紅葉の名所も今は新緑 鷹峯 源光庵へ
5月12日(月)は、久しぶりに鷹峯に行ってみようと思い車で出掛けることにしました。5月9日(金)から天気が悪くて曇りか雨降りで、前日も夕方から雨が降り、明け方に止みました。予報では昼から晴れて来そうと出てましたが、出掛けるときは曇ってました。湿気は少なくて、涼しい気候で半袖では寒かったので、ジャケットは着てました。
この日、鷹峯に向かったのが、2017年(平成29年)4月14日(金)から来て無かった源光庵です。こちらは紅葉の名所として知られており、2014年(平成26年)11月23日(日)にはも見事な紅葉も見てました。

8時49分に着いて、源光庵の駐車場に車を入れました。ここは無料で止められます。

駐車場から「山門」に向かいました。まだ拝観時間前だったので、総門に戻ったら良かったですが、帰りに寄る選択をしました・・・が?。
車で来たので、総門の前を通って駐車場に入ったわけです。ただ、ここは人気の寺院でしたね、帰る頃には結構な人が来られたわけです😢。

山門の向かって右手(東側)には、「鐘楼」があって寄りました。ただ撞くことは禁止とありました。
丸窓様が特徴的な「山門」。扁額には「復古禅林」と揮毫され、宗風の乱れを正した卍山(まんざん)禅師の功績を讃えたものだそうです。
源光庵は、源光庵は正式な名を鷹峰山(ようほうざん)寶樹林源光庵という曹洞宗の寺院である。1346年(貞和2年)に大徳寺の第2世「徹翁義享(てつとうぎこう)国師」によって創建され、当初臨済宗に属していたが、1694年(元禄7年)加賀国(現在の石川県)大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)が再興し、曹洞宗に改められた。道白は、当時の曹洞宗の改革に努め、自ら復古道人と称した。本堂には、本尊釈迦牟尼仏及び霊芝観世音像を祀る。廊下の天井は、鳥居元忠が自刃した時の伏見城の遺構と伝え、俗に「血天井」と呼ばれ、落城の悲劇を伝えている。また、内部の丸窓は「悟りの窓」、角窓は「迷いの窓」と呼ばれ、いずれも仏教の真理を表わしている。境内の「稚児井戸」は、創建の頃、水に窮した徹翁が、童子に教えられて得たもので、いかなる旱(かん)ばつでも涸れたことがないといわれている。


「山門」を入って、正面に「本堂」が、左手に「客殿」があります。このとき、8時51分で、まだまだ時間があるので、ここで散策します。

「客殿」も開いているので、あとから入ってみます。この石碑、文字が掠れて読めません。
「(躑躅)ツツジ」は咲き始めてです。京都市内よりは遅れてます。天龍寺ではGWは期間中が見頃だったと思います。


こちせは終わりかけの「アヤメ」でしょう、「一初(イチハツ)」かなぁ・・・?。カキツバタとの違いは覚えたけど。


開門を待つ間に、「苔の花」を見つけました。先般、大徳寺 興臨院で教えて貰ったので、覚えてました。



この源光庵は、臨済宗から曹洞宗に変わったと由緒に書いてありました。ただ、ここに「銅鑼」と「開梆(かいぱん)」があって、宇治の「萬福寺 」が有名です。参考までに萬福寺は黄檗宗です。
巨大な魚の形をした法具は「開梆(かいぱん)」と呼ばれています。人の身長ほどもある大きな魚の鳴り物は時を報せる法具として使われています。
靴を袋に入れ、待って居ると奥から「どうぞ」と案内されました。8時56分でしたね。靴は袋に入れます。袋の持参をと書いてありましたが、知っていたら持って来ました。家にレジ袋山ほどあるので。拝観料は500円と御朱印をお願いしました。御朱印は帰りに受取ます。
8時57分に入りました。まだ誰も来られてません。静かにゆっくり散策させて貰います。

