。
835年(天長10年)第53代淳和天皇(じゅんなてんのう)が第54代天皇仁明天皇(にんみょうてんのう)に皇位を譲られ退位される際に淳和院離宮(別名西院・この付近の地名である西院の由来となった)に移られた。この時、奈良の春日大社から分霊をお迎えし、淳和院の守護神とされたのが始まり。以来、皇室をはじめ藤原氏の守護神として今な崇敬を集め、特に淳和天皇皇女崇子内親王(たかこないしんのう)が疱瘡(天然痘)を患われた折、当社に祈願をされたところ、神前の石が内親王の身代りとして疱瘡を生じ、内親王が快癒された事から、病気平癒の守護神として崇められてて、その石は現在も「霊石・疱瘡石」として諸病平癒を祈る多くの人々に信仰されている。境内に祀られている「還来(もどろき)神社」は旅行安全のご利益があり、又、仁孝天皇御胞衣塚(おえなづか)は安産・幼児守護の信仰があり、共に皇室の崇敬を受けている。
ここは本殿前が撮影禁止にされているので、遠目から撮りました。御祭神は、[第一殿] 建御賀豆智命(たけみかづちのみこと) [第二殿] 伊波比主命(いわいぬしのみこと) [第三殿] 天児屋根命(あめのこやねのみこと) [第四殿] 比売神(ひめがみ)。御利益は病気厄除・厄除・病気快癒・交通旅行安全でした。
ここは御朱印とお参りを済ませたら早々に出ました。ここから佐井西通りは北向き一方通行なんで、三条通りに出て西に向かい。途中最近オープンしたスーパーに寄ってから帰りました。この日は、六箇所も回れて良かったです。最低気温が3.5℃、最高気温が11.0℃と、それほど寒く無かったのも良かったですが、ただ今日は車で回ったので関係無かったですね。
いつも吉祥院天満宮には、公共交通を利用して行ってましたが、今年は車で向かいました。車で行くのは初めてですし、地図は何度も確認。私はナビは殆ど利用しません。この日は所用があったので、終わり次第車で向かった訳です。そして、事前に地図で調べていた通りに車で走り、吉祥院天満宮には9時3分に着きました。

吉祥院天満宮は、菅原道真公がおなくなりになって31年目に当たる934年(承平4年)に菅原家ゆかりの道真公御誕生の地に朱雀天皇(第61代天皇)の勅命により創建された最初の天満宮である(北野天満宮より13年早い)。これより先、平安遷都とともに文章博士として恒武天皇(第50代天皇)に随行された道真公の祖父清公卿は遣唐使の命を受けて唐へ渡航中暴風に遭遇、船上にて吉祥天女の霊験を得て入唐、無事任務を終えて帰国後、自邸内にお堂を建て吉祥天女の尊像をまつった。これが吉祥院の由来で地名の起源となっている。境内には道真公のへその緒を埋めたと伝えられる「胞衣(えな)塚」をはじめ、少年時代に習字に使用したという「硯の水」や顔を写したと伝える「鑑(かがみ)の井」などがある。
予定より早く着いたので、境内は空いてました。先ずは「手水舎」に寄りました。


まだ空いている間に、「京都十六社朱印めぐり」の御朱印をいただきました。


















今日は日曜日でしたが、私が出て行くまで空いてました。混雑する三が日を避けて良かったですね、早々に次の目的地に向かいました。
吉祥院天満宮を9時13分頃に出て、次へと向かいましたが、道路は空いていて9時18分に着きました。次は「京都十六社朱印めぐり」の六孫王神社です。

