「京都十六社朱印めぐり」粟田神社と御霊神社(上御霊神社)へ
1月7日(火)は寒波到来により、西風が強くて寒い一日でした。今年の正月が天気が良くて、平年より気温も高かったこともあって、この寒さは体に堪えるほど。ただ、寒波はこれから最強寒波がやって来ると天気予報では言ってます。この日まで京都では、まだ氷点下を記録してないと言ってたけど、さてどれくらい気温が下がるかなぁ・・・?。
ただ、雲っていたので、最低気温は4.6℃でしたが、ここから気温が上がらずに、最高気温は9.3℃止まり。そんな寒いなか、地下鉄にのって、東西線の蹴上駅まで行き、そこから向かったのが、「京都十六社朱印めぐり」の粟田神社です。
地下鉄東西線の東山駅と蹴上駅の中間にあるのが粟田神社です。東山駅から行くと登りに、蹴上駅からだと下りになるので、私は行きに蹴上駅から行くことにしています。蹴上駅の2番出入口から地上に上がると、そこは三条通りです。その三条通りを西に歩いて行くと、粟田神社の幟を目にします。
9時28分に蹴上駅に着いて、9時39分に粟田神社入口に着きました。
次に「一の鳥居」をくぐります。
次に「二の鳥居」です。ここで向かって左の神社に寄って行きます。

粟田神社の末社「鍛冶神社」に、先に寄りました。この注連柱(しめばしら)には文字が刻まれています。右の柱には、「蒼龍猶末昇雲霄」、左の柱には、「佩服可禳妖凶」と刻まれてます。


ご祭神が、天目一箇神、三條治宗近命、粟田口藤四郎吉光命で、後神徳が、鍛冶の神、刀剣の神、悪運を断ち良縁を切り開く神とありました。
京の東の出入口であるこの粟田口には、平安時代後期より室町時代にかけて、刀鍛冶が多く住み、三條派粟田口派と呼ばれ、後鳥羽上皇の御番鍛冶を勤める刀工を始め、数多くの名工を輩出しました。その為この地は山城国の刀鍛冶発祥の地とも呼ばれています。この三條粟田口の数多くの工達を顕著する為に当神社が創建されたと伝わります。その中の代表的な刀工の三條治宗近や粟田口藤四郎吉光か鍛冶祖神の天目一筒神と共に祀られ、鍛冶の神、刀剣の神として崇敬されています。
ここには明治天皇御製「太刀」の歌碑があります。「真心こめて錬ひしたちこそは 乱れぬくにのまもりなりけれ」(明治神宮宮司 海軍大将 有馬良橘 謹書)と書かれています。

ここから粟田神社の本殿まで、急な坂道を登ります。
1月9日に「出世えびす祭」があるので、この登り坂に幟が出ています。
登り切った所に「社務所」があるので、先に「京都十六社朱印めぐり」の御朱印をいただきました。このあと参拝させて貰います。
平安時代の清和天皇(第56代天皇)御代、876年(貞観18年)国家と民の安全を祈願する為に全国の諸神へ勅使が遣わされた。その際、従五位上出羽守藤原興世(ふじわらのおきよ)は勅使として感神院祇園社(八坂神社)に七日七晩祈願され、その満願の夜、興世の枕元に老翁のお姿の大己貴命(おおあなむちのみこと)に神託を告げらた。興世は神意なりと朝廷に秦上し、勅命により社を建てて御神霊をお祀りさたのが粟田神社の始まりと伝わる。また一説には、孝昭天皇(こうしょうてんのう)(第5代天皇)の分かれである粟田氏が此地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも云えられる。創建以来、京都の東の出入り口である粟田口に鎮座し、街道を行き交う人々の信仰を集め、旅立ち守護(旅行安全)と厄除けの神様として親しまれている。
この「手水」は、近づくと水が出てきます。

「本殿」に参拝しました。ご祭神は、主座に素戔嗚尊、大己貴命(おおなむちのみこと)。左座に、八大王子命(はちだいやうじのみこと)。右座に、奇稲田媛命(くしいなだなひめのみこと)、神大市媛命(かむおおいちひめのみこと)、佐須良媛命(さすらひめのみこと) です。御利益は、旅立ち守護・厄除でした。

