秦氏が聖徳太子のために建てた京都最古の古刹 広隆寺へ
4月24日(木)は、明け方の雨が上がり曇り空が広がる天気でした。ここ最近の高温傾向から解放され、比較的涼しい朝でした。今日は所用があるので、その前に2019年(令和元年)11月27日(水)以来、来て無かった太秦 広隆寺に行くことにしました。
三条通りに面した建つ「南大門(仁王門)」です。交通量の多い三条通りに、ここは嵐電が横切ります。市バスから降りて真っ直ぐ南大門に向かい境内に入りました。
1702年(元禄15年)建立の3間1戸の楼門。当初は杮葺か檜皮葺であったと言われる。正面両脇に室町時代の建立という仁王像を安置。門前の標石の台は、西隣の敷地から出土した、飛鳥時代の蜂岡寺(広隆寺の前身)の塔心礎。
石段を上がり南大門から境内に入りました。ここ広隆寺は国宝8件、重要文化財33件の寺宝を有している嵯峨野屈指の名刹です。
広隆寺は太秦にあり、蜂岡山と号する真言宗の単立寺院。聖徳太子建立七大寺(法隆寺、四天王寺、中宮尼寺、橘尼寺、蜂丘寺、池尻尼寺、葛城 尼寺)の一つとされ、京都で最古の寺とされる。「日本書記」によると603年(推古天皇11年)に渡来系氏族の長である秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜り創建したとされる。また、聖徳太子が、622年(推古天皇30年)に没したとき、その供養のため建立。翌年に新羅より献じた仏像を納めたともされている。現在、寺に伝わる弥勒菩薩半跏(みろくぼさつはんか)像(宝冠弥勒)が当初の本尊と推定される。広隆寺は当初、現在地の東北(平野神社付近)にあっとされているが、平安遷都の際に現在地に移転したとも考えられる。山城国葛野郡(現在の京都市西北)を本拠とし、土木などの先端技術を有した秦氏は、平安京建設に協力し皇室との結び付けを深め、平安前期に大きく発展した。広隆寺は797年(延暦16年)、弥勒菩薩半跏像に代えて、霊験薬師仏を本尊とするが、秦氏の氏寺であった広隆寺が、官寺に準ずる定額寺(じょうがくじ)に列せられたことに伴い、本尊交替があったとされる。818年(弘仁9年)に火災により伽藍は焼失するも、秦氏出身で空海の弟子であった道昌(どうしょう)が別当になり復興。この時期、阿弥陀三尊像が造立された。さらに1150年(久安6年)にも火災に見舞われ見舞われるも復興する。1165年(永万元年)講堂が再建されとき、阿弥陀三尊像は講堂に安置された。度重なる火災でも奇跡的に仏像は難を免れた。1120年(元永3年)に現在の本尊である聖徳太子像が造立され、広隆寺は太子信仰の寺として再出発し、鎌倉時代には太子を祀る桂宮院(国宝)も再興された。
三条通りは、月に何度か通るので、境内に咲いていた桜も知ってました。今はすっかり葉桜になり、新緑が綺麗です。

余談ですが、最近ようやくマスク無しで外出できるようになりました。花粉情報は少ないと今日は出てましたが。境内を入って左手にあった「薬師堂」です。
平安時代の神仏習合が偲ばれる天部形の薬師如来立像や、阿弥陀三尊立像、不動明王、弘法大師像、理源太子像、道昌像都が祀られています。靴を脱いでお参りしました。堂内は暗くてほぼ見えません。何かがあるのは分かりましたが。

桜が終わったら境内には「躑躅(ツツジ)」が咲き始めていました。下の写真は振り返って「南大門(仁王門)」を撮りました。

次に境内の右手(東側に行き、)が重要文化財に指定されてる「講堂」(赤堂)に行きました。今も柱に丹(に)の色が残り赤堂と呼ばれている。
1165年(永万元年)に再建された京洛最古の建築。正面5間、側面4間の建物。堂内には、国宝の阿弥陀如来坐像(平安時代作)、重要文化財の地蔵菩薩坐像、同じく重要文化財の虚空蔵菩薩坐像が祀られています。
参道に戻って西側にある「能楽堂」を撮りました。建築年代は不詳で、大正年間に移築されたそうです。
能楽堂の北側にあるのが「地蔵堂」です。「腹帯地蔵」と呼ばれる安産祈願の木造地蔵菩薩坐像が安置されています。

