臨済宗南禅寺派 大本山 南禅寺「方丈」 へ

3月10日(月)は、朝から快晴の天気。当初は曇りの予報でしたが、良い方に変わってくれました😊。晴れたので最低気温は1.6℃と寒かったので、厚着して出掛けることにしたんですが、途中でセーターを脱ぐことに。結果は後程😊。

この日は、2024年(令和6年)9月末から庭園自由見学(建物見学・ガイドはありません)を始めら、2025年(令和7年)1月15日(水)から建物内も公開されるようになった南禅寺別荘群の名庭に行くつもりで、バスと地下鉄を乗り継いで蹴上駅で下車、向かったのは2021年(令和3年)10月22日(金)以来の南禅寺です。南禅寺の三門は、「絶景かな、絶景かな」と、歌舞伎「楼門五三桐(さんもんごさんのきり)」で石川五右衛門が発する名台詞は有名です。あとで方丈に入ってから見たビデオでは、石川五右衛門の時代には三門は建っていなかったと紹介れてました😊。

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地下鉄東西線蹴上駅から歩いて「法堂」まで来ました。ここで入社2日目に社内研修で坐禅したことを思い出します。警策そんなに痛く無かったなぁ😊。

法堂の須弥壇には、ご本尊が祀られており、中央には「釈迦如来坐像」、脇侍に向かって右に「文殊菩薩坐像」、左に「普賢菩薩坐像」が安置されています。

先に案内しましたが、後に入った法堂内で見たビデオで、この天井には今尾景年画伯畢生の大作と云われる蟠龍が描かれていることを知りました。先般訪れた「麓寿庵」は、旧今尾景年宅でした。

臨済宗南禅寺派の大本山で、山号は瑞龍山、正しくは太平興国南禅禅寺という。亀山天皇(第90代天皇)が大宮院(亀山天皇の母)の御所として造営した離宮を1291年(正応4年)に、無関普門(むかんふもん)禅師(大明国師)を開山として日本最初の勅願禅寺に改めたものである。1334年(建武元年)には、禅寺の格付け制度である五山の制の下で京都五山の第一となり、更に室町幕府第3代将軍足利義満によって、京都・鎌倉の禅刹「五山」の最上位、別格として「五山之上」に位置づけられ、今も正式名称を「五山之上瑞龍山太平興国南禅禅寺」といいます。隆盛を極めたが、応仁の乱などにより次第に衰退。南禅寺を再建したのが、徳川家康の側近以心崇伝(いしんすうでん)。徳川家の庇護のもと今に繋がる堂宇が再建された。「方丈」(国宝)は「大方丈」(清涼殿)と「小方丈」から成り、内部の障壁画の多くは重要文化財に指定されている。「小方丈」には狩野探幽の筆といわれる「群虎図」(重文)があり「虎の間」と呼ばれている。また、「大方丈」の前庭は小堀遠州の作とされる代表的な枯山水庭園で「虎の子渡し」として有名である。禅宗様式の巨大な三門(重文)は藤堂高虎が寄進したもので、楼上からは京都市街が一望できる。

IMG_5355.jpgIMG_5356.jpg8時59分に拝観受付所のある「庫裏」に入りました。下駄箱がないので、靴は袋に入れます。ここは8時40分から拝観されているので、出て来られ方もいました。参考までに拝観料は600円でした。

IMG_5358.jpgIMG_5359.jpg南禅寺の正式名称である瑞龍山太平興国南禅禅寺の山号である瑞龍山の「瑞龍」と書かれています。第8代南禅寺管長 嶋田菊僊筆とありました。

IMG_5361.jpgIMG_5427.jpg次の「龍虎之間」に行くと、「鹿(しし)おとし」の音が聞こえてきて立ち止まりました。たまたま音が聞くことができラッキーでした。

次の部屋では南禅寺を紹介するビデオが流されて、数名の方が見られています。私は帰りに寄ってみます。先ずは「方丈」(国宝)と前庭を見に行きます。

IMG_5425.jpgIMG_5426.jpg方丈」とは住職の住まいとされる建物。方丈は6室で構成されるのが基本ですが、南禅寺の方丈は2つの建物を組み合わせており、「大方丈」9室、「小方丈」6室の15の部屋で構成されています。

IMG_5364.jpgこちらの部屋には「寒山像(左)・拾得像(右)」が置いてありました。唐津焼 中野寛林 作。唐津市 龍海寺寄贈。

IMG_5366.jpgIMG_5367.jpgIMG_5368.jpgIMG_5369.jpgIMG_5370.jpg先ずは「方丈庭園」を見ました。大方丈前に白砂を敷き、東南隅から筑地塀にそって大中小の3石を配し、さらにその前に小さな石を3石を配している。この配しが虎が子を連れて川を渡るように見立ていることから、「虎の児渡し」と呼ばれている。

