第59回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開「東本願寺 宮御殿・桜下亭」へ
今年の1月10日(金)から始まった第59回 京の冬の旅 非公開文化財特別公開も、3月18日(金)が最終日でした。この日訪れたのは「東本願寺 宮御殿・桜下亭」で、当初は行く予定にしてなかったので最終日に来てみたわけです。
東本願寺の特別公開は、2023年(令和5年)1月20日(金)に「第57回 京の冬の旅」で、大寝殿と白書院に入りました。私は宮御殿を大寝殿と勘違いしてて、気がついたときは会期末になっていた・・・ということです。後は、2022年(令和4年)1月18日(火)に「第56回 京の冬の旅」で、御影堂門に上がりました。昨年は、「第58回 京の冬の旅」で、東本願寺の飛び地にある渉成園(枳殻邸)の園林堂が特別公開されたので行ってます。
宮後殿には、2012年(平成24年)5月12日(土)に京都市文化観光資源保護財団主催の「東本願寺 文化財特別鑑賞」で入ったことがあります。ただかなり前のことで記憶も定かじゃありませんね。桜下亭(おうかてい)は42年振りの公開というこで、私は桜下亭を見るのは初めてです。
西洞院の新花屋町通りを東に入った北側に「東本願寺駐車場」があります。結構広い駐車場でしたが、空きを探すのに時間がかかりました。
何度もグルグル回って端の端に1台だけ空いているのを見つけ止めることができました。まさかの出来事でしたが、止められて良かったです。新花屋町通りを東に進み、烏丸通りに出ます。そこから南に下がって、東本願寺の「御影堂門」に10時1分着きました。

昨日は雨降りでしたが、一転快晴の天気です。ただ、今日も夕方から雨降りとの予報が出てましたし、明日は寒気が強まり雪が降るかもです。
前途したとおり2022年(令和4年)1月18日(火)に「第56回 京の冬の旅」で、御影堂門に上がりました。
御影堂門を入って正面に雄大な「御影堂」があって、ここは後程堂内に入ります。
真言宗大谷派の本山である東本願寺の正式名称は、真宗本廟。1272年(文永9年)宗祖親鸞の末娘「覚信尼(かくしんに)」が、東山大谷の地に六角の廟堂を建て、親鸞の御影(ごえい)を安置した時にはじまる。門徒の大同団結による隆盛をはかったのは、室町時代第8代「蓮如(れんにょ)」で、教団は飛躍的に発展し、戦国時代には大きな勢力となって織田信長にも対抗した。第11代「顕如(けんにょ)」は、1580年(天正8年)に信長と和議を結び、紀伊鷺森に移る。信長の死後に権力を握った豊臣秀吉は、六条堀川の地に本願寺を再興し諸堂の整備を図った。1592年(文禄元年)顕如が死去、後を継いだのが長男の「教如(きょうにょ)」が継ぐが、顕如の三男准如宛ての譲状が見つかり、教如は隠退を余儀なくされる。「関ヶ原の戦い」後に政権を握った徳川家康は1602年(慶長7年)に、烏丸六条に寺地を寄進し、翌年に伽藍を建立し第12代教如(きょうにょ)の宗主を主張し、ここに本願寺は東西並立となった。堂舎が堀川通りを隔てて本願寺(西本願寺)の東に位置したことで東本願寺と呼ばれている。

拝観入口は、2023年(令和5年)1月20日(金)に「第57回 京の冬の旅」で来ているので、場所は知ってました。境内の北側にテントがあって、そこが受付です。
拝観料は800円。今日で「京の冬の旅」が終わるので、スタンプラリーの用紙は貰いません😊。靴袋を貰い靴を入れ上がりました。私が上がる前に団体さんが上がられてましたが、門徒の方のようでした。


まだ無料エリアですが、入ると「蓮如上人御影道中」の御輿が展示してました。

東本願寺から、蓮如上人の御影を御輿に乗せ、上人が歩いたとされる道のりを徒歩゛7日間かけて、湖西回りで吉崎別院まで旅し、法要後、今度は8日間かけで京都に帰ってきます。その輿が展示されました。
ここからチケットを見せ入ります。この先が有料エリアということです。
今回も、「大寝殿・白書院」に入れるものと思ってましたが、結界があって進めません。ここで初めて、今回の特別公開が「宮御殿・桜下亭」だけであることを知ったわけです。


