「京都十六社朱印めぐり」御香宮そして藤森神社で満願

1月15日(水)の天気予報は微妙で、大阪では雨降りと出てましたが、京都南部は降水確率20%。予報では降らないと出てましたが、折りたたみの傘を持参して、残り2社となった「京都十六社朱印めぐり」に行くことにしました。「京都十六社朱印めぐり」では、2月15日(土)まで行けばいいんですが、松の内の間に行ってしまいたいと毎年思ってて、この日は我が家から、最も遠い伏見の2社を巡ります。最初は御香宮神社(御香宮)から。

朝から曇っていたので、最低気温は4.7℃と、ここ最近では高めです。我が家からは嵐電と地下鉄と京阪を乗り継ぎしますが、今日は太秦天神川まで車で送って貰い8時11分発の六地蔵行きの乗りました。そして京阪三条に8時22分着きました。ここで京阪電鉄に乗り換えのため、少し歩きます。京阪電車の三条を8時33分発の特急に乗りましたが、三条からでは座れます。次の四条からは立つ人が出ますが、七条を多くの人が降りられたので、空きました。特急は、丹波橋に8時43分に着いて、向かいに止まっている準急に乗り換えします。準急はガラガラです。丹波橋を8時44分に出て、次の目的地である伏見桃山に8時46分に着きました。アパウトに予定していた時間より10分早かったです😊。

IMG_2004.jpg8時52分に「大鳥居」前に着きました。

IMG_2030.jpgIMG_2029.jpgIMG_2005.jpg大鳥居をくぐり、次に「表門」(重文)に8時53分に着きました。

この表門には「伏見城大手門」と書いてあります。伏見城の大手門を1622年(元和8年)、水戸藩初代藩主徳川頼房によって、御香宮神社に寄進されました。装飾品での注目は、正面の蟇股(かえるまた)で、4箇所に中国二十四孝のうち 向かって右から楊香、郭巨、唐夫人、孟宗の物語順に並んでいます。

IMG_2006.jpgIMG_2024.jpg表門から本殿まで、真っ直ぐに伸びる参道を歩きます。この石鳥居は紀州藩の第7代藩主徳川 宗将(とくがわ むねのぶ)によって建立されました。

IMG_2025.jpgそのむかって右手にあるのが「大手筋木鳥居旧基礎石」です。先程くぐってきた大手筋の鳥居についの説明が書いてありました。

1659年(万治2年))初代紀伊藩主徳川頼宣が大手筋の石鳥居を奉納。しかし寛文年間(1661~73)の大地震により倒壊。1767年(明和4年)に現在の鳥居が奉納された。1998年(平成10年)9月の台風7号8号の強風により鳥居が傾斜したことにより解体修理を行った。その際に基礎を鉄筋コンクリートに補強。旧来の柱根石を交換した。

IMG_2007.jpgこの石鳥居を過ぎて、直ぐの右手(東側)に「桃山天満宮」がありますが、今日は時間の都合で寄りません。

IMG_2008.jpgIMG_2009.jpg参道を進み「手水舎」に寄りました。「水が出てないなぁ」と思い近づくと出て来ました。何処かにセンサーが?。

IMG_2019.jpgIMG_2020.jpgIMG_2010.jpgIMG_2016.jpg次に「拝殿」(府指定文化財)をくぐります。1625年(寛永2年)初代紀伊藩主徳川大納言頼宣(徳川家康の子)が寄進しました。

極彩色の正面軒唐破風は、手の込んだ彫刻によって埋められていくす。特に五三桐の蟇股や、大瓶束によって左右区切られている彫刻は、右は龍神伝説の光景、左は琴高仙人が鯉に跨って滝の中ほどまで昇っている光景を写しています。豪壮華麗なこの拝殿は伏見城御車寄の拝領と伝わります。

IMG_2011.jpgIMG_2012.jpg本殿」前で参拝です。御祭神は、主祭神に「神功皇后」、相殿神に「応神天皇」「仲哀天皇」「仁徳天皇」「高良大明神」「宇倍大明神」「瀧祭神」「河上大明神」「菟道稚郎子尊」「白菊大明神」です。御利益は安産・厄除・病気平癒でした。