1951年(昭和26年)に国の名勝に指定。小堀遠州作と伝えられ、江戸時代初期の代表的枯山水庭園。南から西にかけて5本の定規線を配した薄青色の筋塀(築地塀)をめぐらし、東西に細長い地形に作庭されている。石組はこの筋塀に添って配置されており、大きな石組を方丈側から見て左奥に配し、前方と右手には、白砂の広い空間を残しています。大きな石は母虎、小さな石は子虎、そして白砂に描かれた模様は水を表し、母虎が子虎を従えて、川を渡る光景を見立てているそうで、通称「虎の子渡しの庭」と呼ばれている。

IMG_5363.jpg大方丈」内は左から「花鳥之間」、障壁画は狩野永徳。「御昼之間」、障壁画は狩野永徳の「二十四孝図」(重文)。「麝香(じゃこう)之間」、障壁画は狩野元信。「柳之間」、障壁画は狩野元信。全て複製でした。

南禅寺の大方丈は、江戸時代初期、第270世住職の以心崇伝の時代に御所の建物を下賜されたもの。近世宮廷建築を今に伝える遺構となっています。1953年(昭和28年)国宝に指定されました。

IMG_5377.jpg本当は、順序が逆なんですけど、方丈の東を進みました。最初に見たのは、蔵と方丈と書院に囲まれた苔が主体となる「還源(げんげん)」です。

IMG_5378.jpgIMG_5379.jpgIMG_5396.jpgIMG_5398.jpg「還源庭」の左手(西側)には、あとで見ることになる「鳴滝之間」の前庭となる「鳴滝庭」があります。そこには「大硯石」がありました。

大硯石の原石は、紅縞と呼ばれる大理石の一種で岐阜県大垣市赤坂町の金生山で採掘されたものである。1906年(明治39年)矢橋亮吉氏が加工し寄贈さたもので、この原石は既に掘り尽くされ現存しない大変貴重なもの。かすかに紅色を帯びた縞模様が見られ、紅縞石と呼ばれている。もともとは三億年も前、ハワイ諸島あたりの海底にあった地層が移動隆起したものといわれ、たくさんのウミユリという生物の化石が含まれていることで有名である。大理石は風雪雨露に弱く、この大硯石もすでにたくさんのヒビ割れが見られる。このような大きな紅縞石の加工されたものは、他には存在いたしません。加工れさてすでに約百年の年月を経ている。当時は未だ電動器具の無い時代ですので、すべて手作りものである。

IMG_5380.jpgIMG_5381.jpg次に、1984年(昭和59年)に新たに造られた「華厳庭(けごんてい)」がありました。庭は「南禅寺垣」に囲まれている。

IMG_5382.jpgIMG_5383.jpgIMG_5384.jpgこのまま奥に進むと左手に「六道庭」がありますが、それは後程。そのまま進み右手に茶室が見えて来ました。

IMG_5386.jpgIMG_5394.jpg茶室窮心亭」です。1968年(昭和43年)に開基亀山法皇の650年御遠諱を記念し茶道宗徧流一門の寄進によって建立されました。

修学院離宮の「上の茶屋」にある後水尾天皇(第108代天皇)御命名の茶亭「窮邃軒(きゅうすいてい)」の趣を慕って命名された。

IMG_5390.jpgIMG_5391.jpg渡り廊下を進むと、これ以上は行けない所から見た、1984年(昭和59年)に作庭された「龍吟の庭」と「涵龍池」が、そして遠くに1954年(昭和29年)に建てられた茶室不識庵」が見えました。

不識庵は、1954年(昭和29年)開基亀山法皇の650年遠忌の際、茶道茶道宗徧(そうへん)流有宗匠から寄進されたものである。「不識」とは昔、達磨大師が梁の武帝と対面したとき「私の前にいるのは誰か」と問われ「不識(しらず)」と答えた。自分を説明しようとしても言葉では真の自分を説明しつくすことはできず、自分から離れてします。本当の自分とは何なのか知るためには、心を窮(きわ)めていかなければならない。

IMG_5392.jpg1983年(昭和58年)に建てられた「龍渕閣」には入れないので、ここから引き返します。

IMG_5395.jpgIMG_5397.jpgIMG_5408.jpg苔の綺麗な「六道庭」は、1967年(昭和42年)に作庭されました。六道輪廻の教えを考える庭となっています。

六道輪廻とは、天上道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の六つの世界を私たちは生まれ変わり続けるという仏教の世界観をいう。道とは世界のことである。一面の杉苔の中に配石された景色を眺めながら静かに現実を直視すると煩悩に迷い涅槃の境地に達することなく六道を輪廻する我々凡夫の儚さを想う。

