第59回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開「慈照寺(銀閣寺) 本堂・弄清亭」へ
2月17日(月)は、今季2度目の最強寒波の到来の前日、最低気温は3.6℃と氷点下が続いていた日に比べたら寒さはマシでしたが、それでも寒かったです。この日は予定通りの通院日で、終わり次第に車で慈照寺(銀閣寺)に向かいました。慈照寺(銀閣寺)には2022年(令和4年)2月7日(月)以来です。
この日、慈照寺(銀閣寺)に来たのは、第59回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開で、非公開の 「本堂・弄清亭」を事前予約していたからです。
特別拝観は、ツアー方式でガイドが案内。時間は、10時00分~、11時00分~、12時00分~、13時30分~、14時30分~、15時30分~、各所要約30分(定員21名程度)、完全入れ替え制&事前予約優先制で実施とありました。私は、12時00分からの部を予約してしました。
10時55分に「京都市営 銀閣寺 観光駐車場」に入れました。料金は1040円、近くのコインパーキングの方が安かったかも知れません。リサーチ不足でした😢。

車を指定された所にとめて、「哲学の道」を少しだけ歩き、「銀閣寺橋」を渡ります。
今日は、事前予約をしているので、慈照寺(銀閣寺)に11時頃に入りたかったので、銀閣寺から最も近い所にとめた訳です。銀閣寺橋を渡ると、真っ直ぐ東に向いて、緩やかな坂を上がって行きます。金閣寺ほとではありませんが、銀閣寺も外国人観光客多いです。
11時に「総門」前まで来ました。今日の天気予報は晴れでしたが、曇ってます。銀閣寺の庭園を見ているときには雨も降り出しました。
余談ですが、今日の降水確率は午前10%、午後20%でしたが、昼からは本降りの雨も降りました。晴れたと思ったら雨降り、強い寒気が入ってきてて、目まぐるしく変わる天気となりました。とにかく風が強くて寒かったです。

この写真は帰りに撮りました。帰る頃は晴れて来てました。総門前には「京の冬の旅」の看板出てました。

入口から黒石を敷き詰められた石畳は緩やかな坂になっています。医薬門様式の「総門」は、1800年(寛政12年)の再建。

総門から中門までの間は「銀閣寺垣」が参道沿いに続いています。石垣、竹垣、椿の生垣で構成され、綺麗に刈り込みされてます。
この先の左手に「拝観受付所」があって、拝観料500円を納めます。向かいに納経所があって、先に預けるそうです。今日は朱印帳忘れました😢。
この「中門」を入ると、左手に受付があって、拝観料を納めた際にいただいたお札に付いている半券を取られます。
入ると、右手の奥に唐門の「宝処閣」が見えます。花頭窓越しに人が見えるので、庭園内には人が多そうです。

ここから、いよいよ銀閣寺庭園に入ります。2022年(令和4年)2月7日(月)の銀閣の名の由来となった「観音堂」は?。

さっそく「向月台」が目の前にありました。この向月台と「観音堂」とセット撮りたいと思いましたが人が多くて・・・。

金色に輝く舎利殿(金閣)も良いけど、地味な?「観音堂」(銀閣)は私は好きです。
この時、11時4分で、11時からの特別公開が始まってました。私は11時50分頃に戻ってくる予定です。それまで庭園内を散策します。
手前が「銀沙灘(ぎんしゃだん)」で高さ35~40㌢。先の「向月台」は高さ1.8㍍。江戸時代初期、宮城丹波守豊盛が整備する前、池は白い流砂で埋まっていたそうで、その砂を盛り上げことが、砂盛りにつながったといわれています。

