旧嵯峨御所大覚寺門跡 日本最古の人工の林泉「大沢池」へ
1月29日(木)は久しぶりに朝から快晴の天気で、最低気温は2.7℃と少々寒かったけど、散歩がてらに旧嵯峨御所大覚寺門跡の日本最古の人工林泉である大沢池に行ってみることにしました。
8時59分に「大沢門」前に着きました。開門の準備をされていたから待たずに済みました。
振り返るとお堂エリアの入口がありますが、誰も居ないようです。こんな寒い朝に、花も見られないので空いてて当然です😊。
拝観料300円を納めてて9時ちょうどに「大沢門」から入りました。
入ると「望雲亭」の前に山茶花が咲いていました。


昨年12月4日放送の「冨永愛の伝統to未来~ニッポンの伝統文化を未来へ紡ぐ~」(BS日テレ)で、この望雲亭で嵯峨天皇の時代から1200年受け継がれる「いけばな嵯峨御流」を体験されてました。
その望雲亭の南側から大沢池を巡ります。


大沢池が見える所まで来ると詠碑があります。「わが友の 平田の大人の おもひもの 東をんなの 見目 うつくしも」嵐山 島田保子。
山茶花咲く下にも詠碑があります。「紅を 少しのぞかせ ふっくらと 椿の蕾 只の一輪」平田春一(1894~1973)。

大沢池に出ると、今日は天気が良いので、愛宕山の山頂まで綺麗に見えています。

冬の乾いた風が強く吹き抜け、大沢池も波がたっています。
カモも泳いでますが、見た目も寒そうです😊。

次の詠碑は「嵯峨の蟲 いにしへ人に なりて開く」鈴鹿野風呂(1887~1971)。




ここから「菊ケ島」をズームで見てみると、多くのカモやサギが休んでいます。あとで近づくいてみますが?。
次の詠碑は「花を惜しむこころは いった何なのだろう いくつ齢をかさねたら 心はしずまり ひとり酒汲む静寂に 住むことができるのか 今日も嵯峨御所から 花信が舞ひこんできた」臼井喜之介(1913~1974)。
手前が「菊ケ島」で、奥に「五大堂」が見えています。この島に自生していた野菊(嵯峨菊)が、嵯峨天皇の愛した野菊でした。
この野菊(嵯峨菊)を離宮に持ち帰って花瓶にさして愛でたと言われています。これが「いけばな嵯峨御流」の始まりになりました。

名勝「名古曽瀧」には必ず寄りました。離宮嵯峨院の滝殿庭園内に設けられたもので、今昔物語では百済川成(くだらのかわなり)が作庭したと伝わります。
「滝の音は 絶えてひさしくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」藤原公任。藤原公任(ふじわらのきんとう)は平安時代の歌人。詩歌や管弦の諸芸に通じ、また故実に詳しく、書は古筆として珍重されています。和漢朗詠集や拾道和歌集などの撰に携わりました。三十六歌仙の1人。NHK大河ドラマ「光る君へ」では、町田啓太さんが演じました。

やっぱり近づくと菊ケ島に佇んでいたカモが飛び立ちました。

次に名古曽橋を渡って天神島にはいりまが、その前の詠碑「ひともとと おもひし菊を おほさはの 池のそこにも たれかうえけん」紀友則(850~904)。
天神島に入る前に、新しく整備された「梅林遊歩道」を見ました。梅が咲く頃に行ってみます。



2024年(令和6年)2月6日(火)に完成した「名古曽橋」を渡って「天神島」に入りました。
天神島に入って直ぐの嵯峨天皇が詠まれた漢詩「嵯峨天皇詠碑」が石碑を見ました。
当時弘法大師空海は神護寺の現在の大師堂に住まわれてました。その空海は、度々山を降り嵯峨天皇が住む離宮嵯峨院に会いに来られたようです。嵯峨天皇と弘法大師空海がお茶を楽しまれてて、空海が神護寺に帰るとき、嵯峨天皇が別れを惜しんで作られたのが、この漢詩だそうです。漢詩は以下の通りです。
与海公飲茶送帰山一首(かいこうとちゃをのみやまにかえるをおくる)(空海と茶を飲みて山に帰るのを送る)
御製(ぎょせい)
道俗相分経数年(どうぞくあいわかれてすうねんをへたり)(僧と俗人相別れて数年を経たり)
今秋晤語亦良縁(こんしゅうごごするもまたりょうえん)(この秋打ち解け語り合えた事は良縁)
香茶酌罷日云暮(こうさくみやすみてひここにくれる)(茶を入れては飲むのをやめ日暮れる)
稽首傷離望畑烟(けいしゅしてわかれをいたみうんえんをのぞむ)(頭を低くたれて別れを惜しみ帰って行く雲烟を眺める)
天神島から、奥の「菊ケ島」と、手前「庭湖石」を見ています。先程、あんなに居たアオサギやカモが飛び立って少なくなっています。