参道に戻ると綺麗な「花水木(ハナミズキ)」が咲いてました。ハナミズキは今が見頃ですね。

次に広隆寺の本堂にあたる「上宮王院太子殿」行くつもりが、先にお参りさせている方が居たので、帰りに寄ることにします。
この先に拝観受付所があるので拝観料1000円を納めました。2019年(令和元年)11月27日(水)に来た時は、800円でした。そして御朱印も久しぶりに来たのでお願いしました。こちらは500円でしたね。最近は何処も300円から500円に値上げされてます。
ここでは御朱印は待っていただきます。帰りに受け取る方式じゃありません。



受付を済ませて前方に歩いて行くと、左手に「桂宮院本堂」に行ける通路があります。通常は非公開で行けません。
国宝に指定されている桂宮院本堂は1251年(建長3年)ごろ、中観上人により聖徳太子を祀るお堂として再興された。中央伽藍から離れた、築地塀と竹林に囲まれた西北の一郭にあり、広隆寺の奥之院と言われる、八角円堂の建物。



霊宝殿に入る手前に「十善戒」が書いてありました。十の善(よ)き戒めです。
「不殺生(ふせっしょう)」生き物を殺さない。「不偸盗(ふちゅうとう)」ものを盗みません。「不邪淫(ふじゃいん)」みだらな男女の関係をしません。「不妄語(ふもうご)」嘘いつわりを言いません。「不綺語(ふきご)」たわごとを言いません。「不悪口(ふあっく)」人の悪口を言いません。「不両舌(ふりょうぜつ)」二枚舌を使いません。「不慳貪(ふけんどん)」ものを慳(おし)み貪(むさぼ)りません。「不瞋恚(ふしんに)」怒り憎むことをしません。「不邪見(ふじゃけん)」間違った考え方をいたしません。




「新霊宝殿」に入るまでに綺麗な椿の花を見ました。ここに入るのに由緒書に押されたスタンプを見せ館内に入りました。もちろん撮影禁止です。
新霊宝殿を入って左手から見て行きます。毎年11月22日に御開帳される秘仏「薬師如来像」ですが厨子は閉まったままです。この薬師如来の脇侍と眷属として造立された「日光菩薩立像」(重文)と「月光菩薩立像」(重文)は1064年(康平7年)に中流貴族の藤原資良(すけよし)が定朝(じょうちょう)の弟子長勢(ちょうせい)命じて造られたもの。その回りには国宝指定の「十二神将立像」が並んでいる。十二神将立像も長勢工房で造られた。「宮毘羅(くびら)大将像」「宮底羅(あんてら)大将像」など12体の国宝がづらり圧巻です。新霊宝殿の南西に「広目天立像」、西北に「多聞天立像」を安置してありました。
そして正面に移動します。こちらに国宝第一号の「弥勒菩薩半跏(みろくぼさつはんか)像(宝冠弥勒)」(飛鳥時代)を安置。この写真を何処で見つけたのか、今となって分かりませんが。
弥勒菩薩は、56億7000万年後にこの世にあらわれ、人々を救うという未来仏。この像は創建当時の本尊と考えられる。日本の彫刻材料としては異例のアカマツを用いており、朝鮮半島からの渡来物との説もあり。
その隣には、もう1躰の国宝の「弥勒菩薩半跏像」(飛鳥~白鳳時代)があって、憂いをふくんだ表情から通称「泣き弥勒」とも、また高く結った髪型から「宝髻(ほうけい)弥勒」とも呼ばれている。こちらが正面で、振り返ると講堂に安置してあった巨漢の「不空羂索観音立像」(国宝)(平安時代)が左に、正面に「木造千手観音坐像」(重文)(平安時代)、右に「木造千手観音立像」(国宝)(平安時代)を安置。ここには床几があるので、座ってしばらくの間眺めてました。
向かって右手に移動します。北東に「持国天立像」が南東に「増長天立像安置」を安置。他に「聖観音立像」、「地蔵菩薩立像」(埋木地蔵菩薩)、「不動明王坐像」、「毘沙門天立像」、「蔵王権現像」、「大日如来坐像」、「吉祥天立像」など安置されてました。
9時10分に入って、出てきたのが9時25分でした。ここは仏像好きにたまらないですね。