普段、人の居ない「本堂」は、今回の特別公開で数名がガイドさんの話しを聞いてます。のちほど私も、ここを上がる予定で楽しみです。
室町幕府8代将軍足利義政は14歳で将軍の地位につくも、時代は既に幕府の権力は無力化となってました。義政は政治に関心を寄せず美の世界へ傾斜していきます。自らが起因した「応仁の乱」の際も積極的な対策をとらず優雅な生活にふけっていきます。その義政が晩年の7年間に築き上げたのが隠棲のための東山山荘でした。その義政の山荘を禅寺に改めのが慈照寺(銀閣寺)です。創建当初から残る国宝の観音殿(銀閣)や東求堂の簡素で風雅な佇まいや、庭園(特別史跡・特別名勝)の美しさで知られる相国寺の山外塔頭です。
本堂(方丈)と国宝「東求堂」の間にある小さな庭園の奥に「銀閣寺形手水鉢」があります。別名を袈裟型手水鉢と呼ばれる市松模様のモダンなデザインです。
国宝「東求堂」です。あとの特別公開でガイドさんから聞いた話しで、元は足利義政の持仏堂でした。春と秋に特別公開されます。

順路に従って進むと「錦鏡池(きんきょうち)」の中にある名石「大内石」がありました。室町時代の守護大名大内政弘(おおうちまさひろ)が東山山荘造営に際し、室町幕府第8代将軍足利義政に献上した石と言われます。


順路とは逆なんですが、ここが銀閣寺でのビューポイントなんで空いている間に写真を撮りました😊。
「観音堂(銀閣)」は、中世の楼閣建築や庭園建築の代表とされています。その名は、金色に輝く鹿苑寺の舎利殿が金閣と呼ばれたのに対する呼称ですが、近年の調査でも、建物の外側に銀箔を貼った痕跡は認められなかった。1階は「心空殿(しんくうでん)」と呼ばれた住宅風、2階は花頭窓に囲まれた禅宗様の造りで「潮音閣(ちょうおんかく)」といい、ここに観音菩薩坐像が安置されている。

その先のは小さな滝は「洗月泉」です。錦鏡池の南東端にあって、山から出た湧き水が、下段にある錦鏡池に流れ落ちます。義政造営時の姿を今に伝えています。

少し石段を上がった先には鎮守社七福神の一つ「辨財天」が祀られていたので寄りました。音楽・才智・福徳の神とありました。

ここから見た檜皮葺の国宝「東求堂」です。「令和7年春の特別拝観」3月21日(金)~ 5月6日(火)で公開されます。
もとは室町幕府8代将軍足利義政の持仏堂として、阿弥陀三尊像を安置し、1486年(文明18年)に建立された。仏間の北東に同仁斎と呼ばれる四畳半の書院があり、初期の書院造りを代表する名建築です。
この東求堂の背後に見えているのが、この日、特別公開で入る「弄清亭」です。「令和7年春の特別拝観」3月21日(金)~ 5月6日(火)で、こちらも公開されます。




次に山裾に沿って石段をぐんぐん上がって行きます。途中で観音殿(銀閣)の屋根が見えました。余談ですが、この頃はに小雨が降ってきて、傘を差してます。

次の「お茶の井」に向かう途中にあった墓石でしょうか、由緒にも載ってないので、詳細はわかりません。
登り切った先には「お茶の井」がありました。
この庭園石組みは1931年(昭和6年)に発掘され、竹亭漱蘚亭(そうせんてい)跡であり西芳寺(苔寺)の龍淵水石組を模範に作られたとされている庭園である。また、井泉は義政公愛用のお茶の井跡は水質も豊で、現在もお茶会等の飲料水として使用されています。泉辺の石組みは、当時遺構そのままであり、茶庭の蹲踞手水鉢前の源流とされる。
こちらは「漱蘚亭跡(そうせんていあと)」です。上段の庭を苑路から望み、漱蘚亭跡付近には崩れかかったような珍しい石組みが見られます。


この先に「展望所」があります。遠くには「左大文字」も見えました。対面に見えている小高い丘は吉田神社ですね。

さっきまで小雨降っていたのに、晴れて来ました。ここからも「観音殿(銀閣)」の屋根が見えました。






順路に従って「観音殿(銀閣)」を撮りました。晴れて来たので綺麗に撮れました😊。質素で華やかさはありませんが、私は金閣より銀閣の方が好きです。
このとき11時24分でした。このまま出口に向かうと「東司」と「売店」があります。売店を通らないと出られないようなコース設定になってて多くの観光客は、ここでお土産を買って帰られます😊。まだまだ時間があるので、私も売店に入って、トイレを済ませて、ここの前で休憩しました。そして11時46分になったので、ここを出て再び順路を逆に進み、特別拝観の入口に向かいます。