六孫王(ろくそんのう)は、清和天皇(第56代天皇)の六男を父として生まれ、経基(つねもと)と名づけられたが、皇室では六男の六と天皇の孫ということで六孫王と呼ばれていた。15歳にて元服、源の姓を賜わり、源経基(みなもとのつねもと)と名乗り、先例に従い臣籍に加えられたとある。承平天慶の乱に東国・西国の追討使を承り、現地に赴き凱旋の後、鎮守府将軍に任じられた。王は現在の社地に住居を構え、臨終に臨み「霊魂滅するとも龍(神)となり西八条の池に住みて子孫の繁栄を祈るゆえにこの地に葬れ」と遺言された。王の長子満仲公は遺骸を当地に埋葬され(本殿後方に石積の神廟がある)その前に社殿を築いたのが、六孫王神社の始まりである(平安時代中期)。境内中央の池を神龍池といい、その側に満仲誕生のおり井戸上に琵琶湖の竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと云う、誕生水弁財天社がある(6月13日弁財天御開帳祭)。江戸時代の江戸幕府5代将軍徳川綱吉の時代に現在の本殿・拝殿等建物が再建された。毎年10月体育の日に例祭(再興が元禄より始まり宝永年間に完成したゆえ別名“宝永祭”とも謂われる)が行われる。王の後裔には源義家・頼光・頼政・木曽義仲・頼朝等、また足利・新田・細川・島津・山名・今川・明智・小笠原・徳川等の武将が多数輩出され、それぞれ子孫繁栄されている。昔は、六ノ宮権現とも呼ばれ、今昔物語に「六の宮」それを基に芥川龍之介が「六の宮の姫君」にも載せている。小泉八雲著の「怪談」には、「弁天の同情」と題して不思議な夫婦の出会いの話が紹介されている。





六孫王神社を出て、壬生川通りを南に走り、九条通りに出ます。そこを左折し九条通りを東に走らせると、左手に東寺があります。ほぼ毎日見ていた東寺は懐かしい風景です。九条通りを東に進み、烏丸通り、河原町通り、そして鴨川を渡ると右手に東福寺にあって、道路は北上し、名称も東大路通りと変わります。そして泉涌寺道を少し上がった先に、目的地の新熊野神社(いまくまのじんじゃ)がありますが、ここは駐車場やトレイはありません。ここでは新熊野神社の近くにあるDパーキング南瓦町に9時43分に車を停めました。

新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は熊野信仰の盛んな平安時代末期の1160年(永暦元年)、生涯34回もの熊野詣をしたという後白河法皇(第77代天皇)によって創建された。後白河天皇は1155年(久寿2年)に即位され、1158年(保元3年)に退位されましたが、退位後も引き続き院政を敷かれ、そのときのお住まいとなったのが、現在三十三間堂の東側にある法住寺である。当時は「法住寺殿」と呼ばれ、その鎮守社として新熊野神社が、鎮守寺として三十三間堂が創建された。その造営に当たったのが法皇の命を受けた平清盛・重盛父子です。当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことで、そう何回も行けるわけではありません。そこで、熊野の新宮・別宮として創建されたのが新熊野神社で、長らく京の熊野信仰の中心地として栄えた。新熊野神社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野、紀州の昔の熊野に対する京の今の熊野という当時の都人の認識が、その由来となっている。その後350年間、新熊野神社は繁栄を極めたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、一時は廃絶同様の状態になってしまいました。それを再建されたのが、江戸時代初期、後水尾天皇(第108代天皇)の中宮東福門院(徳川秀忠の娘)で、現在の本殿は1663年(寛文13年)聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)によって修復されたもの。社頭の大樟は当時、熊野より移植されたもので後白河上皇お手植。熊野の神降臨の霊樹と伝え、樹齢九百年、健康長寿・病魔退散・特にお腹の神と信じられ、参詣者が多い。本殿は京都市の重要文化財。 尚、能楽の祖、観阿弥・世阿弥父子は1374年(応安7年)室町幕府第3代将軍・足利義満台覧の下、有名な「新熊野神事猿楽」を演能、これが今日の能楽の礎となった。






ここも早々に出て行きました。満車となったパーキングに戻り、9時53分に出て行きました。利用時間10分で、200円でした。コインパーキングを出て、東大路通りを北上し、七条通りを左折すると、南に「蓮華王院 三十三間堂」が北に「京都国立博物館」に見ながら、次の交差点を右折し、大和大路通りを北上して行きます。そして正面通りの右手(東側)に豊国神社がありました。
駐車場に入るとき、入口の看板を見ました。そこには30分200円と書いてありますし、係の方も居るようでした。普段は無料で入れるので、ここでは無料だと思い込んで来ました。そこで、妻には悪かったけど、大和大路通り沿いに車を停め、妻を残して私だけ参拝することとなりました。

