第59回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 天龍寺「祥雲閣・甘雨亭」へ
臨済宗天龍寺派大本山 天龍寺 曹源池庭園を出て、予約している第59回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 天龍寺「祥雲閣・甘雨亭」の拝観に向かいます。

庭園の拝観券を持って拝観受付所がある「庫裏」に入ります。その拝観券を見せると300円の追加料金で入れます。このとき、8時50分でした。
靴を今日は下駄箱に預けました。いつもは持参してきた袋に入れるんですが、空いているように見えたので、ただ目印は入れて置きました😊。

上がると、「京の冬の旅」の案内が出ていたので、先ずはそちらに向かいます。受付は、大方丈の手前にありました。
何組か待って私の受付になって、拝観料500円を納めスタンプラリーの印を押して貰いました。先ずは1個目です😊。「9時から拝観開始するので5分前までに小方丈の待合に集まってください」と。それで「首掛けストラップ」を掛け時間まで大方丈を巡ります。

このとき、8時52分でした。それでも曹源池庭園は空いてします。ここ最近の混雑を考えたら信じられない光景です。




「大方丈」内に祀られているご本尊釈迦如来像にお参りです。庭園もお堂の拝観も空いてました。




大方丈を回って曹源池庭園に出て来ました。ここから「愛宕山」の山頂まではっきり見えました。
大方丈前に人が居ないので、このような写真が撮れました。余談ですが、9時30分の頃はもの凄い人出となってましたが😊。

大方丈内の「雲龍図」は、富岡鉄斎の孫弟子にあたる若狭物外画伯筆によるもの。庭園からも一部見えられます。ガラスに反射し見づらいですが。


8時56分の曹源池庭園です。まだ団体さんも来られてないので、このように空いています。もう、そろそろ待合に行かないと・・・。


これから見学する、十二畳敷の茶室「祥雲閣」の外観を先に撮っておきました。

8時57分に小方丈に設けられた「待合」に入りました。ここ最近、インフルエンザが猛威を振るっているので、狭い待合に入るのが怖かったけど・・・。
いつもの「小方丈」に比べて狭くなっているのは、向かって左側に「待合」を設けたから。
8時58分に入って、後ろの空いている席に座りました。暖房が効いてて暖かいです。ただ換気が心配ですね。
予約優先制ですが、当日でも空きがあれば入れます。9時を回っても入って来られる方が居たので、学生さんのガイドが始まったのは9時2分頃から。天龍寺の歴史や曹源池庭園の案内。これから行く茶室の話しをされました。

9時8分に話しが終わってツアーガイド方式のため、みんなでついて行きます。最初は表千家の名席「残月亭(ざんげつてい)」写しの十二畳敷の茶室「祥雲閣(しょううんかく)」に入りました。
最初に断れたのは、茶室内は撮影禁止ということ。茶室内から庭園に向けての写真はOKとのこと。ここに入るのは、2016年(平成28年)4月24日に開催された「アメリカ人禅僧 トーマス・カーシュナー師とめぐる天龍寺の特別拝観」以来です。茶室内の写真は、このときのを使いました。

12畳敷きの広間に2畳の「上段の間」を設け「床の間」とする形式。この日の掛け軸は、現在の臨済宗天龍寺派管長佐々木容道氏によるものに変わってました。
1934年(昭和9年)に建てられた表千家の名席「残月亭(ざんげつてい)」写しの茶室。十二畳敷の広間の中に、二畳の「上段の間」があり、この上段を「床の間」とする「上段床」や「残月床」と呼ばれる形式で、炉は四畳半切である。上段の右横には「付書院」がある。

この日は寒いから分かりませんが2016年(平成28年)4月24日には無かったガラス戸がありました。右手に見えているのが次に行く茶室「甘雨亭(かんうてい)」です。

ご覧のように2016年(平成28年)4月24日には、ガラス戸は無かったです。案内はここまでで、あとはフリータイムとなりました。



もちろん下に降りることは出来ませんが、ここからの風景は中々見られないので来て見て良かったです。
次に五畳半台目(ごじょうはんだいめ)の茶室「甘雨亭(かんうてい)」に入ります。ここは狭いのでガイドさんの案内は既に済んでいます。写真は、外に向いては撮りました。内部は撮影禁止でしたので、2016年(平成28年)4月24日ものを使いました。