IMG_5406.jpg拝観ルートは逆ですが、「方丈」裏手に入りました。

IMG_5402.jpgこの部屋には「後醍醐天皇(第96代天皇) 恩賜の輿」が展示されてました。

1324年(正中2年)の正月、宮中清涼殿において「正中の法論」が行われ、南禅寺住持通翁鏡円(つうおうきょうえん)禅師が禅宗宋代表となり大いに面目を施し、それに後醍醐天皇は禅師の労をねぎらい帰路のために下賜されたのがこの輿である。病をおして七日七夜の法論に臨んだことで、この輿で亡くなられた。

ここにも襖絵があって「鳴滝之間」で、障壁画は狩野永徳でした。複製と書いて無かったので、本物かも知れません。

IMG_5410.jpgIMG_5412.jpgIMG_5413.jpg次に伏見城の遺構とされている、国宝小方丈」に入りました。寛永年間(1624~44年)の建築です。

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南禅寺の襖絵は複製でも撮影禁止です。たまたま見つけた画像です。

小方丈の手前から「一之間」、「二之間」、「三之間」とあり、狩野探幽筆と伝わる「群虎図」(重文)40面があり「虎の間」と呼ばれています。雌の虎と、雄の虎が水を飲んでます。雌はヒョウ柄、この時代に虎が日本に居なかったので、ヒョウを虎の雌だと思われていたそうです。

最後が「鶴之間」で、障壁画は狩野元信でした。こちらは複製と書いてありました。この小方丈の前にも庭園があり見て行きます。

IMG_5415.jpgIMG_5416.jpgIMG_5417.jpgこちらの石庭は「如心庭」といい、白砂に据えられた5つの石が、どの方向から見ても「心」字をあらわしているとか。

国宝「小方丈」の庭園は「如心庭」と言われ、その名の如く心字形に庭石を配した枯山水の石庭である。庭の配置につては「心を表現せよ」と当時の南禅寺は派管長である柴山全慶(しばやまぜんけい)老師が自ら熱心に指導されたとのこと。

IMG_5421.jpgIMG_5424.jpgIMG_5422.jpgここで南禅寺を紹介するビデオを12分間見ました。南禅寺の歴史について詳しく知ることができました😊。

IMG_5452.jpg何故、ビデオを見たかというと、9時30分から始まるお茶席の時間を待っていたから。

IMG_5429.jpg先ずは拝観受付所に戻って茶券を購入します。それをもって「滝の間」に入室するわけです。

IMG_5430.jpgIMG_5432.jpgIMG_5433.jpgIMG_5434.jpgIMG_5436.jpgIMG_5437.jpg今日は、ここに入る目的で南禅寺来ました。ここに入るのには茶券が必要で、いままで来られませんでした。

IMG_5442.jpgIMG_5443.jpgIMG_5444.jpgIMG_5446.jpgお菓子は、こし餡入りのきな粉の落雁で、南禅寺の紋である雨龍(あまりゅう)があしらわれています。いただく前に「きな粉」を零さないようにと案内されてました。

IMG_5447.jpg亀屋清永さんの南禅寺限定お菓子だそうで、大変美味しかったです。ここの部屋で見て行かれますが、誰も入ってこられませんでした。

IMG_5453.jpg久しぶりに来たので、拝観受付所の左手にある納経所に寄り、御朱印をいただきました。

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南禅寺では直書きの御朱印はありません。すべて書き置きのみです。「金剛王宝殿」とは法堂のことです。

IMG_5454.jpg9時51分に南禅寺「本坊」を出ました。今日は南禅院や三門には寄りません。10時からの別荘群庭園に向かいました。

久しぶりの南禅寺、何回来ても良いですね。一度紅葉時に来て見たいですが。

この記事へのコメント

2025年04月13日 13:48
はい、私も今回、南禅寺へも訪れました。
目的は桜でしたが、方丈や小方丈にも入って、枯山水の庭園を鑑賞しました。久しぶりでしたが、やはり見事です。広さもありますよね。
もちろん、襖絵も鑑賞。本物か複製品かはあまり気にせず。
よく分かりませんし、その余裕は無かったです。実際、かなり暗いですよね。
私もビデオを見ましたよ。
ただ、お茶の「滝の間」へは入らず。こんなふうな優雅な時間が過ごせるのですね。次回は入ってみたいです。
壬生里
2025年04月13日 19:57
ミクミティさんへコメントありがとうございます。

南禅寺に行かれたということで、近くの無鄰菴とか對龍山荘も行かれたのでしょうか、南禅寺庭園別荘群では、珍しく常時拝観しているので。とくに對龍山荘はお勧めです。
南禅寺も方丈と三門、南禅院が有料で、桜の時期には哲学の道なんかも桜が綺麗ですし、椿の霊鑑寺など見所が多いです。充分楽しまれたのでしょうか、レポート楽しみです。