ここで聞いてみたんです。「今日は唐門内に入れるのですか?」と。すると「例年なら3日までなんでけど、今年は4日と5日が土曜日曜となったので5日まで延長しました」と。
1598年(慶長3年)8月18日、天下統一を果たした英傑豊臣秀吉公は伏見城においてその波乱に満ちた生涯を終えられた。御遺骸は遺命により東山阿弥陀ヶ峯の頂に葬られ、1599年(慶長4年)、豊臣秀吉公を祀る豊国社が創建された。正一位豊国大明神の神階神号を賜り、社領1万石、境内域30万坪を誇る壮麗かつ壮大な神社であった。毎年4月と8月に行われた豊国祭には朝廷より勅使が遣わされ、北政所を始め豊臣家、諸大名の参拝や寄進が相次いだ。特に1604年(慶長9年)の秀吉公七回忌にあたり斎行された豊国大明神臨時祭は空前絶後の大祭礼であったと諸記録に伝えられている。しかしこのように繁栄を極めた豊国社も1615年(元和元年)、「大坂夏の陣」において豊臣家が滅亡すると徳川家康により廃祀。以後江戸時代を通じ草叢に埋もれてしまっていたが、1868年(明治元年)、明治天皇(第122代天皇)の御沙汰により再興が決定。1873年(明治6年)に別格官弊社(べっかくかんぺいしゃ)に列し、1880年(明治13年)方広寺大仏殿跡地に社殿が造営され名実共に再興された。境内には伏見城の遺構と伝えられる国宝の大唐門が聳え、また1925年(大正14年)北政所豊臣吉子方を祀る貞照(さだてる)神社や秀吉公の遺品・豊国社の社宝を収蔵する宝物館等があり、現在では出世開運の神様として全国より崇敬を集めている。











次は、正面通りを西に向かって車を走らせます。鴨川に架かる「正面橋」を渡り、そのまま西に進み、土手町通りを右折し北上。上数珠屋町通りを左折し河原町通りに出ました。ここには信号機があるので、河原町通りを右折するのに信号機がある方が良かったから。そのまま北上すると次の目的地である市比賣神社に着きますが、ここも駐車場がありません。そこで近隣のコインパーキングに10時15分に車を停めて向かうことにしました。

平安時代のより市場の守り神である市比賣社は、「誓約の神(物事の流れを良くする神様)」として多くの人々で賑わってきました。795年(延暦14年)に京都の左右両市場の守護神として左大臣・藤原冬嗣が現在の西本願寺のあたりに創建したのが始まりで、1591年(天正19年)豊臣秀吉の時代に当地に移転鎮座された。1927年(昭和2年)京都に日本初の中央卸売市場が開設された折、分社として「市姫神社」が祀られ、今現在も市場敷地中央にご鎮座されている。御祭神は全て女神様をお祀りしているところから女性の守り神とされ、全ての女性のお願い事にご利益があって、特に時の皇后陛下がお受けになられた「女人厄除け祈祷」は有名で、全国から女性の参拝者が絶えません。「五十日百日之祝(いかももかのいわい)」は生後五十日目・百日目に、当社御神水「天真名井(あめのまない」により、つき上げられた「五十日之餅・百日之餅(いかのもち・ももかのもち)」を授かり、子供の口に含ませ健やかな成長を願う現在のお食べ初めの発祥・源流として知られている。これは「源氏物語」など多くの古典文学にも描かれ、歴史にその名を残している。


御祭神が、多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)、市寸嶋比賣命(いちきしまひめのみこと)、多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)、神大市比賣命(かみおおいちひめのみこと)、下光比賣命(したてるひめのみこと)。御利益は、女人厄除 祈祷所です。