こちらにあった掛け軸は、今回と同じでした。ガイドさんの話しでは臨済宗天龍寺派先代の管長 関牧翁のものだそうです。
1934年(昭和9年)に建てられた、裏千家14代家元・淡々斎の命名による五畳半台目(ごじょうはんだいめ)の茶室。「通い口」の前に三角形の鱗板が付けられているのが特徴である。

茶室「甘雨亭」から見た、茶室「祥雲閣」です。庭園内に流れる大堰川も撮ることができました😊。


9時30分まで見学可能でしたが、21分過ぎに私は出て来ました。入口で首掛けストラップを返して、まだお堂で見ていない多宝殿へ向かいます。




多宝殿へ向かう途中の、このエリアは、今日のガイドさんの話しで分かりました。茶室「祥雲閣・甘雨亭」の待合だったわけです。



後醍醐天皇を祀る「多宝殿」に着きました。9時23分で、こんなに空いてるなんて、ここ最近では信じられないくらい空いています。



「多宝殿」に入れませんが、「後醍醐天皇像」は見えました。今日は電気が付いていのではっきり見えました。
後醍醐天皇が祀られている多宝殿の周りは桜で取り囲んであります。桜の花をこよなく愛した後醍醐天皇に、いつでも桜を愛でられるようにとの思いが込めらたのかも知れません。
ご覧のようにガラガラですが、どうも、この時間になって賑やかな声が聞こえるようになりました。それも騒々しいぐらい。ここからは見えませんが、多分、団体さん来られたのでしょう。
天龍寺は、夢窓国師(夢窓疎石)の進言により、第96代後醍醐天皇の霊を鎮めるため室町幕府初代将軍足利尊氏が創建しました。国師を慕う後醍醐天皇も、敵対する鎌倉幕府の北条高時、そして足利尊氏・直義も帰依していました。国師は、尊氏に全国66箇所に「安国寺 利生塔」を建てること、そして後醍醐天皇を祀る天龍寺を建てなさいと進言されたわけです。多宝殿は、後醍醐天皇を祀るお堂で、かつて離宮のあった亀山殿で後醍醐天皇は、幼少から青年までを過ごしました。中世の貴族の邸宅を思われる建物の多宝殿は、奈良吉野で亡くなった後醍醐天皇に因んで、吉野朝の紫宸殿の造りとなっています。31歳で即位した後醍醐天皇は、自らが政治権力を持とうとして、鎌倉幕府の倒幕を計画、1324年(正中元年)「正中の変」、1331年(元弘元年)「元弘の変」で失敗に終わると、隠岐の島に流されます。その後、幕府の滅亡とともに帰還し「建武の新政」を実現。しかし、足利尊氏の反乱により吉野に移り、南朝を樹立。京都奪還を目指しましたが実現せず、51歳で崩御しました。建武政権は恩賞政策がちぐはぐで、決めたことがすぐに変わってしまう。後醍醐天天皇お気に入りの女官や僧侶に手厚い恩賞があったりして、武士たちは、足利尊氏に付いた方がいいと動き、それが天皇への反発が広がり、建武の新政の失敗につながったといわれています。後醍醐天皇が祀られている多宝殿の周りは桜で取り囲んであります。桜の花をこよなく愛した後醍醐天皇に、いつでも桜を愛でられるようにとの思いが込めらたのかも知れません。



また「待合」まで戻ってきました。ここまで来たら、あの騒々しいのが団体さんであることは確認できました。凄い人出と変わったようです。
あとで、駐車場を通ると、大型の観光バスが3台止まってました。それも海外の方の。やっぱり空いていたのは一瞬だったようです。


9時30分に「庫裏」から出て来ました。境内の駐車場も、あの観光バス以外は空いてました。冬場だからでしょうか?。




天龍寺 勅使門の周りに咲いていた「山茶花」です。まもなく満開になりそうです。
天龍寺から中辻通りを歩きました。天龍寺は空いてましたが、「竹林の小経」に行かれる海外の方で混んでました。竹林人気凄いですね、私は、ここから、あと一箇所寄って行きます。





何組か待って私の受付になって、拝観料500円を納めスタンプラリーの印を押して貰いました。先ずは1個目です😊。「9時から拝観開始するので5分前までに小方丈の待合に集まってください」と。それで「首掛けストラップ」を掛け時間まで大方丈を巡ります。

