拝観受付所で「本堂」を案内されたので、そちらから見て行きます。「血天井」のことも案内がありました。
「本堂」に入ると、先に「血天井」を見ました。先の正伝寺にもありました、「血天井」が。
こちらの「血天井」には、リアルに手形、足形が分かります。正伝寺の他に宝泉院にも血天井があります。
伏見桃山城の遺構である「血天井」は、1600年(慶長5年)7月に徳川家康の中心鳥井彦右衛門元忠率いる1800余人が、石田三成の軍勢と交戦したが、虚しく討ち死し、残る380余人が自刀して果てたときの恨跡です。
2017年(平成29年)4月14日(金)から忘れてまたしたが、「鳥居元忠一党之霊位」が安置されてました。こちらも忘れてましたが、NHK大河ドラマ「どうする家康」で、鳥居元忠を音尾琢真さんが、千代を古川琴音さんが演じられてました。
天井を見上げていると「輿」が吊されてました。
後で見ますが、こには有名な「悟りの窓」と「迷いの窓」があって、そちらに向かいます。


「本堂」の西に安置されているは、「霊芝観世⾳菩薩像」が祀られています。卍山道白(まんざんどうはく)が、1681年(天和元年)の春に、京都洛南宇治田原の山中で見つけられたもの。
後西(ごさい)天皇(第111代天皇)は、殊の外、崇敬が厚く、宮中にて供養されたもので、世に広く信仰され、開運霊芝観世と信仰されています。

「本堂」の創建は1694年(元禄7年)に、金沢の富商である中田静家(なかたせいか)が、卍山道白(まんざんどうはく)に帰依し寄進したもの。
堂内の中央の内陣に、ご本尊として華厳の「釈迦牟尼佛」、脇立に「阿難尊者」、「迦葉尊者」が祀られていす。
それで、「本堂」の東側にあるのが、有名な「悟りの窓」と「迷いの窓」です。窓越しの新緑が美しいです。

ご覧のように、手前に結界があるので、窓の前までは行けません。
お寺の説明では「悟りの窓」の円型は、「禅と円通」の⼼を表し、円は⼤宇宙を表現しているようです。
「迷いの窓」の⾓型は、「⼈間の⽣涯」を象徴し、⽣⽼病死の四苦⼋苦を表しているようです。ともにバックの新緑が綺麗です。

このあと、もう少し「血天井」を見て行きます。
この辺りには「手形跡」と出ています。探しましたが・・・?。

こちらには「足形跡」と書いてあって、はっきり分かります。血で染まった天井板といい、この戦の壮絶さが・・・・。
次に「書院」に入ります。こちらにも綺麗な庭園があります。

最初に入った室内の襖絵は、山口雪渓(やまぐちせっけい)筆の「山水墨画」(江戸時代中期)が8面。



「本堂」と「書院」との間の「中庭」には、「キバナツツジ」が咲いてました。
ここから見て、正面の本堂の北側にあるのが「開山堂」です1719年(享保4年)に建⽴され「復古堂」とも呼ばれ、堂内には卍⼭禅師の⽊像を安置してあって、その像の下には舎利を収めらています。こちらは非公開です。
「本堂」の裏には「鶴亀庭園」があります。紅葉には真っ赤に染まる庭園も、今は新緑が綺麗です。
「書院」から見た「悟りの窓」と「迷いの窓」です。前にあるモミジが秋には赤く染まるわけです。

この庭は「鶴亀の庭」と呼ばれています。鶴は分かりませんが、亀は分かりました。これ、どう見ても亀に見えます。

これ、右端の文字は隠れてますが、案内版に書いてありました。「各渓檀是 異山林同(檀林是同じく渓山各(おのおの)異なる)」と。
文字を隠していたのは、屏風のようで、世界遺産「屋久杉屏風」(推定約3000年前)と書いてありました。





「書院」も早々に出て、再び「本堂」に戻ります。まだ誰も来られてません。
「本堂」に戻ったのは、西側にある「客殿」に行くためです。
「客殿」に入る前に、本堂西側の庭を見ました。見てみると、ここには何も無さそうです。