この天神島には菅原道真公を祀る「天神社」があります。
天神社は菅原道真公を御祭神として祀られています。嵯峨天皇第(第52代天皇)が建立された離宮嵯峨院は清和天皇(第56代天皇)の勅許を得て、876年(貞観18年)に大覚寺が開祖され創建に当たり、清和天皇への上奏文を起草され仏法の興隆と衆生齊度のため僧俗2人の別当を置くよう進言されたのが菅原道真公です。また、道真公自身も大覚寺の俗別当(俗人の身分のまま寺院を統轄する責任者)を務められたと伝わります。
右が「茶筅塚」、左に「嵯峨碑」があります。華道の先達への慰霊碑だそうです。
2024年(令和6年)11月21日放送の「あなたの知らない京都旅」(BS朝日)で、俳優の内藤剛さんが大覚寺を訪れ、この天神島に1/2サイズの金閣寺(舎利殿)が建てられていたを知りました。映画「炎上」(1958年作品)。主演は市川雷蔵だったそうです。今は跡形も残ってませんが、炎上シーンも撮られたのでしょう、今なら許可されないかもです。

天神島に架かる朱塗りの橋を渡るとき、遠くに嵐山を望んでいます。従来、天神島に渡るのは、この橋だけでした。

天神島を出た先に、鎌倉時代中期の作と思われる「石仏群」に行きました。20基を超える如来や菩薩の石仏群。古い者は平安時代後期の作もと伝わります。
次に「護摩堂」が。往古の大覚寺伽藍周辺に建てられた子院の一つであった仏母心院跡に建立され、不動明王を祀られています。ここで毎月一回、10時から1時間30分程度、護摩の炎で心願成就を祈願されます。


「心経宝塔」エリアに入ってきました。通常非公開の「心経宝塔」は1967年(昭和42年)、嵯峨天皇心経写経1150年を記念して建立。基壇内部に「如意宝珠」を納めた真珠の小塔を安置。宝塔内部には秘鍵(弘法)大師尊像が祀られています。
心経宝塔の下の石碑には、経営の神様が書かれた「頌徳」の文字が。意味は徳を褒め称えることのようですね。
こちらの石碑には「五蘊(ごうん)」と書かれています。「蘊」はあつまりの意で 仏語。 色(物質)、受(印象・感覚)、想(知覚・表象)、行(意志などの心作用)、識(心)の五つをいい、総じて有情の物質、精神の両面にわたる。 因縁によって生ずる有為法をいう。 また、心身環境をも示す。
ここでトイレ休憩😊。多目的施設「蓮華殿」の西側にあります。2017年(平成29年)12月2日(土)の「夜間特別拝観」には完成間近のカフェに入ることができました。
「聖天堂」です。当初は望雲亭西側に建っていますが、1962年(昭和37年)に現在池に移築されました。内部には歓喜天・十一面観世音菩薩が祀られています。
「大日堂」です。大覚寺門跡が、明治初頭まで兼帯していた安井門跡蓮華光院が管理していた洛東の岩倉山真性寺が廃寺となる際に移築されたもの。内陣には六角堂石造りの大日如来坐像が安置されています。
「閼伽堂(あかどう)」です。今日は横で作業をされていたので写真だけ撮って内部は見てません。


これで心経宝塔エリアを出て、再び護摩堂の前を通りました。再び大沢池を巡ります。


放生池越しに心経宝塔を撮りました。ここがビューポイントで、いつもここは撮ってます😊。
先の菊ケ島で休んでいたカモが、ここまで来て泳いでいます😊。
「五社明神」の「拝殿」の前に来ました。長いこと「本殿」を工事されてましたが、そろそろ終わったようです。
「本殿」です。「伊勢神宮(豊受皇大神)」「伊勢神宮(天照皇大神)」「八幡宮(応神天皇)」「春日宮(天津兒屋根命)」「住吉宮(底筒男命 表筒男命 中筒男命 神功皇后)」の五社が祀られています。
同じ境内の東側には「氣比大明神社」と「多賀大明神社」があります。