トイレは新霊宝館の向かって右手にあります。トイレを済ませてから有料エリアを出て行きました。


次に向かったのが「上宮王院太子殿」で、広隆寺の本堂にあたります。正面に向拝がつき、貴族風の建物。1730年(享保15年)建立。
堂内には入れませんが、靴を脱いで上がります。内部は暗くてほぼ見えません。本尊は「聖徳太子立像」です。
聖徳太子が秦河勝に広隆寺を建立させたころ、33歳の太子の姿を写すという。古来、歴代天皇の即位式に用いられたものと同じ「黄櫨染(こうろぜん)」の「御袍(ごほう)」が下賜され、その一代を通じて着用する珍しい像。毎年11月22日に開扉される。お堂は内部前方が「外陣」、背後にある小さな建物が「内陣(祠堂)」と二つの建物が一体化し、天井には草花・花木・楽器などが極彩色で描かれている。
ご本尊は、毎年11月22日の御火焚祭(おひたきさい)の時に御開扉されるので、私は2014年(平成26年)11月22日(土)に行きました。

「上宮王院太子殿」の向かって右手(東側)にあるのが「太秦殿」で、往古より秦氏を祀る神社のようです。本尊は「太秦明神(秦河勝)」、「漢織女(あやはとりめ)」、「呉秦女(くれはとりめ)」が祀られています。内部は見えません。

「上宮王院太子殿」の前には「井戸舎(水屋)」もありました。

ここは桜も楽しめますが、すっかり葉桜になってました。ただ、少しだけ咲いている桜を見つけた次第です。



9時36分に「南大門(仁王門)」から出て行きました。帰りは訳あって大映通りを通ります。

戦後の夜店通りから始まり、大映撮影所とともに発展したのが「大映通り商店街」です。太秦広隆寺の南から帷子ヶ辻駅まで続きます。
大映通りを西に向かって歩いて行くと、左手に三吉稲荷神社こと映画神社があったので寄って行きます。
ここが目的ではありませんが、2019年(令和元年)10月25日(金)以来です。
鳥居を入って目につくのは「牧野省三生成顕著之碑」が左手にあります。

由緒書が無いので、詳細はわかりませんが、扁額から御祭神は、「三吉稲荷大名神」と「中里八幡大菩薩」が祀られてるようです。
前途した「牧野省三生成顕著之碑」には、大河内傳次郎の名も読み取れます。
ここに祀られている社は、古くは、この付近の竹藪に別々の場所にあったもので、人々に忘れされてて朽ち果てていた。一つを中里八幡、もう一つを三吉稲荷と言う。この地が大きく変わって行ったのは、1928年(昭和3年)に太秦日活撮影所が建てられてから。周囲を覆っていた竹藪は切り開かれ、宅地化の波が自然を壊していった。行き場を失った狐、狸、鼬(イタチ)などの小動物の姿が頻繁に見られるようになったのは、この頃からである。それを哀れんだ日活の関係者等が中心になって1930年(昭和5年)、この場所を選んで二つの社を新築した。その後、太秦には大永、松竹、東映と次々に撮影所が建てられたことになる。その縁に因んで、「中里八幡」、「三吉稲荷」を通称「映画神社」と呼ぶことにする。

こちらは「キネマ・キッチン」で、撮影所から多くの俳優さんたちが訪れるので有名です。今日は素通りしましたが、今度入ってみます。

この先に、今日の目的があります。ただ、この日は車が止まってて、以前の写真を使用しました。
子供の頃に見た映画で、怖かった思い出があります。若い人は知らないでしょうけど「大魔神」です。
京都太秦にあった大映撮影所で、1966年(昭和41年)に生まれたのが、映画「大魔神」です。同年に「大魔神怒る」。同年にシリーズ最終の「大魔神逆襲」が制作上映されました。この像は多くの皆様の支援により復活。映画の中で悪者を退治するときは、このように怖い顔になります。この地域を始め京都の住民とくに子供たちの守護神として、商店街のシンボルとして、近いの活性化を願い設置されました。
親に連れて行ってもらい見た記憶があります。何より怖かったですね😊。この大映通りには、もう一つ思い出があって、高校生のとき先生に連れられて、この大映通りを帷子ヶ辻駅から太秦駅まで歩きました。クラスで決めた遠足だったように記憶しています。団体割引が使える帷子ヶ辻駅で下車したでしょう、目的は映画村だったと。後のことはまったく記憶に無いので帰りは、多分太秦駅から帰ったのでしょう。多分ですが😊。

1702年(元禄15年)建立の3間1戸の楼門。当初は杮葺か檜皮葺であったと言われる。正面両脇に室町時代の建立という仁王像を安置。門前の標石の台は、西隣の敷地から出土した、飛鳥時代の蜂岡寺(広隆寺の前身)の塔心礎。