1月9日には、「出世恵比須神社」で「御神像一般の公開」が行われますが、今日は扉閉まってました。
そんなに急がないので、境内を巡りました。最初は「吉兵衛神社」で、三条神宮道辺りにあった青蓮院の御門の東に奉祀されていた土地の守り神です。


次に、朱塗りの鳥居を潜った先にあるのが、末社の「太郎兵衛神社」です。青蓮院の御門の西に奉祀されていた土地の守り神だそうです。
そのお隣が摂社の「北向稲荷神社」です。ここの御祭神が雪丸稲荷他三座で、雪丸稲荷は三条小鍛冶宗近(平安末期の名刀匠)が一条院の勅命により剣を打つ際に相槌を打ったお稲荷さんと云われています。



ここに来たら必ず「展望所」に行きます。平安神宮の大鳥居が綺麗に見えました。




これから石段を降りる前に、「御神馬像」があります。神社には古くから神様が乗られる馬が飼われてました。この像は、明治時代末期に奉納されたものです。旅立ち守護に相応しい立派な姿です。


9時53分に石段を降り、三条通りに出ました。ここから地下鉄東西線東山駅まで歩いて行きます。
東山駅から地下鉄に乗って、御池駅で烏丸線に乗り換えし、向かったのが鞍馬口駅でした。そこから歩いて向かったのが、「京都十六社朱印めぐり」の御霊神社(上御霊神社)です。
10時25分に「西鳥居」前に着きました。
ここは「応仁の乱」勃発地として知られています。境内には石碑が造られているので後程見に行きます。

この辺りは、室町幕府3代将軍足利義満)が造営した「花の御所」があり、その鎮守として源氏の氏神である「八幡神」が勧請されたそうで、この石標はその八幡宮跡を示すものです。
ここの「楼門」は、寛政年間(1789~1801)に再建されもので、両脇には“随神”も鎮座しています。
御霊神社(上御霊神社)は、794年(延暦13年)に平安遷都にあたり桓武天皇(第50代天皇)が早良親王(さわらしんのう)の御神霊を現在の地に祀り、京都の守護神とされたのが御霊神社の始まりと伝わる。当時、天変地異や疫病の流行が相次ぎ、それは非運の中に亡くなられた高貴の人々のお心によるものとされ、その人々の御霊を丁重にお祀りすることによって、災いをなくそうという御霊信仰が盛んになった。その後、井上大皇后(聖武天皇の娘)、他戸親王(おさべしんのう)(光仁天皇皇子)、藤原大夫人(桓武天皇の夫人)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室 宮田麻呂)の神霊が合祀され、863年(貞観5年)5月に初めて平安京の神泉苑で「御霊会(ごりょうえ)」が営まれた。のちに更に火雷神の学者と吉備真備も合祀され、現在では「八所御霊」と呼ばれ計八柱を静かに祀っている。また、境内は「御霊の森」と云い、現在の2倍あり、1467年(文正2年)室町幕府管領畠山政長が、この森に立て籠もり(東陣)西軍山名方と一戦を交えたのが応仁の乱の幕開けなったのは史実として有名である。
先の粟田神社に比べて、ここは人が多かったです。「手水舎」を使ったあと、先に「社務所」に行き、「京都十六社朱印めぐり」の御朱印をいただきました。

いつものように、本殿前の「拝殿」には、生け花がありました。
「本殿」前で参拝しました。御祭神は、崇道天皇、井上大皇后、他戸親王、藤原大夫人、橘大夫、文大夫、火雷神、吉備大臣、三社明神、和光明神で、御利益は、こころしづめ・厄除開運・学業成就です。

久しぶりに歌碑巡りです。新谷日本の言語学者で「新村 出(しんむら いずる)の歌碑」です。「上御霊のみやしろに 詣でてよめる 千早振神のみぐみ深くして 八十ぢに満つる幸を得にけり」と、1956年(昭和31年)に詠まれました。
「富士谷御杖 詞碑」は江戸時代の著名な国学者で詩は本殿造営(文政年間)に際し励ましのため寄せられたものです。詩碑は本殿前南側にあります。
「俳聖松尾芭蕉の句碑」。1690年(元禄3年)御霊神社(上御霊神社)に参詣したとき「半日は 神を友にや 年忘」の句を奉納されました。

「絵馬所」の奥には、「応仁の乱550年」を記念し、勃発の地である御霊神社(上御霊神社)境内に石碑が建てられました。文字は、細川家の細川護熙元首相の揮毫によるもの。