「客殿」に入りました。特に、ここには何もありません。相田みつをさんの詩が架かってました。


堂内にお一人来られたので、私は充分見せて貰ったので、ここを出ることにしました。出て行く前に拝観受付所に寄って、御朱印を受取ました。
9時20分に、ここを出ました。外には外国人観光客の皆さんも来られてましたね、多分、タクシーか市バスで来られたのでしょう。
行きに撮っておけば良かった「総門」です。入口の石碑も撮りたかったけど、人が来られてので・・・。
2017年(平成29年)4月14日(金)に撮った時のものです。やっぱり、ここは人気がありますね、青モミジの新緑でも、来られていたから。

源光庵の向かいには「浄土真宗 遣迎院」がありますが、非公開です。毎年4月8日の「花祭り」に公開されています。
9時21分に車に戻り出て行きました。鷹峯まで来たので、あと一箇所寄って行きます。
この日、鷹峯に向かったのが、2017年(平成29年)4月14日(金)から来て無かった源光庵です。こちらは紅葉の名所として知られており、2014年(平成26年)11月23日(日)にはも見事な紅葉も見てました。




車で来たので、総門の前を通って駐車場に入ったわけです。ただ、ここは人気の寺院でしたね、帰る頃には結構な人が来られたわけです😢。



源光庵は、源光庵は正式な名を鷹峰山(ようほうざん)寶樹林源光庵という曹洞宗の寺院である。1346年(貞和2年)に大徳寺の第2世「徹翁義享(てつとうぎこう)国師」によって創建され、当初臨済宗に属していたが、1694年(元禄7年)加賀国(現在の石川県)大乗寺の卍山道白(まんざんどうはく)が再興し、曹洞宗に改められた。道白は、当時の曹洞宗の改革に努め、自ら復古道人と称した。本堂には、本尊釈迦牟尼仏及び霊芝観世音像を祀る。廊下の天井は、鳥居元忠が自刃した時の伏見城の遺構と伝え、俗に「血天井」と呼ばれ、落城の悲劇を伝えている。また、内部の丸窓は「悟りの窓」、角窓は「迷いの窓」と呼ばれ、いずれも仏教の真理を表わしている。境内の「稚児井戸」は、創建の頃、水に窮した徹翁が、童子に教えられて得たもので、いかなる旱(かん)ばつでも涸れたことがないといわれている。
















巨大な魚の形をした法具は「開梆(かいぱん)」と呼ばれています。人の身長ほどもある大きな魚の鳴り物は時を報せる法具として使われています。
靴を袋に入れ、待って居ると奥から「どうぞ」と案内されました。8時56分でしたね。靴は袋に入れます。袋の持参をと書いてありましたが、知っていたら持って来ました。家にレジ袋山ほどあるので。拝観料は500円と御朱印をお願いしました。御朱印は帰りに受取ます。





伏見桃山城の遺構である「血天井」は、1600年(慶長5年)7月に徳川家康の中心鳥井彦右衛門元忠率いる1800余人が、石田三成の軍勢と交戦したが、虚しく討ち死し、残る380余人が自刀して果てたときの恨跡です。






後西(ごさい)天皇(第111代天皇)は、殊の外、崇敬が厚く、宮中にて供養されたもので、世に広く信仰され、開運霊芝観世と信仰されています。


堂内の中央の内陣に、ご本尊として華厳の「釈迦牟尼佛」、脇立に「阿難尊者」、「迦葉尊者」が祀られていす。

















ここから見て、正面の本堂の北側にあるのが「開山堂」です1719年(享保4年)に建⽴され「復古堂」とも呼ばれ、堂内には卍⼭禅師の⽊像を安置してあって、その像の下には舎利を収めらています。こちらは非公開です。


























9時21分に車に戻り出て行きました。鷹峯まで来たので、あと一箇所寄って行きます。
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