吉野太夫ゆかりの鷹峯 常照寺へ
鷹峯で常時拝観している寺院は、源光庵と光悦寺、そして常照寺です。今回、源光庵まで来たので、次に向かったのが近くの光悦寺では無く、常照寺に向かいました。
常照寺にも駐車場がありますし、無料で止められます。駐車場には多くの車が止まってました。


駐車場に車を置き、参道に出てくると、この朱塗りの門に出ます。「吉野門(赤門)」と呼ばれ、吉野太夫(よしのだゆう)の寄進によるものです。
鷹峰 常照寺は、吉野太夫(よしのだゆう)ゆかりの寺院で、1616年(元和2年)に本阿弥光悦が土地を寄進し、1627年(寛永4年)その子光瑳の発願により、見延山久遠寺第二十一世寂照日乾(にちけん)上人が創建した。また、山城六檀林(僧侶の修行道場)の人して設立されたため、鷹峰檀林(学寮)、常照講寺と称された。往時は300名を超える学僧が勉学にいそしみ鷹峯の最盛期を現出した。ただ、明治初年に宗内の檀林制度は廃止された。寛永年間(1624~44)のころ、六条三筋町の2代目吉野太夫が帰依し、朱塗りの山門を寄進した。これが現存の吉野門と呼ばれるもの。太夫は天下の名妓として知られ、江戸時代前期の豪商であり文人である灰屋紹益(はいやじょうえき)とのロマンスは歌舞伎でも名高い。太夫が好んだ丸窓を配した茶室遺芳庵(いほうあん)や墓もある。常照寺は桜の名所でもあり、4月の第2日曜日には吉野太夫花供養が行われる。


門を入って右手に「帯塚」があります。1969年(昭和44年)伊豆蔵福治郎氏によって建立。塚石は重さ6㌧の自然石(吉野石)で珍しい帯状をなしており、作庭は名作庭家の中根金作氏によるものです。

手前は、「吉川観方(よしかわかんぽう)先生小直衣(このうし)の像」です。日本画家である吉川観方(かんぽう)は、時代考証など時代行列や資料収集に取り組みました。1979年(昭和54年)に仏師江里宗平(えりそうへい)の監修で、彫刻家の江里敏明(えりとしあき)により制作されましたと、駒札には書いてありました。

次に「宝蔵」で、その左にあね石碑には日蓮聖人 四条金吾(四条頼基)殿 御返書「蔵の財よりも身の財すぐれたり 身の財より心の財第一なり」と書かれています。
正面に「本堂」、右手前に「拝観受付所」があって、行くと誰も居なかったので鐘を鳴らすと出て来られました。
拝観料は400円と御朱印をお願いしました。そして僧侶の方の案内で、「本堂」に入りビデオを10分見ることになります。

「本堂」に架かる扁額「旃檀林(せんだんりん)」は、六牙日潮上人筆によるもの。
ビデオをセットされると、直ぐに出て行かれました。このとき、9時30分頃でしたが、誰も来られてないようです。

ビデオは、以前MBS毎日放送で、毎週日曜日の6時15分から放送されていた「美の京都遺産」で、ナレーションの声は、津嘉山正種さん。毎週ビデオに撮って見てました。

ご本尊は、久遠実成本師釈迦牟尼仏(くおんじつじょうのほんししゃかむにぶつ)、須弥壇の中央には、日蓮上人坐像が祀られています。
ビデオを見終わったら、次に「書院」に入りました。書院内は撮影禁止と書いてありました。

「書院」をみたあと、早々に出て行きました。今度は「本堂」から降りて庭を見て回ります。

「本堂」から見て、向かって左だり(東側)から散策します。


この辺りは、2017年(平成29年)4月14日(金)に来た時、桜が綺麗でした。先ずは、正面のお堂から。



このお堂は、「鬼子母尊神堂」があって、靴を脱いで上がることができますが、外からお参りさせて貰いました。
堂内には、三体の鬼子母尊神像と、十羅殺女が祀られています。鬼子母尊神は、もともと子供殺して食べる悪鬼でしたが、仏の教えを聞いて懺悔し、改心したのち、子育て、子授けの神様となりました。十羅殺女は、その眷属だそうです。