広隆寺は太秦にあり、蜂岡山と号する真言宗の単立寺院。聖徳太子建立七大寺(法隆寺、四天王寺、中宮尼寺、橘尼寺、蜂丘寺、池尻尼寺、葛城 尼寺)の一つとされ、京都で最古の寺とされる。「日本書記」によると603年(推古天皇11年)に渡来系氏族の長である秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子から仏像を賜り創建したとされる。また、聖徳太子が、622年(推古天皇30年)に没したとき、その供養のため建立。翌年に新羅より献じた仏像を納めたともされている。現在、寺に伝わる弥勒菩薩半跏(みろくぼさつはんか)像(宝冠弥勒)が当初の本尊と推定される。広隆寺は当初、現在地の東北(平野神社付近)にあっとされているが、平安遷都の際に現在地に移転したとも考えられる。山城国葛野郡(現在の京都市西北)を本拠とし、土木などの先端技術を有した秦氏は、平安京建設に協力し皇室との結び付けを深め、平安前期に大きく発展した。広隆寺は797年(延暦16年)、弥勒菩薩半跏像に代えて、霊験薬師仏を本尊とするが、秦氏の氏寺であった広隆寺が、官寺に準ずる定額寺(じょうがくじ)に列せられたことに伴い、本尊交替があったとされる。818年(弘仁9年)に火災により伽藍は焼失するも、秦氏出身で空海の弟子であった道昌(どうしょう)が別当になり復興。この時期、阿弥陀三尊像が造立された。さらに1150年(久安6年)にも火災に見舞われ見舞われるも復興する。1165年(永万元年)講堂が再建されとき、阿弥陀三尊像は講堂に安置された。度重なる火災でも奇跡的に仏像は難を免れた。1120年(元永3年)に現在の本尊である聖徳太子像が造立され、広隆寺は太子信仰の寺として再出発し、鎌倉時代には太子を祀る桂宮院(国宝)も再興された。



平安時代の神仏習合が偲ばれる天部形の薬師如来立像や、阿弥陀三尊立像、不動明王、弘法大師像、理源太子像、道昌像都が祀られています。靴を脱いでお参りしました。堂内は暗くてほぼ見えません。何かがあるのは分かりましたが。




1165年(永万元年)に再建された京洛最古の建築。正面5間、側面4間の建物。堂内には、国宝の阿弥陀如来坐像(平安時代作)、重要文化財の地蔵菩薩坐像、同じく重要文化財の虚空蔵菩薩坐像が祀られています。






この先に拝観受付所があるので拝観料1000円を納めました。2019年(令和元年)11月27日(水)に来た時は、800円でした。そして御朱印も久しぶりに来たのでお願いしました。こちらは500円でしたね。最近は何処も300円から500円に値上げされてます。
ここでは御朱印は待っていただきます。帰りに受け取る方式じゃありません。




国宝に指定されている桂宮院本堂は1251年(建長3年)ごろ、中観上人により聖徳太子を祀るお堂として再興された。中央伽藍から離れた、築地塀と竹林に囲まれた西北の一郭にあり、広隆寺の奥之院と言われる、八角円堂の建物。




「不殺生(ふせっしょう)」生き物を殺さない。「不偸盗(ふちゅうとう)」ものを盗みません。「不邪淫(ふじゃいん)」みだらな男女の関係をしません。「不妄語(ふもうご)」嘘いつわりを言いません。「不綺語(ふきご)」たわごとを言いません。「不悪口(ふあっく)」人の悪口を言いません。「不両舌(ふりょうぜつ)」二枚舌を使いません。「不慳貪(ふけんどん)」ものを慳(おし)み貪(むさぼ)りません。「不瞋恚(ふしんに)」怒り憎むことをしません。「不邪見(ふじゃけん)」間違った考え方をいたしません。





