第50回記念「京の夏の旅」東本願寺 渉成園(枳殻邸) 燕申堂へ
第50回記念「京の夏の旅」東本願寺 渉成園(枳殻邸)内にある燕申堂(えんしんどう)が初めて一般公開されました。当初は、直ぐにでも行きたかったですが、今年の夏の暑さは異常で、連日猛暑日が続いてて、公開が9月30日(火)まで、涼しくなってから行こうかなぁと思ってました。ただ9月に入っても猛暑日が続いて、長期予報でも涼しくなる気配が無かったので、先に述べたように車で東本願寺 渉成園(枳殻邸)に向かったわけです。
この日も朝から暑かったです。最高気温は35.4℃まで上がり、これで猛暑日の日数が55日となり過去最高を更新しました。早めに東本願寺 渉成園(枳殻邸)を汗だくになって散策して、9時56分に燕申堂の門前に着きました。まだ開門されてないので、門の前には2組が並ばれてて、そして私で3組目、開門直前にもう1組が来られて待たれてました。

場所は、かつての庭園の入口手前にありました。庭園の散策を終えると必ず通る所でしたね。あまりにも暑いので、室内は冷房中と案内が出てました。

10時に開門(門は最初から開いてます)され、スタッフの方が呼びに来られ、順々に入って行きます。靴は袋に入れ、袋は持ち帰る方式でした。
先ずは、上がって拝観料を500円納めます。渉成園に入るのに700円でしたので、ここでは1200円でした。スタンプラリーも貰って、大事な事を聞きました。「写真は撮れますか?」と。答えは「何処にを撮って貰ってもOKです」と。
最初、ここに集まってガイドさんの話しを聞きました。全員で5組ぐらいだったと思います。手前が「二の間」、奥が「一の間」です。「二の間」には、以前使われていたと思われるカーペットの後が残っています。
「燕申堂(えんしんどう)」は、本願寺の21代宗主厳如(ごんにょ)の隠居所として1890年(明治23年)に建てられた。東本願寺歴代門首の隠居所や迎賓施設として使われた別邸ですが、近年まで門首の親族がお住まいであったため非公開でした。重厚な表門の奥に建つ二階建ての瀟洒(しょうしゃ)な建物で、各部屋に「驟雨(しゅうう)」「橘山(きつざん)」などの名前が付けられ、その全てが茶席として利用できるようになっています。一つずつ飛形が異なる燕(つばめ)の釘隠(くぎかくし)が特徴。全部で25個あります。近代京都画壇の絵師幸野楳嶺(こうのばいれい)による障壁画もみどころ。北山杉などの最上級の木材を用いた数寄屋風意匠の御殿と、巨大な手水鉢も見所。
最初に受付を済ませると、この「三の間」を通ります。燕申堂の歴史をパネルで紹介されてました。

こちらが「一の間」で、退隠した門主の私的住居でした。この「一の間」の右奥には床の間があり、左には扁額が展示されていました。

この襖絵は、江戸時代後期から明治時代に活躍した幸野楳嶺(こうのばいれい)の「秋草図」と聞きました。
この扁額、「消閑(しょうかん)」とは、ひまつぶしの意、書いたのは三条實美(さんじょうさねとみ)と聞きました。
次に、「一の間」の向かって左手に行ってみます。その部屋は「驟雨の間」と呼ばれています。
こちらは「驟雨」(しゅうう)と書かれた扁額は、「二の間」に架かっています。驟雨とは、にわか雨のことと聞きました。
「驟雨の間」の全景です。ここでもガイドさんが説明してくれました。
ここの襖絵や腰板の絵は、江戸時代後期から明治時代に活躍した幸野楳嶺(こうのばいれい)。現在の京都市立芸術大学の前身である京都府画学校校長で、弟子に竹内栖鳳が。

ガイドさんが強調していたのは床柱が躑躅の木が使われていること。こんなに長いのは稀だそうです。
次に「二の間」から「橘山の間」に入ります。

この部屋には「橘山」(きつざん)と書かれた扁額が架かっています。
この「橘山の間」に架かる掛け軸は、望月玉泉(もちづきぎょくせん)で、明治時代から大正時代にかけて活躍した日本画家だそうです。幸野楳嶺らと京都府画学校設立に協力したと聞きました。



この奥の庭には巨大な「手水鉢」があり案内では、今の御霊神社(上御霊神社)付近で奈良時代に建てられたとされる出雲寺の三重塔の心礎と伝わります。





公開されているエリアは、これで全て見せて貰いました。非公開エリアは、驟雨の間の背後にある「消閑の間」、2階の「風月楼」などがあるようです。
燕申堂の特徴的なのは、長押(なげし)に飾られた銀製のツバメの釘隠し。今回の公開部分には25個あり、飛んでいたり止まっていたり、一つひとつ形が異なります。このうち、飾り直した釘隠しが一つだけある。いつしか「飛び去って」しまい、飾り直したと伝えられているという・・・?。
他のツバメは、黒色でしたが、このツバメだけは銀色・・・ひょっとして、このツバメかなぁと、飾り治したのは。
このツバメだけ、羽根を休ませていました。今回、公開されたエリアのツバメで、羽根を休ませていたのは、この1羽だけでした。