11時50分に拝観入口に着きました。既に数名の方が受付済まされてました。
唐門の「宝処閣」から入ると予約状況を確認され、小さな荷物はロッカーに入れ、靴は下駄箱に入れます。大きな荷物はロッカーに入らないので、預けることにして、番号札を貰います。その前に受付で拝観料800円を納め、スタンプラリーの印を押して貰いました。
「頂法寺(六角堂)」「建仁寺 西来院」、そして「慈照寺(銀閣寺) 本堂・弄清亭」で、3個貯まりました。これで何処かでお菓子いただきます。
全員が揃うまで「本堂(方丈)」で待ちました。定員の21名が揃う12時に案内があって、21名を3班に分けての参観となります。私の組は「弄清亭(ろうせいてい)」から「本堂(方丈)」そして「庭園」とガイドさんが説明して回ることになりました。
本堂前で7名が集まり、渡り廊下を通って「弄清亭(ろうせいてい)」に入ってガイドさんの説明を聞きました。初めて入った弄清亭の室内は狭いです。7名に限定される理由が分かりましたし、荷物を預けたのも納得です。ただ狭いので襖絵は間近で観賞できましたね。
弄清亭は、室町幕府8代将軍足利義政が香を楽しんだ「御香座敷(おこうざしき)」を1895年(明治28年)に再建したもの。1996年(平成8年)の改修に際して奉納された日本画家奥田元宋(おくだげんそう)による奥入瀬の渓谷を描いた「流水無限」、部屋一面に牡丹の花が咲く誇る「薫園清韻」、燃えるような紅葉の「湖畔秋耀」など色鮮やかな襖絵を観賞できました。
次に本堂に入ります。最初は仏間に入ってガイドさんの話しを聞きます。なお、本堂の襖絵は全て複製です。写真は8人の仙人を描いた与謝蕪村筆「飲中八仙図」です。
本堂は江戸時代の始め、知恩院の普請奉行も務めた宮城丹波守豊盛の援助により造営されたもの。仏間の内陣には、ご本尊の宝冠釈迦如来像が祀られていました。「室中の間」の襖絵は俳人で画家の与謝蕪村筆「飲中八仙図」(12面)、「上官の間」には文人画家の池大雅筆「琴棋書画図」。文人がたしなむべき技芸である琴・棋・書・画を題材に描いてあります。「下管の間」には与謝蕪村筆「棕櫚に叭々鳥図」、「上官奥の間」に「山水図」の襖絵を観賞できました。
最後は、庭園の説明です。「銀沙灘」と「向月台」、「観音堂」の案内が主でした。
観音堂(銀閣)初層内部は、板敷きの仏間「心空殿」と6畳の書院からなっている。建具も腰高障子が使われ住宅的な造りとなっている。上層は禅宗(唐様)の観音堂で潮音殿と呼ばれる。須弥壇にはを宝冠を付けた金色の観音菩薩像が自然木でかたどられた洞窟の中に安置されているが、観音殿内部は非公開です。

12時28分に終わったので、荷物を受け取り、外に出ました。私は既に境内を散策しているので、ここから出口に向かいます。
帰る頃に雨も止み、晴れて来ました。国宝「東求堂」も、晴れて綺麗に撮れてます。春には特別公開に行ってみようと思ってます。



天気が良く晴れて来たので、「観音殿(銀閣)」の前を通ったので撮って行きます。


「観音殿(銀閣)」の右奥に見えているのが、「八幡社」です。今日は人が多くて撮れませんでした。遠目からやっとです。




近くで見ると「観音殿(銀閣)」、だいぶ痛んでいるように見えました。とくに杮葺の屋根が、そう私は見えました。

前途したとおり出口は売店の前を通ります。その売店横に「室町時代の銀閣彩色の再現」があり寄りました。
こちらは銀閣2階の一部分を復元したものです。創建以来520年の経年変化のため2階の外観前面及び堂内に描かれていた彩色や塗装は劣化して剥げ落ちてしまってます。銀閣は尾根葺き替えを主した修復工事を実施し、室内は前面に漆黒の施されていた空間が存在していたが分かりました。そして、ここに彩色復元をされ展示されているわけです。知らずに帰ってしまいそうになってました😊。