少し下がって同じ東側に「正一位稲荷大明神社」もあります。
向かい(西側)に移動し「愛宕大権現社」と「清滝大権現社」が。
最後が「松尾大明神社」です。

最後に、大沢池の西側から見て、ここを出て行くことにします。

「五大堂」です。数名の方が来られているようです。春節期間ということもあって言葉から中国人のようでしたが・・・?。


時代劇でお馴染みの、この川の名前「御殿川(ごてんがわ)」を前途した内藤剛さんの番組で知りました。



これで大沢池を離れます。天気も良かったし、人も少なかったので良い散歩になりました。
こちらは「津崎村岡碑」1892年(明治25年)建立。津崎矩子は幕末から維新にかけての女性勤王派。晩年は北嵯峨の直指庵に隠居。嵐山 亀山公園には、銅像もありまし、直指庵には墓もあります。
津崎矩子(つざきのりこ)は1786年(天明6年)嵯峨に生まれ、父は津崎左京。近衛忠煕に仕え村岡局(むらおかのつぼね)と名乗る。1853年(嘉永6年)ペリーの来航とともに幕末の政局は俄に慌ただしくなり、近衛卿は尊王攘夷派の公家として頭角を現した。局は、僧月照(げっしょう)や水戸の鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)らと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たり、特に、近衛卿や西郷隆盛らの運動を助け活躍した。このため、1858年(安政5年)、井伊直弼による「安政の大獄」が起こると、局も捕えられて江戸に送られ、永の慎に処せられた。その後、近衛家を辞して北嵯峨の直指庵に隠居、付近の子女の教育に尽くした。村岡局は維新の女傑といわれているが、晩年は子女の教育に尽くし嵯峨庶民の慈母でもあった。1873年(明治6年)に88才で没した。

9時40分に「大沢門」から出て行きました。

帰りは北嵯峨の田園風景を見ながら帰路に着きました。
この日の最高気温は9.3℃までしか上がりませんでした。寒いです。ここから約1週間は、中国の春節の期間に入るということで、中国からの観光客が増えるでしょう。世界文化遺産の寺や神社には行けないですね。





























「滝の音は 絶えてひさしくなりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ」藤原公任。藤原公任(ふじわらのきんとう)は平安時代の歌人。詩歌や管弦の諸芸に通じ、また故実に詳しく、書は古筆として珍重されています。和漢朗詠集や拾道和歌集などの撰に携わりました。三十六歌仙の1人。NHK大河ドラマ「光る君へ」では、町田啓太さんが演じました。










当時弘法大師空海は神護寺の現在の大師堂に住まわれてました。その空海は、度々山を降り嵯峨天皇が住む離宮嵯峨院に会いに来られたようです。嵯峨天皇と弘法大師空海がお茶を楽しまれてて、空海が神護寺に帰るとき、嵯峨天皇が別れを惜しんで作られたのが、この漢詩だそうです。漢詩は以下の通りです。
与海公飲茶送帰山一首(かいこうとちゃをのみやまにかえるをおくる)(空海と茶を飲みて山に帰るのを送る)
御製(ぎょせい)
道俗相分経数年(どうぞくあいわかれてすうねんをへたり)(僧と俗人相別れて数年を経たり)
今秋晤語亦良縁(こんしゅうごごするもまたりょうえん)(この秋打ち解け語り合えた事は良縁)
香茶酌罷日云暮(こうさくみやすみてひここにくれる)(茶を入れては飲むのをやめ日暮れる)
稽首傷離望畑烟(けいしゅしてわかれをいたみうんえんをのぞむ)(頭を低くたれて別れを惜しみ帰って行く雲烟を眺める)



天神社は菅原道真公を御祭神として祀られています。嵯峨天皇第(第52代天皇)が建立された離宮嵯峨院は清和天皇(第56代天皇)の勅許を得て、876年(貞観18年)に大覚寺が開祖され創建に当たり、清和天皇への上奏文を起草され仏法の興隆と衆生齊度のため僧俗2人の別当を置くよう進言されたのが菅原道真公です。また、道真公自身も大覚寺の俗別当(俗人の身分のまま寺院を統轄する責任者)を務められたと伝わります。










































津崎矩子(つざきのりこ)は1786年(天明6年)嵯峨に生まれ、父は津崎左京。近衛忠煕に仕え村岡局(むらおかのつぼね)と名乗る。1853年(嘉永6年)ペリーの来航とともに幕末の政局は俄に慌ただしくなり、近衛卿は尊王攘夷派の公家として頭角を現した。局は、僧月照(げっしょう)や水戸の鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)らと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たり、特に、近衛卿や西郷隆盛らの運動を助け活躍した。このため、1858年(安政5年)、井伊直弼による「安政の大獄」が起こると、局も捕えられて江戸に送られ、永の慎に処せられた。その後、近衛家を辞して北嵯峨の直指庵に隠居、付近の子女の教育に尽くした。村岡局は維新の女傑といわれているが、晩年は子女の教育に尽くし嵯峨庶民の慈母でもあった。1873年(明治6年)に88才で没した。




この日の最高気温は9.3℃までしか上がりませんでした。寒いです。ここから約1週間は、中国の春節の期間に入るということで、中国からの観光客が増えるでしょう。世界文化遺産の寺や神社には行けないですね。
この記事へのコメント
広々とした大沢池の眺めはとても気持ちが
いいように思いました。ちょっとした
湖という感じです。水鳥が多かったですか。
菊ケ島にはカワウの姿が多く見えますね。
冬ならゆっくり京都旅行もできるだろうと
思うものの、寒い時期にはなかなか
旅行する勇気も湧きません。