第59回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 龍安寺「仏殿・西の庭」へ
第59回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開 龍安寺「仏殿・西の庭」の公開は、冬の旅では10年振りだそうです。私は、2013年(平成25年)12月8日(日)に開催された「文化財特別鑑賞会」で一度だけ入りました。それ以来の訪問です。
この「京の冬の旅」では、3月10日(月)~18日(火)は茶室「蔵六庵(ぞうろくあん)」と江戸時代の狩野洞雲(かのうとううん)(益信)筆の水墨画「龍頭龍尾図(りゅうとうりゅうびず)」の公開に変更されます。それが、写真右の奥にあります。今日は行けませんが。
こちらは「龍安寺垣」と、今は咲いてませんが「侘助椿」です。
この裏手に、複製ですが「蹲踞」があります。そこに書いてあるている文字は。「吾唯足知(われただたるをしる)」です。意味は「己をよく知り貧欲になりすぎるな」というだそうです。本物は非公開で、茶室「蔵六庵(ぞうろくあん)」の手前にあります。

仏殿に至る渡り廊下の手前に、臨時の「拝観受付所」を設けられてました。9時57分頃に着くと「もう少し待って下さい」と。
拝観料は400円でした。スタンプラリーの印を押してもらい最初に「仏殿」に入ります。仏殿内は撮影禁止で、写真はありません。ただ堂内に入っても記憶が殆ど無かったです。
「仏殿」の全景です。この写真は2013年(平成25年)12月8日(日)のものです。この日、ここには行けてません。
現在の仏殿は、1797年(寛政9年)に焼失したものを、1981年(昭和56年)に5年半の歳月をかけて再建されたもの。再建には妙心寺に伝わる古地図に基づいて、場所・規模とともに焼失前に近い形で復元され、総檜造りの建物である。堂内の天井画は、日本画家・武藤彰氏が墨と金泥で「下り龍」を描いたもので、悟りを象徴する金色の玉を右の前足で掴んでいる。仏殿の奥には続いて「昭堂」があって、鎌倉時代後期の慶派の作と伝わる本尊の釈迦如来像と、勧請開山の日峯宗舜(にっぽうそうしゅん)像、創建開山の義天玄承(ぎてんげんしょう)の位牌を安置している。
「京の冬の旅」看板の写真は仏殿の天井画でした。ガイドさんに説明して貰った「下り龍」です。
仏殿の向かって左には、明治天皇や徳川家康の位牌が安置されてて、右には歴代龍安寺住職の位牌が安置されてました。ガイドさんが詳しく説明して貰えます。終わると、私は早々に庭園に向かいました。
ここではスリッパを外用のスリッパに履き替えます。前途したとおり朝に小雨が降ったので、下は若干濡れてます。
今回の特別公開は、仏殿と西の庭です。こちらが「西の庭」の入口で、ここにもガイドさんがスタンバイされてました。
仏殿の西側に広がる「西の庭」は室町時代の庭を復元した約1000坪の回遊式庭園である。庭の中央には、龍安寺を創建した細川勝元の木像を祀る細川廟が建っている。細川勝元は、室町幕府の管領であり、また歴史上「応仁の乱」の東軍総師としても知られている。勝元像の左手には細川家歴代の管領の位牌が並んでいる。
こちらが「細川廟」で、ガイドさんの案内があります。聞くと写真撮影がOKでした。

1658年(明暦4年)藤原種久作。山名宗全と幕臣の雄となったが「応仁の乱」で東軍の総師として戦い、1473年(文明4年)に没した。
勝元像の向かって左には細川家歴代の管領の位牌が並び、なかでも細川頼春は、太平記にも度々登場する足利尊氏の家臣であり、また、頼春の子の頼之は室町幕府第3代将軍・足利義満の補佐役として有名である。太平記の記述も頼之の管領着任をもって終わっている。


広大な「西の庭」の奥まで行ってみます。こちらは「四方仏」でしょうか?。
最奥まで来ると、向こうに「パゴダ」が見えました。
今回の公開では、ここまでです。ガイドさんの話しでは、この裏側にも庭園があって、金森宗和作庭の庭跡などが見られるみたいです。ただ今回は非公開でした。