12時37分に「中門」を出ました。次は朱印帳を持参して来たいと思います。
帰りも「銀閣寺垣」を通ります。総門から中門まで長さ約50㍍参道に、銀閣寺垣と呼ばれる竹垣で囲まれた細長い空間があります。防御をかねた外界との区切りとして設けられたそうです。

銀閣寺の「総門」を12時38分に出て、車を停めている「京都市営 銀閣寺 観光駐車場」に12時46分に着き、早々に出て行きました。
銀閣寺には、近くのコインパーキングの方がお得かと思います。少し離れてますが、料金を確認して停めたら良いかなぁと。ただし空いていたらの話しですが。ここから昼食抜きで、病院に行き見舞いに行きました。
この日、慈照寺(銀閣寺)に来たのは、第59回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開で、非公開の 「本堂・弄清亭」を事前予約していたからです。
特別拝観は、ツアー方式でガイドが案内。時間は、10時00分~、11時00分~、12時00分~、13時30分~、14時30分~、15時30分~、各所要約30分(定員21名程度)、完全入れ替え制&事前予約優先制で実施とありました。私は、12時00分からの部を予約してしました。



今日は、事前予約をしているので、慈照寺(銀閣寺)に11時頃に入りたかったので、銀閣寺から最も近い所にとめた訳です。銀閣寺橋を渡ると、真っ直ぐ東に向いて、緩やかな坂を上がって行きます。金閣寺ほとではありませんが、銀閣寺も外国人観光客多いです。

余談ですが、今日の降水確率は午前10%、午後20%でしたが、昼からは本降りの雨も降りました。晴れたと思ったら雨降り、強い寒気が入ってきてて、目まぐるしく変わる天気となりました。とにかく風が強くて寒かったです。



















室町幕府8代将軍足利義政は14歳で将軍の地位につくも、時代は既に幕府の権力は無力化となってました。義政は政治に関心を寄せず美の世界へ傾斜していきます。自らが起因した「応仁の乱」の際も積極的な対策をとらず優雅な生活にふけっていきます。その義政が晩年の7年間に築き上げたのが隠棲のための東山山荘でした。その義政の山荘を禅寺に改めのが慈照寺(銀閣寺)です。創建当初から残る国宝の観音殿(銀閣)や東求堂の簡素で風雅な佇まいや、庭園(特別史跡・特別名勝)の美しさで知られる相国寺の山外塔頭です。







「観音堂(銀閣)」は、中世の楼閣建築や庭園建築の代表とされています。その名は、金色に輝く鹿苑寺の舎利殿が金閣と呼ばれたのに対する呼称ですが、近年の調査でも、建物の外側に銀箔を貼った痕跡は認められなかった。1階は「心空殿(しんくうでん)」と呼ばれた住宅風、2階は花頭窓に囲まれた禅宗様の造りで「潮音閣(ちょうおんかく)」といい、ここに観音菩薩坐像が安置されている。






もとは室町幕府8代将軍足利義政の持仏堂として、阿弥陀三尊像を安置し、1486年(文明18年)に建立された。仏間の北東に同仁斎と呼ばれる四畳半の書院があり、初期の書院造りを代表する名建築です。









この庭園石組みは1931年(昭和6年)に発掘され、竹亭漱蘚亭(そうせんてい)跡であり西芳寺(苔寺)の龍淵水石組を模範に作られたとされている庭園である。また、井泉は義政公愛用のお茶の井跡は水質も豊で、現在もお茶会等の飲料水として使用されています。泉辺の石組みは、当時遺構そのままであり、茶庭の蹲踞手水鉢前の源流とされる。













このとき11時24分でした。このまま出口に向かうと「東司」と「売店」があります。売店を通らないと出られないようなコース設定になってて多くの観光客は、ここでお土産を買って帰られます😊。まだまだ時間があるので、私も売店に入って、トイレを済ませて、ここの前で休憩しました。そして11時46分になったので、ここを出て再び順路を逆に進み、特別拝観の入口に向かいます。