創建時は不詳であるが、御香宮縁起(三巻)によれば、862年(貞観4年)9月9日、境内に大変香の好い水が湧き出て、この水を飲むと病がたちまち癒ったという奇瑞から清和天皇(第56代天皇)より「御香宮」の名を賜った。1590年(天正18年)天下統一した豊臣秀吉は当社に戦勝祈願をなし、太刀(重文)と願文を納め社領三百石を寄進した。1594年(文禄3年)伏見築城に際し、鬼門除けの神として城内に勧請した。1605年(慶長10年)江戸幕府初代将軍徳川家康は当社を元の地に戻し本殿を造営し秀吉にならって社領三百石を寄進した。また1622年(元和8年)伏見廃城に先立って、表門は水戸の徳川頼房(常陸水戸藩初代藩主)、拝殿は紀伊の徳川頼宣(紀伊和歌山藩初代藩主)の寄進によるものである。1868年(慶応4年)の伏見鳥羽の戦では、官軍の陣営が置かれたが、幸いにして戦火をまぬがれた。古来より伏見一帯の氏神として、多くの人々から信仰を集めている。本殿・拝殿は近年大修理の結果、桃山時代の豪壮華麗な極彩色の建物が蘇った。10月上旬に行われる神幸祭は、伏見九郷の総鎮守の例祭とされ、古来「伏見祭」と称せられ、今も洛南随一の大祭として評判を得ている。

IMG_2013.jpgIMG_2014.jpg本殿前に手水があります。こに横には「御香水」が出ており、普段は汲みに来られる人をみかけます。今日は朝早かったので居ませんでした。

「御香水」は伏見七名水の一つで、日本名水百選にも選ばれており、徳川義直・頼信・頼房らが産湯に使ったとも伝わっています。

9時前でしたが「社務所」は開いてて、お一人先に御朱印を貰っていたと言うかどれにするか迷われてて、そのあと「京都十六社朱印めぐり」の御朱印をいただきました。あと残り1社です。

IMG_2018.jpgIMG_2021.jpgIMG_2023.jpgIMG_2027.jpgIMG_2028.jpg旧伏見城大手門」を9時5分に出て、再び京阪伏見桃山駅に向かいます。

ここでミスったのが、出町柳行きの時刻を調べて無かったこと。伏見桃山駅に9時9分に着きましたが、私が階段を上がる途中で電車が発車して行きました。時刻表を見ると、準急は15分に一本なんでね。寒いなか駅のベンチに座り次の9時24分発の電車が来るまで待つことに・・・15分も座ってると寒さが堪えます。

IMG_2031.jpgIMG_2033.jpg待っている間に、大阪淀屋橋行きの特急がスピードを上げ通過して行きました。結局、この電車を含め3本見送ることになりました。

京都出町柳行き準急は9時24分に出て、次の丹波橋駅で特急を待ちます。その特急が先に出て行き、私が乗る準急は、目的地の墨染駅に9時33分に着きました。

IMG_2034.jpg
帰りも、ここに戻ってくるので、今度は忘れずに時刻表を撮って置きました😊。

ここから歩いて向かうのが、「京都十六社朱印めぐり」最後の1社。藤森神社です。

IMG_2036.jpgIMG_2035.jpg9時39分に藤森神社入口に着きました。

IMG_2037.jpg次に「南鳥居」から境内に入ります。まだ9時39分にくぐりました。

IMG_2038.jpgここでは背広を着た参拝者が多数来てました。競馬関係者かなぁ・・・?😊。

IMG_2039.jpg参道の左手には「焼塩屋権兵衛之碑」の石碑があります。この碑は1920年(大正9年)3月に建立されたようです。

焼塩屋権兵衛(姓は平田)は深草村に生まれました。とても人情に厚く多くの人々に慕われた町の年寄(役員)に選ばれました。1779年(安永8年)伏見奉行に小堀政方が着任しその後地位を利用して暴政を振舞うよになり、そのため伏見の人々を窮地の底に陥る結果となった。こうした人々の苦難を救おうと1785年(天明5年)9月、焼塩屋権兵衛は伏見の町人文殊九助と丸屋九兵衛ら7名が寺社奉行へ命がけの出訴した。これは伏見奉行小堀政方が町人に対し不法な御用金を課したことなどを訴えたものである。その後京都町奉行所や評定所で審理が行われ、1788年(天明8年)5月に小堀は改易、出訴当事者として調べられた町人7名は御構いなしという判決が出された。しかし7人ともすでに病死や牢死で判決時に在世したものはいなかった。深草そして伏見の地が栄えて来たのはひとえに焼塩屋権兵衛ら義民の犠牲の賜物である。

IMG_2040.jpg次の石碑は「蒙古塚」です。蒙古の将兵と戦利の兵器を納めた所とされています。

『拾遺都名所図会』巻五によれば、781年(天応元年)に「異国の蒙古」が日本へ攻め寄せ、早良親王(さわらしんのう)率いる軍勢がこれを退けた。その時の蒙古軍の大将の首を藤森神社に埋めた塚が蒙古塚と呼ばれて残っていると記す。時代を遡り鎌倉時代の蒙古襲来(文永の役・弘安の役)のことが、武功祈願の神社である藤森神社の祭神早良親王(さわらしんのう)の事蹟として伝えられたものかもしれない。この石標は蒙古塚を示すものである。文永の役・弘安の役とは、1274年(文永11年)と1281年(弘安4年)の2度にわたって蒙古軍が日本に来襲したこと。