その北側には、常照寺の鎮守社として「常富大菩薩堂」があって、ここも靴を脱いで上がりますが、外からお参りさせて貰いました。
享保年間(1716~36)に、学寮に智湧という学僧が勉強してました。ただ山内にしばし奇端不思議が起こるので常人と異なる智湧をいぶかった学頭職空妙院日善上人が一夜その室を覗いたところ白狐が一心に書見していたという。姿を見られたので、ここを去って摂津能勢妙見山に登って修行を重ね常富大菩薩となられた。

その右横の小さな社が「妙法龍神社」があります。
今日は、前回は行っている「白馬池」には降りません。体力以前の虫が怖かったら😢。


本堂の西側を通り、吉野太夫ゆかりの茶室「遺芳庵」に向かいます。


その先を歩いて行くと、右手に「供養塔の記」と書かれた石碑があって、奥に供養塔がありますが、何か分かりません。




目的の茶室「遺芳庵」の手前に茶室「聚楽亭」がありました。由緒書にも記載が無いので、詳細は分かりません。



9時47分に茶室「遺芳庵」に着きました。この茶室の特徴は、吉野太夫が好んだ大丸窓(俗に吉野窓)にあります。


最初に、本堂で見たビデオでも紹介されていたことですが、その丸窓は完全な真円ではなく底が一部平らな形をしています。
茶室「遺芳庵」は、吉野太夫を偲んで建てられた茶室です。壁一杯に切られた丸窓は、吉野太夫が好んだことから「吉野窓」とも呼ばれ、円の下部が切り取られているのが特徴です。そもそも完全な円は、悟りに例えられます。吉野太夫は円の一部を切り取ることで、より完成されていない悟っていない自分を客観的に見つめたのでしょう。大胆さの中で謙虚さが込められた味わい深い窓です。
最初にビデオを見て置いて良かったですね、ここも早々に次へと向かいました。


「名妓 吉野太夫の墓」です。横に駒札が建ってました。
西国の武士松田武右衛門の娘徳子(とくこ)が、六条三筋町(後の島原)の名妓吉野太夫となる。才色双絶にして和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めたという。上流社交場の花天下随一希代の太夫と謳われ遠く明国にまで名を馳せた。吉野太夫は1643年(寛永20年)8月25日、38歳の若さで没した。常照寺開山の日乾上人に帰依し山門を寄進。深い信仰の人で戒名は唱玄院妙蓮日性信女。毎年4月第3日曜日に「吉野太夫花供養」が行われ、島原から太夫が参拝し訪問客に花を添えている。当代きっての文化人灰屋紹益(はいやしょうえき)とのロマンスは特に名高く、後に戯曲「桜時雨」となり、また、十三代目 片岡仁左衛門の発願により境内に二人の比翼塚と紹益の歌碑(都をば 花なき里と なしにけり 吉野の死出の 山にうつして)が建立された。

本堂の右手裏にある墓地内に「開山廟」があります。建物の中央に開山の日乾上人の五輪塔のお墓が祀られています。欅の扉には珍しい形の五七の花桐紋が彫刻されています。この五七花桐紋が常照寺の寺紋となっています。


この先に、吉野太夫とロマンスで有名な灰屋紹益(はいやしょうえき)の紹益の墓(供養塔)の「比翼塚」があるので寄って行きます。
この歌碑には紹益が詠んだ歌「都をば 花なき里になしにけり 吉野を死出の山にうつして」を十三代目 片岡仁左衛門が揮毫しました。

「比翼塚」は、吉野太夫と夫の灰屋紹益(はいやしょうえき)との供養塔です。吉野太夫が登場する戯曲「桜時雨」の縁により十三代目 片岡仁左衛門により建立されました。


この塚の回りには、「躑躅(ツツジ)」や「紫蘭(シラン)」が綺麗に咲いてました。
ここを出るとき、拝観受付所で呼び止められ御朱印を受取ました。ここは日蓮宗のため、お題目ですね。