予約優先制ですが、当日でも空きがあれば入れます。9時を回っても入って来られる方が居たので、学生さんのガイドが始まったのは9時2分頃から。天龍寺の歴史や曹源池庭園の案内。これから行く茶室の話しをされました。


最初に断れたのは、茶室内は撮影禁止ということ。茶室内から庭園に向けての写真はOKとのこと。ここに入るのは、2016年(平成28年)4月24日に開催された「アメリカ人禅僧 トーマス・カーシュナー師とめぐる天龍寺の特別拝観」以来です。茶室内の写真は、このときのを使いました。


1934年(昭和9年)に建てられた表千家の名席「残月亭(ざんげつてい)」写しの茶室。十二畳敷の広間の中に、二畳の「上段の間」があり、この上段を「床の間」とする「上段床」や「残月床」と呼ばれる形式で、炉は四畳半切である。上段の右横には「付書院」がある。








次に五畳半台目(ごじょうはんだいめ)の茶室「甘雨亭(かんうてい)」に入ります。ここは狭いのでガイドさんの案内は既に済んでいます。写真は、外に向いては撮りました。内部は撮影禁止でしたので、2016年(平成28年)4月24日ものを使いました。



1934年(昭和9年)に建てられた、裏千家14代家元・淡々斎の命名による五畳半台目(ごじょうはんだいめ)の茶室。「通い口」の前に三角形の鱗板が付けられているのが特徴である。



















ご覧のようにガラガラですが、どうも、この時間になって賑やかな声が聞こえるようになりました。それも騒々しいぐらい。ここからは見えませんが、多分、団体さん来られたのでしょう。
天龍寺は、夢窓国師(夢窓疎石)の進言により、第96代後醍醐天皇の霊を鎮めるため室町幕府初代将軍足利尊氏が創建しました。国師を慕う後醍醐天皇も、敵対する鎌倉幕府の北条高時、そして足利尊氏・直義も帰依していました。国師は、尊氏に全国66箇所に「安国寺 利生塔」を建てること、そして後醍醐天皇を祀る天龍寺を建てなさいと進言されたわけです。多宝殿は、後醍醐天皇を祀るお堂で、かつて離宮のあった亀山殿で後醍醐天皇は、幼少から青年までを過ごしました。中世の貴族の邸宅を思われる建物の多宝殿は、奈良吉野で亡くなった後醍醐天皇に因んで、吉野朝の紫宸殿の造りとなっています。31歳で即位した後醍醐天皇は、自らが政治権力を持とうとして、鎌倉幕府の倒幕を計画、1324年(正中元年)「正中の変」、1331年(元弘元年)「元弘の変」で失敗に終わると、隠岐の島に流されます。その後、幕府の滅亡とともに帰還し「建武の新政」を実現。しかし、足利尊氏の反乱により吉野に移り、南朝を樹立。京都奪還を目指しましたが実現せず、51歳で崩御しました。建武政権は恩賞政策がちぐはぐで、決めたことがすぐに変わってしまう。後醍醐天天皇お気に入りの女官や僧侶に手厚い恩賞があったりして、武士たちは、足利尊氏に付いた方がいいと動き、それが天皇への反発が広がり、建武の新政の失敗につながったといわれています。後醍醐天皇が祀られている多宝殿の周りは桜で取り囲んであります。桜の花をこよなく愛した後醍醐天皇に、いつでも桜を愛でられるようにとの思いが込めらたのかも知れません。













天龍寺から中辻通りを歩きました。天龍寺は空いてましたが、「竹林の小経」に行かれる海外の方で混んでました。竹林人気凄いですね、私は、ここから、あと一箇所寄って行きます。
この記事へのコメント
特別拝観できるのは嬉しいですね。
春秋に比べれば、人も少なかったんじゃ
無いでしょうか。私も若い頃、京都のお寺が
本当に好きだったら冬に行くのがいいよと
言われたんですが、寒い時期に出かけ気力が無くて…。
今回は見せて戴いた中で、茶室「甘雨亭」の
詫びた風情に心惹かれました。庭を流れる水を
大堰川に見立てる趣向も面白いですね。
何度も来ている天龍寺でも、ここの茶室に入ったのは1度だけ。それも随分前となったので来て見た訳です。
ガイドさんも説明して貰ったので良かったですし、久しぶりに空いている天龍寺を見させて貰いました。