小堀遠州作庭と伝わる「獅子の児渡し庭園」のある正伝寺へ
上賀茂神社の駐車場を出て御薗橋を渡り、御薗橋通りを西に進みます。そして突き当たりの紫竹西通りを右折し、北に向かって走ります。あとは前日に地図を見て覚えた道を予定通りに走り、8時48分に目的の駐車場に車を入れました。
この日、2021年(令和3年)5月25日(火)以来の訪問したのは、獅子の児渡し庭園で知られる正伝寺です。
私の記憶では3回目の訪問です。この「山門」から階段を上がって行くことにしました。
五山の送り火の一つ「舟形」の火を灯す「舟山」の南麓にある。正式には臨済宗南禅寺派 吉祥山正伝護国寺といい、創建は鎌倉時代に遡る。1273年(文永10年)に東巌慧安(とうがんえあん)を開山として、初めは一条今出川に創建。1282年(弘安5年)に現在地に移転。国の重要文化財に指定されている本堂(方丈)は、入母屋造り杮葺、寛永年間(1624~44)に伏見城の遺構を移築したものと伝わる。また、本堂の襖絵は、桃山時代の絵師・狩野山楽の筆による逸品である。さらに本堂前庭は、白砂敷にサツキを中心とした三群の刈り込みを配した枯山水で、土塀越しに比叡山が美しい姿を見せる。この京都における代表的な借景庭園の作庭は小堀遠州と伝わり、世界的なロック・ミュージシャンのデヴィッド・ボウイや谷村新司さんが愛した庭としても知られます。京都を代表する借景庭園の一つ。

車では、拝観入口の近くまで上がって行くことができますが、着いたので早かったので、歩いて行きます。




静かな住宅街を車で来ましたが、山門を入ると風景が一変し、木立のなかを歩いて行くことになります。




緩やかな坂を上がって行くと、その先に車が止まってます。後で分かったですが、木々の伐採をされてました。ちなみに帰りは通行止めにされてましたね。
8時55分に「庫裏」の前まで上がって来ました。この庫裏の向かって左に拝観受付所があります。



拝観受付所には誰も居ないので、5分待つことに。この回りを散策していると、ご住職でしょうか、上がって来られたので受付をしていただきました。
拝観料は500円でした。靴を下駄箱に入れ「本堂」に入ると、まだ襖は閉まったまま。このあとご住職に開けて貰いました。
後で、詳細に見て行きますが、ここの天井には伏見城の遺構である「血天井」となっています。
正伝寺の伽藍は、応仁の乱の兵火で焼失してましたが、後に再建されました。それは・・・?。
重要文化財に指定されている「方丈(本堂)」は、1653年(承応2年)に南禅寺の最岳元良(さいがくげんりょう)が、伏見桃山城にあった御成御殿(おなりごでん)の遺構だった南禅寺金地院の建物を「方丈(本堂)」としたものです。
2021年(令和3年)5月25日(火)に来た時は、堂内の襖絵を撮影できましたが、この張り紙が貼ってあるので、今日は撮ってません。
方丈の各室の襖絵は、1605年(慶長10年)頃、伏見城本丸御殿を修理した際、徳川家康の依頼により、狩野山楽によって「淡彩山水図」が描かれたものです。ここに描かれているのは、中国杭州西湖(現在の浙江省杭州市)の真景だそうです。
小高い位置に建つ「方丈(本堂)」から「方丈前庭」を見ると、築地塀、木立によって麓の民家が見えません。遠くに借景の比叡山が望めます。



この「方丈前庭」にサツキが咲く頃には、そこそこ来られるでしょう、今日は私以外は誰も来られませんでした。
この前庭は「獅子の児渡し庭園」と呼ばれる枯山水庭園。比叡山を借景にし、築地塀で囲われた白砂のなかにサツキ、ナンテンの刈り込みが、右を高くして順に低く7・5・3に並ぶ。
こちらの天井には伏見桃山城の遺構である「血天井」となっています。リアルに手形や足形が残っているので少々ゾッとします。
「関ヶ原の戦い」の直前、伏見城に立て籠もった鳥居彦右衛門元忠以下1800人の兵力で立て籠もるも落城。380名が自刃して果てた際のおびただしい血痕は当時の悲惨な状況がわかります。その際の廊下を方丈の天井としたもので、追善供養としたものです。
今日は堂内の写真を撮れないので、2021年(令和3年)5月25日(火)のをご覧下さい。ご本尊は釈迦如来だそうです。
正伝寺の襖絵は、重要文化財に指定されている「淡彩山水図」で、狩野山楽筆によるもの。1605年(慶長10年)頃、伏見城本丸御殿を修理した際、徳川家康の発注により画かれたものです。ここに描かれているのは、中国杭州西湖(現在の浙江省杭州市)の真景です。