9時58分に駐車場に戻り出て行きました。2021年(令和3年)5月25日(火)以来でしたが、青モミジの新緑楽しめました。
この鷹峯に向かう途中、数10台のタクシーと擦れ違いました。修学旅行生を乗せているようですが、学生さん何処に泊まっていたのかなぁ?。今日は、ここで帰りました。




鷹峰 常照寺は、吉野太夫(よしのだゆう)ゆかりの寺院で、1616年(元和2年)に本阿弥光悦が土地を寄進し、1627年(寛永4年)その子光瑳の発願により、見延山久遠寺第二十一世寂照日乾(にちけん)上人が創建した。また、山城六檀林(僧侶の修行道場)の人して設立されたため、鷹峰檀林(学寮)、常照講寺と称された。往時は300名を超える学僧が勉学にいそしみ鷹峯の最盛期を現出した。ただ、明治初年に宗内の檀林制度は廃止された。寛永年間(1624~44)のころ、六条三筋町の2代目吉野太夫が帰依し、朱塗りの山門を寄進した。これが現存の吉野門と呼ばれるもの。太夫は天下の名妓として知られ、江戸時代前期の豪商であり文人である灰屋紹益(はいやじょうえき)とのロマンスは歌舞伎でも名高い。太夫が好んだ丸窓を配した茶室遺芳庵(いほうあん)や墓もある。常照寺は桜の名所でもあり、4月の第2日曜日には吉野太夫花供養が行われる。




























堂内には、三体の鬼子母尊神像と、十羅殺女が祀られています。鬼子母尊神は、もともと子供殺して食べる悪鬼でしたが、仏の教えを聞いて懺悔し、改心したのち、子育て、子授けの神様となりました。十羅殺女は、その眷属だそうです。



享保年間(1716~36)に、学寮に智湧という学僧が勉強してました。ただ山内にしばし奇端不思議が起こるので常人と異なる智湧をいぶかった学頭職空妙院日善上人が一夜その室を覗いたところ白狐が一心に書見していたという。姿を見られたので、ここを去って摂津能勢妙見山に登って修行を重ね常富大菩薩となられた。





















茶室「遺芳庵」は、吉野太夫を偲んで建てられた茶室です。壁一杯に切られた丸窓は、吉野太夫が好んだことから「吉野窓」とも呼ばれ、円の下部が切り取られているのが特徴です。そもそも完全な円は、悟りに例えられます。吉野太夫は円の一部を切り取ることで、より完成されていない悟っていない自分を客観的に見つめたのでしょう。大胆さの中で謙虚さが込められた味わい深い窓です。




西国の武士松田武右衛門の娘徳子(とくこ)が、六条三筋町(後の島原)の名妓吉野太夫となる。才色双絶にして和歌、連歌、俳諧に優れていて、琴、琵琶、笙が巧みであり、さらに書道、茶道、香道、華道、貝覆い、囲碁、双六を極めたという。上流社交場の花天下随一希代の太夫と謳われ遠く明国にまで名を馳せた。吉野太夫は1643年(寛永20年)8月25日、38歳の若さで没した。常照寺開山の日乾上人に帰依し山門を寄進。深い信仰の人で戒名は唱玄院妙蓮日性信女。毎年4月第3日曜日に「吉野太夫花供養」が行われ、島原から太夫が参拝し訪問客に花を添えている。当代きっての文化人灰屋紹益(はいやしょうえき)とのロマンスは特に名高く、後に戯曲「桜時雨」となり、また、十三代目 片岡仁左衛門の発願により境内に二人の比翼塚と紹益の歌碑(都をば 花なき里と なしにけり 吉野の死出の 山にうつして)が建立された。











ここを出るとき、拝観受付所で呼び止められ御朱印を受取ました。ここは日蓮宗のため、お題目ですね。




この鷹峯に向かう途中、数10台のタクシーと擦れ違いました。修学旅行生を乗せているようですが、学生さん何処に泊まっていたのかなぁ?。今日は、ここで帰りました。
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