ガイドさんの案内にしたがって、先に「宮御殿」の見学に向かいます。メインの桜下亭は次に。早く桜下亭に行きたいところですが。
「宮御殿」に入りました。「東本願寺 文化財特別鑑賞」で一度入ってますが、すっかり忘れてました。
宮御殿は、1901年(明治34年)に「御真影遷座三百年記念法会」に合わせて大宮御所から移築された御殿。内部には、「大鷹狩図」「子日遊図(ねのひあそびず)」「撰虫図(むしえらびず)」などの宮中の四季行事が描かれた美しい大和絵への襖絵が飾る。御殿の南側には、奥に御影堂を山に見立て、防火用の石垣に盛土をして傾斜をつけ、築山のように見せて風情ある池泉式の庭園が広がる。


最初の部屋は、冬の様子を描いた「大鷹狩図」で、作者は不明です。畳みの縁が赤いのは元離宮二条城「本丸御殿」でも見られます。
大型の鷹を使って雉や鶴などを狩る、冬の年中行事。雪待ち松や雪の積もる山肌の表現が巧みである。青金や赤金、それぞれの砂子を効果的に用いて、冬の空気感や陽射しを受けて眩しく光る雪が表現されている。





こちらも作者は不明で、春の「子日遊図(ねのひのあそびず)」です。後延しますが、夏が無いですね。
初子の日に野外へ行き、若松を引き抜くという、若菜摘みと並ぶ春の年中行事。金砂子(きんすなご)を装飾的に用い、登場人物である公家や稚児の衣装表現が巧みである。



こちらの部屋には入れませんが襖絵は「撰虫図(むしえらびず)」で、こちらも作者は不明です。秋の風景で、夏が見当たらないわけです😊。
秋の年中行事。京都嵯峨野の風景が描かれており、鳴き声の良い鈴虫や松虫などが籠に入っている。また、人々の後ろに生えている草木には、大小様々な虫が躍動的には描かれている。
ここの床の間にある掛け軸は、作者が分かっています。「千年草花」と題して、大和絵の望月玉渓(もちづきぎょっけい)の筆によるもの。



この掛け軸も作者が分かっています。1793年(寛政5年)の作。「暮春」と題して、月僊(げっせん)画僧の筆によるものです。


この築山のように見せた風情ある池泉式庭園は、防火用の石垣に盛土して傾斜をつけたものです。ラッキーなことにちょうど梅が満開で咲いててくれました。

向こうに見えている建物は「御影堂」で借景の役目もしています。この盛土のように築山にしているは理由があります。
東本願寺は、過去四度火災に見舞われています。1788年(天明8年)に「天明の大火」で焼失。1823年(文政6年)に火災により焼失。1858年(安政5年)に京都の大火のあおりを受け焼失。1864年(元治元年)の「禁門の変」の兵火により焼失。再建されたのは、1895年(明治28年)の「平安京1100年」の年で平安神宮が創建された時です。東本願寺の火災は北側が火元となっており、万が一の火災の際、御影堂などへの延焼を防ぐため、池と防火壁が設けられたということです。

次に、この特別公開の目玉(私が思っている)の桜下亭(おうかてい)に向かいます。桜下亭は撮影禁止で写真はありませんが看板の写真があります。
桜下亭は第22代現如(げんにょ)上人の17回忌法要にあわせ、東京霞ヶ丘にあった隠居所を、1939年(昭和14年)に移築された。襖絵30面は、1891年(明治24年)の濃尾地震で倒壊した岐阜別院「書院」から移されたもの。数奇屋風の洗練された意匠をもち、三室「稚松図」「壮竹図」「老梅図」それぞれ円山応挙59歳の1791年(寛政3年)の作品。
ここではガイドさんから丁寧に案内を受けました。写真が撮れないのは残念でしたが、見られて良かったです。
桜下亭から宮御殿に戻らず出ました。出る前に「菊門」(重文)を撮りました。この特別公開では、これ以上は行けません。
せっかく東本願寺まで来たので、参拝入口に戻らず「御影堂」と「阿弥陀堂」にお参りして行きます。
靴は袋に入れたまま「高廊下」沿いに「御影堂」に向かうことができます。


10時31分に「御影堂(ごえいどう)」(重文)に入りました。


内陣・外陣に敷かれた畳をあわせると927畳にも及ぶほど広さに驚きです。修学旅行生もお参りに来られてました。
御影堂の建築様式が和様の道場形式で、念仏の根本道場。東大寺大仏殿を面積で超える世界最大の木造建築といわれる。内陣内中央に親鸞聖人御真影、左右に歴代宗主御影や十字、九字の号名を掛ける。御真影厨子の背後に原在泉筆の「鳥獣画」、名号の壁面に幸野馬楳嶺の「蓮池図」など、明治の京都画壇で活躍した四条円山派の画家を結集した作品で荘厳されている。
次に「阿弥陀堂」(重文)に入ります。阿弥陀堂の内陣は、「仏説阿弥陀経」の世界が表現されています。


