世界遺産 銀閣寺 秋の特別拝観(本堂・東求堂・閬風亭)へ
今年の2月17日(月)に寒波が襲来したその日に「第59回 京の冬の旅」で、世界文化遺産 臨済宗相国寺派 東山慈照禅寺(銀閣寺)の特別公開に行きました。通常非公開の「本堂・弄清亭(ろうふうてい)」が公開されたので、見に来た訳です。
ここから慈照寺(銀閣寺)のことを銀閣寺と書きます。銀閣寺では、春と秋に特別拝観として、通常非公開の「本堂・東求堂・閬風亭」が公開されます。前途したとおり、本堂と閬風亭は見せて貰いました。後は国宝「東求堂(とうぐうどう)」だけです。春の特別拝観は、「第59回 京の冬の旅」で入ったばかりだったので、当初から秋の特別拝観に行くことを決めてました😊。
銀閣寺 秋の特別拝観の日程は、10月1日(水)~12月7日(日)、開始時間は、10時00分、11時00分、12時00分、13時30分、14時30分、15時30分で、所要時間は約30分、定員は各回約20名。拝観開始時間の1時間前から受付(当日申込順)。
10月1日(水)の最高気温は、29.7℃と、10月というのに、あと一歩で真夏日を記録するところでした。そして翌日の10月2日(木)は、最低気温が18.3℃と、今季最低となりました。9月30日(火)に、嵐山月灯路を見に行ったので、当初は10月1日(水)に行くつもりが、2日(木)に行くことにしました。ただ、想定外のことが分かりました。それは中国では10月1日(水)から国慶節の大型連休が始まったようで、23億人が移動されるとのニュースで言ってました。それに人気の旅行先は日本が1位だそうで、世界遺産の銀閣寺にも多くの中国人観光客が来られるでしょうけどね、仕方ないです😒。
「京都市銀閣寺観光駐車場」に9時47分に車を入れました。ここでは入口で1040円を払います。時間制限はありません。ただし17時に閉まります。
写真は「哲学の道」です。駐車場に観光バスが多数止まってて、小学校の修学旅行生でしょうね、組に分かれて2列に並んでました。とりあえず、あの小学生より先に入ろうと急いで銀閣寺に向かった次第です。


8時52分に「総門」前に着きました。駐車場から総門まで、緩やかに登っています。今日は冷えたので何ヶ月ぶりに上着を着てきました。
銀閣寺の開門は8時30分から。今日の特別拝観の受付が9時00分から、そして特別拝観は10時00分からです。あまり早く行くと待ち時間が長くなるし、ギリギリ行けば、特別拝観の定員20名に漏れる可能性もあるし、それで、9時に入ることを目標にしてきました。いつものことですが、外国人観光客多いし、修学旅行生も多いです😢。
まだ、インバウンドの方が来られ無かった、2022年(令和4年)2月7日(月)では、ガラガラでした。もうこんな風景は見ることはないでしょう。その事を思いながら「総門」をくぐりました。
総門から中門までの間は「銀閣寺垣」と呼ばれています。石垣、竹垣、椿の生垣で構成され、綺麗に刈り込みされてます。
拝観料500円は、ここで納めます。するとお札をいただきますが、そこに拝観券が付いてます。
「中門」を入った左手に受付があるので、そこでお札についている半券を切られます。
何度か行ってる銀閣寺で、この受付で、「朱印帳があれば先に出して下さい」と案内されますが、今日は無かったです。私は、向かいにある納経所に朱印帳を出しました。最近は500円が多いですが、ここは300円でした。番号札は5番だったので以外と少ないかなぁ。朱印帳は帰りに受け取ります。

朱印帳を出すと順路に沿って進みます。左手には「庫裏」が、唐門の「宝処閣」には出入りできません。右手の通用門から庭園内に入ります。
入ると直ぐに鎮守社でしょう「八幡社」があります。それより人が多いのにビックリです。
なるべく「向月台」と、「観音殿」(銀閣・国宝)とをセットで撮りました。なるべく人が入らないようにと。
向月台は高さ1.8㍍。富士山の頭を削ったような形が特徴。初めて登場したのは、1780年(安永9年)の「都名所図会」で、盛砂は低く描いてある。1799年(寛政11年)の「都林泉名勝図会」では、既に高く描いてあり、時代が下がるたびに高くなっている。
本堂の前から「銀沙灘(ぎんしゃだん)」を撮ろうとしたら、駐車場に居た小学校の修学旅行生がガイドさんに連れられ入って来ました。静かな境内が一転して賑やかに😊。
銀沙灘は高さ35~40㌢。江戸時代初期、宮城丹波守豊盛が荒れ果てたお堂や庭の整備にとりかかった際、池は白い流砂で埋まっていたそうで、その砂を盛り上げことから、砂盛りが始まったという。
ここで9時になったので、先ずは特別拝観の申込みをします。上から順にカタカナで名前を書いています。私で2番目でしたので余裕で10時からの特別拝観いけました。
10時から始まるので、10分前に集合するようにと書いてあったので、境内を散策してきます。特に、まだ観光客が少ない間に😊。
申込みを書いた際、唐門の「宝処閣」から「中門」を撮ってみました。普段は入ることができません。