IMG_2041.jpgIMG_2044.jpg本殿」前は人が多かったです。御祭神は、素盞鳴命(すさのおのみこと)、別雷命(わけいかずちのみこと)、日本武尊(やまとたけるのみこと)、第15代応神天皇(おうじんてんのう)、第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)、神功皇后(じんぐうこうごう・第14代仲哀天皇の皇后)、武内宿禰(たけのうちのすくね)、舎人親王(とねりしんのう)、第40代天武天皇(てんむてんのう)、早良親王(さわらしんのう)、伊豫親王(いよしんのう)、井上内親王(いがみないしんのう)以上十二柱。御利益は「男人守護の神」と「勝運と馬の社」でした。

藤森神社は、今から約1800年前の平安遷都以前に建立された古社で、素戔嗚尊、神功皇后、日本武尊など十二柱に及ぶ神々を祀り、洛南深草の産土神として崇敬されてる。「菖蒲の節句」発祥の神社として知られ、菖蒲が勝負に通じること、毎年5月5日に行われる藤森祭で曲乗りの妙技で有名な「駈馬神事」が行われることから、勝運と馬の神社として特に信仰が厚い。また、日本書記の編者であり、日本最初の学者である舎人親王を祭神としていることから、学問の神としても信仰されている。本殿は、1712年(正徳2年)に中御門天皇(第114代天皇)より賜った宮中内侍所(賢所)の建物と伝わる。また、本殿背後東にある八幡宮は応神天皇(第15代天皇)を祀り、西にある大将軍社は、磐長姫命(いわながひめのみこと)が祀られている。どちらも重要文化財に指定されており、特に、大将軍社は平安遷都のとき、王城守護のため京都の四方に祀られた社の一つであるといわれ、古来より方除けの神として信仰されている。本殿東の、神功皇后が新羅信仰の際に軍旗を埋納したといわれる旗塚や、二つとない良い水として名付けられたという名水「不二の水」は有名です。6月の紫陽花が見事で、「紫陽花の宮」とも呼ばれている。

IMG_2043.jpgIMG_2045.jpg勝運と馬の神様として、競馬関係者、競馬ファンの参拝で賑わう藤森神社、神馬像がありました。

IMG_2046.jpg今日は順序逆になりましたが「手水舎」の写真だけ撮っておきました。

IMG_2059.jpgIMG_2061.jpgこのあと「京都十六社朱印めぐり」の御朱印をいただいて、満願達成しました。それで干支の置物いただきました。

IMG_2047.jpg藤森神社入口を9時50分に出て、少し早歩きで京阪墨染駅に向かいます。事前に調べた10時1分の準急に乗るためです。多分、余裕で間に合うかと思いましたが念のためです😊。

IMG_2048.jpg予想通り余裕で間に合いましたが、電車は10時1分になっても来ません。結局遅れて墨染を10時05分頃に電車は発車しました。

ここから時刻表通りの表示ですが、墨染を10時01分発の準急は、そこそこ混んでましたが座れました。龍谷大学前深草で学生さんが降りられたので空きましたが、次の伏見稲荷で、外国人観光客がどっと乗ってきたので、立っている人は居ませんが、席は埋まりました。そして三条に10時17分に着いて、地下鉄東西線の京阪三条を10時29分発の太秦天神川行きに乗ることができました。太秦天神川には10時41分に着いたので、ここから病院に行き、見舞ったわけです。

この記事へのコメント

2025年02月16日 18:39
「京都十六社朱印めぐり」の達成、おめでとうございます。
あらためて、結構移動距離があって大がかりな参拝だなと思いました。
それだけにご褒美は素敵な干支の置物。ご利益もしっかり、縁起もいいですね。
「御香宮」は今は無き伏見城の面影をたっぷりと感じさせてくれるのが素晴らしい。徳川家康にとって伏見城は特別な城。御香宮にその思いを奉納したのかと想像します。御三家も気合が入っていたことでしょう。
私も私もいつか是非行ってみたいです。
その前に、御三家の地元の一つの記事を書きました。
藤森神社も由緒ある神社なのですね、知りませんでした。
壬生里
2025年02月18日 19:10
ミクミティさんへコメントありがとうございます。

干支の置物が欲しいので、毎年回ってますが、あと2回で干支を一周するので、それまで頑張るつもりです。
車なら、一日で回れるでしょうけど、伏見区に土地勘が無いので、京阪や近鉄を利用しています。
毎年の年中行事のようなもので、体力が続く限り行ってみるつもりです。それだけ回れば毎年御利益もあるでしょうから。