9時17分に「本堂」を出ました。次は桜が咲く頃に来ようかなぁ😊。

先程、お堂から見ていた築地塀を外から見ています。帰りは違う道から降りて行きます。



帰りに「鐘楼」を見ました。撞くことは禁止と書いてありましたね。



「カラー」の花や「躑躅(ツツジ)」の花を見ながら、降りて行くと、ご住職より「伐採しているので、こちらの道から降り下さい」と案内されました。要するに車道に出たわけです。
ご覧のように、車はここまで来られます。登らなくて良いんですが、私は前途したとおり歩いて登るのを選択しました。

ここにも車を止めることができます。歩いて登らなくても、車を止める所は、たくさん用意されています。それより、ここはゴルフ場に隣接していて・・・?。

「京都ゴルフ倶楽部舟山コース」に囲まれている正伝寺には、このようにゴルフカート専用の道が用意されています。今日はカートには出会いませんでした。



9時26分に「山門」前まで降りて来ました。結局、誰も来られませんでしたね。
ここは桜やサツキが枯山水庭園に映えます。サツキは来たことがあるので、次は桜の時期に来てみたいです。このあと所用を済ませたあと帰りました。
この日、2021年(令和3年)5月25日(火)以来の訪問したのは、獅子の児渡し庭園で知られる正伝寺です。

五山の送り火の一つ「舟形」の火を灯す「舟山」の南麓にある。正式には臨済宗南禅寺派 吉祥山正伝護国寺といい、創建は鎌倉時代に遡る。1273年(文永10年)に東巌慧安(とうがんえあん)を開山として、初めは一条今出川に創建。1282年(弘安5年)に現在地に移転。国の重要文化財に指定されている本堂(方丈)は、入母屋造り杮葺、寛永年間(1624~44)に伏見城の遺構を移築したものと伝わる。また、本堂の襖絵は、桃山時代の絵師・狩野山楽の筆による逸品である。さらに本堂前庭は、白砂敷にサツキを中心とした三群の刈り込みを配した枯山水で、土塀越しに比叡山が美しい姿を見せる。この京都における代表的な借景庭園の作庭は小堀遠州と伝わり、世界的なロック・ミュージシャンのデヴィッド・ボウイや谷村新司さんが愛した庭としても知られます。京都を代表する借景庭園の一つ。


















後で、詳細に見て行きますが、ここの天井には伏見城の遺構である「血天井」となっています。

重要文化財に指定されている「方丈(本堂)」は、1653年(承応2年)に南禅寺の最岳元良(さいがくげんりょう)が、伏見桃山城にあった御成御殿(おなりごでん)の遺構だった南禅寺金地院の建物を「方丈(本堂)」としたものです。
2021年(令和3年)5月25日(火)に来た時は、堂内の襖絵を撮影できましたが、この張り紙が貼ってあるので、今日は撮ってません。
方丈の各室の襖絵は、1605年(慶長10年)頃、伏見城本丸御殿を修理した際、徳川家康の依頼により、狩野山楽によって「淡彩山水図」が描かれたものです。ここに描かれているのは、中国杭州西湖(現在の浙江省杭州市)の真景だそうです。





この前庭は「獅子の児渡し庭園」と呼ばれる枯山水庭園。比叡山を借景にし、築地塀で囲われた白砂のなかにサツキ、ナンテンの刈り込みが、右を高くして順に低く7・5・3に並ぶ。
こちらの天井には伏見桃山城の遺構である「血天井」となっています。リアルに手形や足形が残っているので少々ゾッとします。
「関ヶ原の戦い」の直前、伏見城に立て籠もった鳥居彦右衛門元忠以下1800人の兵力で立て籠もるも落城。380名が自刃して果てた際のおびただしい血痕は当時の悲惨な状況がわかります。その際の廊下を方丈の天井としたもので、追善供養としたものです。

正伝寺の襖絵は、重要文化財に指定されている「淡彩山水図」で、狩野山楽筆によるもの。1605年(慶長10年)頃、伏見城本丸御殿を修理した際、徳川家康の発注により画かれたものです。ここに描かれているのは、中国杭州西湖(現在の浙江省杭州市)の真景です。























ここは桜やサツキが枯山水庭園に映えます。サツキは来たことがあるので、次は桜の時期に来てみたいです。このあと所用を済ませたあと帰りました。
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