西の庭から仏殿に戻る途中に、太鼓橋があって、下に川が流れています。今日は小雨が降ったので滑りやすくなってました。


西の庭から仏殿に戻り、ここを出ました。その前に仏殿の前には「鐘楼」があって、今日は近くに行けませんでした。

仏殿から方丈に戻ります。渡り廊下の前に、「昭堂」を撮りました。ご覧のように仏殿と昭堂は繋がっています。
方丈に戻ると、団体さん来られたようで、格段に人が増えています。また、修学旅行生の姿も見えました。こんな寒い時期に珍しいなぁ・・・と思いながら、最後に「石庭」を撮りました。








龍安寺に来たら「石庭」は外せないですね。特に海外の方に人気があるようで、縁側に多くの方が座って石庭を見てました。
それにしても修学旅行生、強行スケジュールなんでしょうか、足早に来て、足早に去って行かれました。私も10時15分に方丈を出ました。

庫裏を出て、順路どおり「勅使門」前に出ました。
勅使門前の石段を降ります。私の前方に修学旅行生の集団が、そして後ろにも修学旅行生の集団が。要するに賑やかな集団に挟まれてて・・・。
歩くの速い学生さん。前方のは遠くに行きましたが、後方のが迫ってきてました。この門は、先程「西の庭」から見た門です。
ここから鏡容池に出られる参道です。ここで学生さんに抜かれて行きました。静かな参道が賑やかなこと😊。



学生さんが足早に去って行き、私はゆっくり「鏡容池」を見て行きます。ここでアヒルとカモが近づいて来たので撮れました。

鏡容池を見ながら歩いて行くと、途中に「水分石(みくまりいし)」が見えきます。これは池の水位を測るために置かれた石だそうです。

普段は、ここでアヒルが佇んでいる「伏虎島」です。今日は一羽しか居なかったです。

10時26分に「山門」から出ました。
あれだけ早く歩いて行った学生さんはトイレ休憩されてました。観光バスは3台止まってましたが、私が出て行く時も、まだ出発してませんでしたね。インフルエンザが猛威を振るっているので親御さんも心配でしょうし引率の先生も心労計りかねます。私は、ここから病院へ見舞ったあと帰りました。







現在の仏殿は、1797年(寛政9年)に焼失したものを、1981年(昭和56年)に5年半の歳月をかけて再建されたもの。再建には妙心寺に伝わる古地図に基づいて、場所・規模とともに焼失前に近い形で復元され、総檜造りの建物である。堂内の天井画は、日本画家・武藤彰氏が墨と金泥で「下り龍」を描いたもので、悟りを象徴する金色の玉を右の前足で掴んでいる。仏殿の奥には続いて「昭堂」があって、鎌倉時代後期の慶派の作と伝わる本尊の釈迦如来像と、勧請開山の日峯宗舜(にっぽうそうしゅん)像、創建開山の義天玄承(ぎてんげんしょう)の位牌を安置している。

仏殿の向かって左には、明治天皇や徳川家康の位牌が安置されてて、右には歴代龍安寺住職の位牌が安置されてました。ガイドさんが詳しく説明して貰えます。終わると、私は早々に庭園に向かいました。


仏殿の西側に広がる「西の庭」は室町時代の庭を復元した約1000坪の回遊式庭園である。庭の中央には、龍安寺を創建した細川勝元の木像を祀る細川廟が建っている。細川勝元は、室町幕府の管領であり、また歴史上「応仁の乱」の東軍総師としても知られている。勝元像の左手には細川家歴代の管領の位牌が並んでいる。



















方丈に戻ると、団体さん来られたようで、格段に人が増えています。また、修学旅行生の姿も見えました。こんな寒い時期に珍しいなぁ・・・と思いながら、最後に「石庭」を撮りました。

























あれだけ早く歩いて行った学生さんはトイレ休憩されてました。観光バスは3台止まってましたが、私が出て行く時も、まだ出発してませんでしたね。インフルエンザが猛威を振るっているので親御さんも心配でしょうし引率の先生も心労計りかねます。私は、ここから病院へ見舞ったあと帰りました。
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