25羽全部のツバメは撮ってません。いろいろ探してこれだけ撮りました😊。それぞれ飛ぶ形が違ってましたね。
「一の間」と「二の間」の間から見る、このエリアの案内を急にされて、天井が網代天井だと説明されました。「驟雨の間」と「橘山の間」にありました。



10時24分に燕申堂の「表門」を出ました。堂内はエアコンが効いていたのに、外に出ると熱風が。


渉成園の西門から見る通りは「正面通り」です。西向き一方通行のため、帰りはここを通りました。
キョウテク 渉成園西門北パーキングに戻り、精算すると9時29分~10時29分、400円で済みました。ギリギリでしたね😊。先程、述べたように、ここから南に下がり正面通りを西に進み、東本願寺前に出て、北に上がり花屋町通りに入りました。西洞院通りを北に上がり、次に高辻通りを西に進みます。この辺りが私の生まれ育った所です。懐かしいので四条通りを通らず、いつも高辻通りを利用します。私が住んでいた時に比べ、随分変わりました。親しい同級生も住んでないので、今では車で通るだけですね。懐かしい風景をみたあと帰りました。
この日も朝から暑かったです。最高気温は35.4℃まで上がり、これで猛暑日の日数が55日となり過去最高を更新しました。早めに東本願寺 渉成園(枳殻邸)を汗だくになって散策して、9時56分に燕申堂の門前に着きました。まだ開門されてないので、門の前には2組が並ばれてて、そして私で3組目、開門直前にもう1組が来られて待たれてました。
先ずは、上がって拝観料を500円納めます。渉成園に入るのに700円でしたので、ここでは1200円でした。スタンプラリーも貰って、大事な事を聞きました。「写真は撮れますか?」と。答えは「何処にを撮って貰ってもOKです」と。
「燕申堂(えんしんどう)」は、本願寺の21代宗主厳如(ごんにょ)の隠居所として1890年(明治23年)に建てられた。東本願寺歴代門首の隠居所や迎賓施設として使われた別邸ですが、近年まで門首の親族がお住まいであったため非公開でした。重厚な表門の奥に建つ二階建ての瀟洒(しょうしゃ)な建物で、各部屋に「驟雨(しゅうう)」「橘山(きつざん)」などの名前が付けられ、その全てが茶席として利用できるようになっています。一つずつ飛形が異なる燕(つばめ)の釘隠(くぎかくし)が特徴。全部で25個あります。近代京都画壇の絵師幸野楳嶺(こうのばいれい)による障壁画もみどころ。北山杉などの最上級の木材を用いた数寄屋風意匠の御殿と、巨大な手水鉢も見所。
燕申堂の特徴的なのは、長押(なげし)に飾られた銀製のツバメの釘隠し。今回の公開部分には25個あり、飛んでいたり止まっていたり、一つひとつ形が異なります。このうち、飾り直した釘隠しが一つだけある。いつしか「飛び去って」しまい、飾り直したと伝えられているという・・・?。
「一の間」と「二の間」の間から見る、このエリアの案内を急にされて、天井が網代天井だと説明されました。「驟雨の間」と「橘山の間」にありました。
キョウテク 渉成園西門北パーキングに戻り、精算すると9時29分~10時29分、400円で済みました。ギリギリでしたね😊。先程、述べたように、ここから南に下がり正面通りを西に進み、東本願寺前に出て、北に上がり花屋町通りに入りました。西洞院通りを北に上がり、次に高辻通りを西に進みます。この辺りが私の生まれ育った所です。懐かしいので四条通りを通らず、いつも高辻通りを利用します。私が住んでいた時に比べ、随分変わりました。親しい同級生も住んでないので、今では車で通るだけですね。懐かしい風景をみたあと帰りました。
この記事へのコメント
見学できてよかったですね。
ツバメの釘隠しが可愛くて面白い。
これを見比べて回るだけでも、
興味尽きないものがあるなと思いました。
今年は猛暑が長く続きましたが、
10月の京都は少し涼しくなりましたか?
今日は、朝の気温が17℃まで下がって、ようやく平年の気温になりましたが、明日から、また暑くなりそうです。台風がきているので。
東本願寺の渉成園にある燕申堂は初公開されたので、見に来た分けてです。
本当は、京都市民限定で無料拝観されたんですが、7月の京都は猛烈に暑かったので、行けませんでした。
東本願寺では、御影堂門の公開もあったので、あわせて行ってます。
渉成園は秋の紅葉も綺麗ですので、また訪問したいです。