天井から柱にいたるまで金色に輝く堂内は荘厳です。ご本尊の阿弥陀如来の左右には、法然上人をはじめとする七高僧や聖徳太子の御影像が掛けられています。
ご本尊は阿弥陀如来。阿弥陀堂は禅宗様の仏堂形式で建てられている。御影堂と同様に1895年(明治28年)の落成。正面52㍍、側面47㍍、高さ29㍍で、内陣の余間と次の間の襖絵「花鳥図」は羽田月洲(はたげっしゅう)、飛檐の間の襖絵「桜孔雀図」は岸竹堂(きしちくどう)の画。明治期の京都画壇の中心をなす画家の筆による襖絵で彩られている。

雄大な「阿弥陀堂」を出て、「御影堂門」から境内を出ました。
東本願寺の前は、お東さん広場 (東本願寺前市民緑地)として整備されました。広く綺麗にされたものです。

さきほど堂内から見た「菊門」(重文)を外から見ています。
切妻造・檜皮葺・唐破風付の四脚門形式。1909年(明治42年)竣工、1911年(明治44年)落成。かつては「勅使門」と呼ばれていた時期もあったが、烏丸通りから見た門扉に大きな菊の紋章があるため、現在では「菊門」といわれている。また柱・門扉などを黒漆塗と組物には極彩色を施しており、花菱をモチーフとした繊細な幾何学模様をあしらうなど、設計した亀岡末吉の独創的な意匠が随所に散りばめられている。


次も重要文化財に指定されている「玄関門」です。こちらは内側からは見たことがありません。
切妻造・本瓦葺・三間一戸の薬医門形式。1910年(明治43年)に起工、1911年(明治44年)落成。薬医門としては非常に規模が大きく、使用される金物や部材の意匠にも見るべきものが多い。
いつもスルーしていた烏丸通り沿いにある「法語行灯」です。KBS京都のラジオで紹介されたので、今回は一つ一つ読んで行きました。
ここから東本願寺参拝者駐車場に戻り出て行きました。車は1台分だけ減ってました。私が出たので、2台分の空きが出来たということです。今日は、ここから帰りました。
東本願寺の特別公開は、2023年(令和5年)1月20日(金)に「第57回 京の冬の旅」で、大寝殿と白書院に入りました。私は宮御殿を大寝殿と勘違いしてて、気がついたときは会期末になっていた・・・ということです。後は、2022年(令和4年)1月18日(火)に「第56回 京の冬の旅」で、御影堂門に上がりました。昨年は、「第58回 京の冬の旅」で、東本願寺の飛び地にある渉成園(枳殻邸)の園林堂が特別公開されたので行ってます。
宮後殿には、2012年(平成24年)5月12日(土)に京都市文化観光資源保護財団主催の「東本願寺 文化財特別鑑賞」で入ったことがあります。ただかなり前のことで記憶も定かじゃありませんね。桜下亭(おうかてい)は42年振りの公開というこで、私は桜下亭を見るのは初めてです。

何度もグルグル回って端の端に1台だけ空いているのを見つけ止めることができました。まさかの出来事でしたが、止められて良かったです。新花屋町通りを東に進み、烏丸通りに出ます。そこから南に下がって、東本願寺の「御影堂門」に10時1分着きました。


前途したとおり2022年(令和4年)1月18日(火)に「第56回 京の冬の旅」で、御影堂門に上がりました。

真言宗大谷派の本山である東本願寺の正式名称は、真宗本廟。1272年(文永9年)宗祖親鸞の末娘「覚信尼(かくしんに)」が、東山大谷の地に六角の廟堂を建て、親鸞の御影(ごえい)を安置した時にはじまる。門徒の大同団結による隆盛をはかったのは、室町時代第8代「蓮如(れんにょ)」で、教団は飛躍的に発展し、戦国時代には大きな勢力となって織田信長にも対抗した。第11代「顕如(けんにょ)」は、1580年(天正8年)に信長と和議を結び、紀伊鷺森に移る。信長の死後に権力を握った豊臣秀吉は、六条堀川の地に本願寺を再興し諸堂の整備を図った。1592年(文禄元年)顕如が死去、後を継いだのが長男の「教如(きょうにょ)」が継ぐが、顕如の三男准如宛ての譲状が見つかり、教如は隠退を余儀なくされる。「関ヶ原の戦い」後に政権を握った徳川家康は1602年(慶長7年)に、烏丸六条に寺地を寄進し、翌年に伽藍を建立し第12代教如(きょうにょ)の宗主を主張し、ここに本願寺は東西並立となった。堂舎が堀川通りを隔てて本願寺(西本願寺)の東に位置したことで東本願寺と呼ばれている。