新霊宝殿を入って左手から見て行きます。毎年11月22日に御開帳される秘仏「薬師如来像」ですが厨子は閉まったままです。この薬師如来の脇侍と眷属として造立された「日光菩薩立像」(重文)と「月光菩薩立像」(重文)は1064年(康平7年)に中流貴族の藤原資良(すけよし)が定朝(じょうちょう)の弟子長勢(ちょうせい)命じて造られたもの。その回りには国宝指定の「十二神将立像」が並んでいる。十二神将立像も長勢工房で造られた。「宮毘羅(くびら)大将像」「宮底羅(あんてら)大将像」など12体の国宝がづらり圧巻です。新霊宝殿の南西に「広目天立像」、西北に「多聞天立像」を安置してありました。
そして正面に移動します。こちらに国宝第一号の「弥勒菩薩半跏(みろくぼさつはんか)像(宝冠弥勒)」(飛鳥時代)を安置。この写真を何処で見つけたのか、今となって分かりませんが。
弥勒菩薩は、56億7000万年後にこの世にあらわれ、人々を救うという未来仏。この像は創建当時の本尊と考えられる。日本の彫刻材料としては異例のアカマツを用いており、朝鮮半島からの渡来物との説もあり。
その隣には、もう1躰の国宝の「弥勒菩薩半跏像」(飛鳥~白鳳時代)があって、憂いをふくんだ表情から通称「泣き弥勒」とも、また高く結った髪型から「宝髻(ほうけい)弥勒」とも呼ばれている。こちらが正面で、振り返ると講堂に安置してあった巨漢の「不空羂索観音立像」(国宝)(平安時代)が左に、正面に「木造千手観音坐像」(重文)(平安時代)、右に「木造千手観音立像」(国宝)(平安時代)を安置。ここには床几があるので、座ってしばらくの間眺めてました。
向かって右手に移動します。北東に「持国天立像」が南東に「増長天立像安置」を安置。他に「聖観音立像」、「地蔵菩薩立像」(埋木地蔵菩薩)、「不動明王坐像」、「毘沙門天立像」、「蔵王権現像」、「大日如来坐像」、「吉祥天立像」など安置されてました。









聖徳太子が秦河勝に広隆寺を建立させたころ、33歳の太子の姿を写すという。古来、歴代天皇の即位式に用いられたものと同じ「黄櫨染(こうろぜん)」の「御袍(ごほう)」が下賜され、その一代を通じて着用する珍しい像。毎年11月22日に開扉される。お堂は内部前方が「外陣」、背後にある小さな建物が「内陣(祠堂)」と二つの建物が一体化し、天井には草花・花木・楽器などが極彩色で描かれている。













大映通りを西に向かって歩いて行くと、左手に三吉稲荷神社こと映画神社があったので寄って行きます。





ここに祀られている社は、古くは、この付近の竹藪に別々の場所にあったもので、人々に忘れされてて朽ち果てていた。一つを中里八幡、もう一つを三吉稲荷と言う。この地が大きく変わって行ったのは、1928年(昭和3年)に太秦日活撮影所が建てられてから。周囲を覆っていた竹藪は切り開かれ、宅地化の波が自然を壊していった。行き場を失った狐、狸、鼬(イタチ)などの小動物の姿が頻繁に見られるようになったのは、この頃からである。それを哀れんだ日活の関係者等が中心になって1930年(昭和5年)、この場所を選んで二つの社を新築した。その後、太秦には大永、松竹、東映と次々に撮影所が建てられたことになる。その縁に因んで、「中里八幡」、「三吉稲荷」を通称「映画神社」と呼ぶことにする。




子供の頃に見た映画で、怖かった思い出があります。若い人は知らないでしょうけど「大魔神」です。
京都太秦にあった大映撮影所で、1966年(昭和41年)に生まれたのが、映画「大魔神」です。同年に「大魔神怒る」。同年にシリーズ最終の「大魔神逆襲」が制作上映されました。この像は多くの皆様の支援により復活。映画の中で悪者を退治するときは、このように怖い顔になります。この地域を始め京都の住民とくに子供たちの守護神として、商店街のシンボルとして、近いの活性化を願い設置されました。
親に連れて行ってもらい見た記憶があります。何より怖かったですね😊。この大映通りには、もう一つ思い出があって、高校生のとき先生に連れられて、この大映通りを帷子ヶ辻駅から太秦駅まで歩きました。クラスで決めた遠足だったように記憶しています。団体割引が使える帷子ヶ辻駅で下車したでしょう、目的は映画村だったと。後のことはまったく記憶に無いので帰りは、多分太秦駅から帰ったのでしょう。多分ですが😊。
この記事へのコメント
古代からの歴史ある古刹には、もちろん寺宝も豊富。
歴史ロマンを感じられるお寺ですね。あらためて行ってみたくなりました。
太秦広隆寺は、圧倒的に仏像です。国宝第一号の「弥勒菩薩半跏(みろくぼさつはんか)像(宝冠弥勒)」は何度来ても、この前に座り、ゆっくり見てしまいます。
国宝や重要文化財に指定されている仏像が並んでいる姿は圧巻です。
特に、庭園があるわけでも無いので、行かれるなら、毎年11月22日の御火焚祭(おひたきさい)の時がお勧めです。