その横には、新しい木札があったので撮ってみました。“御大礼奉祝 記念植樹「紫木蓮」 令和元年11月18日”と書かれています。

10時34分に「西鳥居」から出て行きました。帰る頃になって、ようやく晴れて来ました。
ここから再び地下鉄烏丸線「鞍馬口駅」まで戻って電車に乗りました。
今日は、午後から荷物が来ることになって、当初一日乗車券を購入して回るつもりにしてましたが、ここから帰ることになりました。
ただ、雲っていたので、最低気温は4.6℃でしたが、ここから気温が上がらずに、最高気温は9.3℃止まり。そんな寒いなか、地下鉄にのって、東西線の蹴上駅まで行き、そこから向かったのが、「京都十六社朱印めぐり」の粟田神社です。
地下鉄東西線の東山駅と蹴上駅の中間にあるのが粟田神社です。東山駅から行くと登りに、蹴上駅からだと下りになるので、私は行きに蹴上駅から行くことにしています。蹴上駅の2番出入口から地上に上がると、そこは三条通りです。その三条通りを西に歩いて行くと、粟田神社の幟を目にします。








京の東の出入口であるこの粟田口には、平安時代後期より室町時代にかけて、刀鍛冶が多く住み、三條派粟田口派と呼ばれ、後鳥羽上皇の御番鍛冶を勤める刀工を始め、数多くの名工を輩出しました。その為この地は山城国の刀鍛冶発祥の地とも呼ばれています。この三條粟田口の数多くの工達を顕著する為に当神社が創建されたと伝わります。その中の代表的な刀工の三條治宗近や粟田口藤四郎吉光か鍛冶祖神の天目一筒神と共に祀られ、鍛冶の神、刀剣の神として崇敬されています。





平安時代の清和天皇(第56代天皇)御代、876年(貞観18年)国家と民の安全を祈願する為に全国の諸神へ勅使が遣わされた。その際、従五位上出羽守藤原興世(ふじわらのおきよ)は勅使として感神院祇園社(八坂神社)に七日七晩祈願され、その満願の夜、興世の枕元に老翁のお姿の大己貴命(おおあなむちのみこと)に神託を告げらた。興世は神意なりと朝廷に秦上し、勅命により社を建てて御神霊をお祀りさたのが粟田神社の始まりと伝わる。また一説には、孝昭天皇(こうしょうてんのう)(第5代天皇)の分かれである粟田氏が此地を治めていた時に氏神として当社を創建したとも云えられる。創建以来、京都の東の出入り口である粟田口に鎮座し、街道を行き交う人々の信仰を集め、旅立ち守護(旅行安全)と厄除けの神様として親しまれている。






















東山駅から地下鉄に乗って、御池駅で烏丸線に乗り換えし、向かったのが鞍馬口駅でした。そこから歩いて向かったのが、「京都十六社朱印めぐり」の御霊神社(上御霊神社)です。





御霊神社(上御霊神社)は、794年(延暦13年)に平安遷都にあたり桓武天皇(第50代天皇)が早良親王(さわらしんのう)の御神霊を現在の地に祀り、京都の守護神とされたのが御霊神社の始まりと伝わる。当時、天変地異や疫病の流行が相次ぎ、それは非運の中に亡くなられた高貴の人々のお心によるものとされ、その人々の御霊を丁重にお祀りすることによって、災いをなくそうという御霊信仰が盛んになった。その後、井上大皇后(聖武天皇の娘)、他戸親王(おさべしんのう)(光仁天皇皇子)、藤原大夫人(桓武天皇の夫人)、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室 宮田麻呂)の神霊が合祀され、863年(貞観5年)5月に初めて平安京の神泉苑で「御霊会(ごりょうえ)」が営まれた。のちに更に火雷神の学者と吉備真備も合祀され、現在では「八所御霊」と呼ばれ計八柱を静かに祀っている。また、境内は「御霊の森」と云い、現在の2倍あり、1467年(文正2年)室町幕府管領畠山政長が、この森に立て籠もり(東陣)西軍山名方と一戦を交えたのが応仁の乱の幕開けなったのは史実として有名である。















今日は、午後から荷物が来ることになって、当初一日乗車券を購入して回るつもりにしてましたが、ここから帰ることになりました。
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