この神社だけは、妻に参拝して貰いたかったので、今日は連れて来ました。圧倒的に女性の参拝者が多いなか、早々にここは出て行きました。

コインパーキングで精算すると、出庫が10時22分で、利用時間は7分、料金は200円でした。ここから再度河原町通りに出て、高辻通りを西に走らせます。西洞院通り、堀川通り、大宮通りを通過すると、私の生まれ育った地です。懐かしい街並みが見たくて、このコースにしました。ただ、随分風景は変わってしまいました。私が利用していた医院も歯医者も今はありません。西新道商店街も今は人が少なかったです。私が子供の頃、あれだけ人で混んでいたのにね、寂しい風景でした。当時は年に一回あるか無いかのお寿司屋さんも無くなってました。そして同級生の前を何軒か通りましたが、今も済んで居るのかなぁ・・・と。車は高辻通りを佐井西通りまで進み、そこから北上します。次は予定にしてませんでしたが、駐車場が空いていたら入るつもりにしていた西院 春日神社です。幸いにも空いていたので、車を停めることができました。
10時45分頃に着きました。ここは普段、トイレはありませんが、臨時のトイレも設置されるほど人が多いです。境内には「西鳥居」から入りました。
835年(天長10年)第53代淳和天皇(じゅんなてんのう)が第54代天皇仁明天皇(にんみょうてんのう)に皇位を譲られ退位される際に淳和院離宮(別名西院・この付近の地名である西院の由来となった)に移られた。この時、奈良の春日大社から分霊をお迎えし、淳和院の守護神とされたのが始まり。以来、皇室をはじめ藤原氏の守護神として今な崇敬を集め、特に淳和天皇皇女崇子内親王(たかこないしんのう)が疱瘡(天然痘)を患われた折、当社に祈願をされたところ、神前の石が内親王の身代りとして疱瘡を生じ、内親王が快癒された事から、病気平癒の守護神として崇められてて、その石は現在も「霊石・疱瘡石」として諸病平癒を祈る多くの人々に信仰されている。境内に祀られている「還来(もどろき)神社」は旅行安全のご利益があり、又、仁孝天皇御胞衣塚(おえなづか)は安産・幼児守護の信仰があり、共に皇室の崇敬を受けている。

ここは御朱印とお参りを済ませたら早々に出ました。ここから佐井西通りは北向き一方通行なんで、三条通りに出て西に向かい。途中最近オープンしたスーパーに寄ってから帰りました。この日は、六箇所も回れて良かったです。最低気温が3.5℃、最高気温が11.0℃と、それほど寒く無かったのも良かったですが、ただ今日は車で回ったので関係無かったですね。
この記事へのコメント
古い歴史があるんですか。それはびっくり。
菅原道真がこの地で誕生したかと思うと、
感慨深いものがあると思いました。
「京都十六社朱印めぐり」、今年も楽しみですね。
最近、吉祥院天満宮の宮司さんがテレビで出られて、吉祥院天満宮のことを詳しく紹介されてました。
毎年、お正月の時期に来てますが、知らなかったことも多かったので、次に行くときは、そこを注目しようと思っています。
干支を一周するまで頑張るつもりで、あと2年となりました。
車に頼らなかったら少々体力がきつくなりましたが、来年以降も頑張って回ります。
本当に凄いことです。1年の始めに、自分自身を見つめる非常に良い機会でしょうし、ご利益もあるでしょう。
吉祥院天満宮は由緒ある天神様なのですね。道真公が生まれた場所とは。
六孫王神社は、清和源氏の流れを育む神社。こちらも由緒がありますね。
更に、新熊野神社も、「新」といいながら後白河法皇の創建とは驚きです。
法王お手植えの樟が今もそびえるのが感動もの。
もちろん豊国神社は、京都の豊臣家のシンボルのような場所。
一度にこれだけ巡るだけも、凄いことだと思います。
年頭の「京都十六社朱印めぐり」は、干支の置物が貰えるので、干支が一周するまで頑張るつもりです。
目標に松の内の間に回りたいと思ってて、体力的にはキツくなってきましたが。
豊国神社は1月1日から3日の間は、普段立ち入ることができない神域に入れるので、お得ですね。