拝観料は800円。今日で「京の冬の旅」が終わるので、スタンプラリーの用紙は貰いません😊。靴袋を貰い靴を入れ上がりました。私が上がる前に団体さんが上がられてましたが、門徒の方のようでした。











宮御殿は、1901年(明治34年)に「御真影遷座三百年記念法会」に合わせて大宮御所から移築された御殿。内部には、「大鷹狩図」「子日遊図(ねのひあそびず)」「撰虫図(むしえらびず)」などの宮中の四季行事が描かれた美しい大和絵への襖絵が飾る。御殿の南側には、奥に御影堂を山に見立て、防火用の石垣に盛土をして傾斜をつけ、築山のように見せて風情ある池泉式の庭園が広がる。



大型の鷹を使って雉や鶴などを狩る、冬の年中行事。雪待ち松や雪の積もる山肌の表現が巧みである。青金や赤金、それぞれの砂子を効果的に用いて、冬の空気感や陽射しを受けて眩しく光る雪が表現されている。






初子の日に野外へ行き、若松を引き抜くという、若菜摘みと並ぶ春の年中行事。金砂子(きんすなご)を装飾的に用い、登場人物である公家や稚児の衣装表現が巧みである。




秋の年中行事。京都嵯峨野の風景が描かれており、鳴き声の良い鈴虫や松虫などが籠に入っている。また、人々の後ろに生えている草木には、大小様々な虫が躍動的には描かれている。










東本願寺は、過去四度火災に見舞われています。1788年(天明8年)に「天明の大火」で焼失。1823年(文政6年)に火災により焼失。1858年(安政5年)に京都の大火のあおりを受け焼失。1864年(元治元年)の「禁門の変」の兵火により焼失。再建されたのは、1895年(明治28年)の「平安京1100年」の年で平安神宮が創建された時です。東本願寺の火災は北側が火元となっており、万が一の火災の際、御影堂などへの延焼を防ぐため、池と防火壁が設けられたということです。


桜下亭は第22代現如(げんにょ)上人の17回忌法要にあわせ、東京霞ヶ丘にあった隠居所を、1939年(昭和14年)に移築された。襖絵30面は、1891年(明治24年)の濃尾地震で倒壊した岐阜別院「書院」から移されたもの。数奇屋風の洗練された意匠をもち、三室「稚松図」「壮竹図」「老梅図」それぞれ円山応挙59歳の1791年(寛政3年)の作品。










御影堂の建築様式が和様の道場形式で、念仏の根本道場。東大寺大仏殿を面積で超える世界最大の木造建築といわれる。内陣内中央に親鸞聖人御真影、左右に歴代宗主御影や十字、九字の号名を掛ける。御真影厨子の背後に原在泉筆の「鳥獣画」、名号の壁面に幸野馬楳嶺の「蓮池図」など、明治の京都画壇で活躍した四条円山派の画家を結集した作品で荘厳されている。




ご本尊は阿弥陀如来。阿弥陀堂は禅宗様の仏堂形式で建てられている。御影堂と同様に1895年(明治28年)の落成。正面52㍍、側面47㍍、高さ29㍍で、内陣の余間と次の間の襖絵「花鳥図」は羽田月洲(はたげっしゅう)、飛檐の間の襖絵「桜孔雀図」は岸竹堂(きしちくどう)の画。明治期の京都画壇の中心をなす画家の筆による襖絵で彩られている。





切妻造・檜皮葺・唐破風付の四脚門形式。1909年(明治42年)竣工、1911年(明治44年)落成。かつては「勅使門」と呼ばれていた時期もあったが、烏丸通りから見た門扉に大きな菊の紋章があるため、現在では「菊門」といわれている。また柱・門扉などを黒漆塗と組物には極彩色を施しており、花菱をモチーフとした繊細な幾何学模様をあしらうなど、設計した亀岡末吉の独創的な意匠が随所に散りばめられている。



切妻造・本瓦葺・三間一戸の薬医門形式。1910年(明治43年)に起工、1911年(明治44年)落成。薬医門としては非常に規模が大きく、使用される金物や部材の意匠にも見るべきものが多い。

ここから東本願寺参拝者駐車場に戻り出て行きました。車は1台分だけ減ってました。私が出たので、2台分の空きが出来たということです。今日は、ここから帰りました。
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