唐門の「宝処閣」から入ると予約状況を確認され、小さな荷物はロッカーに入れ、靴は下駄箱に入れます。大きな荷物はロッカーに入らないので、預けることにして、番号札を貰います。その前に受付で拝観料800円を納め、スタンプラリーの印を押して貰いました。
「頂法寺(六角堂)」「建仁寺 西来院」、そして「慈照寺(銀閣寺) 本堂・弄清亭」で、3個貯まりました。これで何処かでお菓子いただきます。
全員が揃うまで「本堂(方丈)」で待ちました。定員の21名が揃う12時に案内があって、21名を3班に分けての参観となります。私の組は「弄清亭(ろうせいてい)」から「本堂(方丈)」そして「庭園」とガイドさんが説明して回ることになりました。
本堂前で7名が集まり、渡り廊下を通って「弄清亭(ろうせいてい)」に入ってガイドさんの説明を聞きました。初めて入った弄清亭の室内は狭いです。7名に限定される理由が分かりましたし、荷物を預けたのも納得です。ただ狭いので襖絵は間近で観賞できましたね。
弄清亭は、室町幕府8代将軍足利義政が香を楽しんだ「御香座敷(おこうざしき)」を1895年(明治28年)に再建したもの。1996年(平成8年)の改修に際して奉納された日本画家奥田元宋(おくだげんそう)による奥入瀬の渓谷を描いた「流水無限」、部屋一面に牡丹の花が咲く誇る「薫園清韻」、燃えるような紅葉の「湖畔秋耀」など色鮮やかな襖絵を観賞できました。

本堂は江戸時代の始め、知恩院の普請奉行も務めた宮城丹波守豊盛の援助により造営されたもの。仏間の内陣には、ご本尊の宝冠釈迦如来像が祀られていました。「室中の間」の襖絵は俳人で画家の与謝蕪村筆「飲中八仙図」(12面)、「上官の間」には文人画家の池大雅筆「琴棋書画図」。文人がたしなむべき技芸である琴・棋・書・画を題材に描いてあります。「下管の間」には与謝蕪村筆「棕櫚に叭々鳥図」、「上官奥の間」に「山水図」の襖絵を観賞できました。
最後は、庭園の説明です。「銀沙灘」と「向月台」、「観音堂」の案内が主でした。
観音堂(銀閣)初層内部は、板敷きの仏間「心空殿」と6畳の書院からなっている。建具も腰高障子が使われ住宅的な造りとなっている。上層は禅宗(唐様)の観音堂で潮音殿と呼ばれる。須弥壇にはを宝冠を付けた金色の観音菩薩像が自然木でかたどられた洞窟の中に安置されているが、観音殿内部は非公開です。

















こちらは銀閣2階の一部分を復元したものです。創建以来520年の経年変化のため2階の外観前面及び堂内に描かれていた彩色や塗装は劣化して剥げ落ちてしまってます。銀閣は尾根葺き替えを主した修復工事を実施し、室内は前面に漆黒の施されていた空間が存在していたが分かりました。そして、ここに彩色復元をされ展示されているわけです。知らずに帰ってしまいそうになってました😊。





銀閣寺には、近くのコインパーキングの方がお得かと思います。少し離れてますが、料金を確認して停めたら良いかなぁと。ただし空いていたらの話しですが。ここから昼食抜きで、病院に行き見舞いに行きました。
この記事へのコメント
こうやって沢山の写真を拝見して、記憶が蘇ってきます。
青天の下、銀閣や白砂の庭園のわびさび、すばらしいですね。
手前の池がこの風景を見事に演出しますね。
展望所へ登ったことも思い出します。素敵な眺望ですよね。
そんな、定番の場所だけでなく、弄清亭を見学でしたのもよかったですね。
京都の奥深さを感じますよ。
銀閣寺も何度かきてますが、非公開の本堂・弄清亭は初めてでした。国宝東求堂も非公開ですが、春と秋に特別公開されるので行ってみようと思っています。
金閣寺ほど派手はありませんが、地味な?銀閣寺、私は好きです。ただ、ここ最近の人が多すぎるのは、少々辟易しますが。義政公の時代から残る東求堂は是非拝観したいものです。