こちらが「本堂」です。10時になったら、このお堂に入りガイドさんより説明を聞きます。
江戸時代はじめ、1640年(寛永17年)、知恩院の普請奉行を務めた宮城丹波守豊盛(元は豊臣秀吉配下の武将)の援助により造営されたのが「方丈(本堂)」である。

「方丈(本堂)」と「東求堂」の間にある小さな庭園の奥に「銀閣寺形手水鉢」があります。あとの特別拝観では、間近で鑑賞できます。
斬新なデザインが僧の袈裟を連想させ、モダンを感じさせるので、別名を袈裟型手水鉢と呼ばれている。


このとき、9時過ぎでしたが、国宝「東求堂(とうぐどう)」の扉が開いています。普段は閉まっているので、特別拝観があるからでしょうか?。こちらは初めて内部に入らせて貰います。
この石橋は、白鶴島(はっかくとう)の西側に架かる「仙柚橋(せんしゅうきょう)」で、もちろん渡れません😊。
正面に「方丈(本堂)」、向かって右に国宝「東求堂」を見ています。小学生たちはガイドさんの話しを聞いてます。興味あるかなぁ😊。

順路に従って進むと「錦鏡池(きんきょうち)」の中にある名石「大内石」と書かれて名札があります。
室町時代の守護大名大内政弘(おおうちまさひろ)が東山山荘造営に際し、室町幕府第8代将軍足利義政に献上した石と言われている。

ここで、順路は山側に上がって行きますが、その前に空いていたので「観音殿(銀閣)」を撮っておきました。山から降りてくると、人が一杯で近寄ることもできなかったので正解でした。
「観音堂(銀閣)」は、中世の楼閣建築や庭園建築の代表とされている銀閣。その名は、金色に輝く鹿苑寺の舎利殿が金閣と呼ばれたのに対する呼称だが、近年の調査でも、建物の外側に銀箔を貼った痕跡は認められない。1階は「心空殿(しんくうでん)」と呼ばれた住宅風、2階は花頭窓に囲まれた禅宗様の造りで「潮音閣(ちょうおんかく)」といい、ここに観音菩薩坐像が安置されている。
ご覧のように、小学生が組別に分かれて話しを聞いてます。このあと狭い山道を登ってくるのかなぁと思いましたが・・・・。
拝観順路に戻り、手前が錦鏡池(きんきょうち)にある「大内石」、奥に「白鶴島(はっかくとう)」、さらに奥が国宝「東求堂」です。

山に上がる前に、山麓に築かれた小さな滝が「洗月泉(せんげつせん)」です。
錦鏡池の南東端にある一筋の小さな滝。山から出た湧き水が、下段にある錦鏡池に流れ落ちる。足利義政造営時の姿を今に伝えている。
先に見た、白鶴島(はっかくとう)の西側に架かる「仙柚橋(せんしゅうきょう)」と違い、こちらは東側に架かる「仙桂橋(せんけいきょう)」が見えました。
ここからも国宝「東求堂」が見られました。あとで内部に入って分かったことで、この方向に「足利義政像」が安置されています。ただ、こちらからは見えないです。

ここから登りになります。石段の途中には「ギボウシ」が咲いてました。

ここで、コースを外れ、奥に進みます。そこには鎮守社七福神の一つ「辨財天」が祀られていたので寄りました。音楽・才智・福徳の神とありました。
再び順路に戻り、ここから急な石段を登って行きます。


池泉をめぐる苑路から、山腹に伸びる苑路。かつて池の周囲や山上に亭舎が点在していたという。現在の東山殿よりも、かつては大きく展開していたのでしょう。


つづら折りの苑路を上がると山腹には「お茶の井 相君泉(そうくんせん)」があります。
慈照寺(銀閣寺)の山腹あり、足利義政はこの泉の水を汲んでお茶を点てたという。相君泉(そうくんせん)は茶の湯の蹲踞の原型とされる。西方寺の龍淵水を写したともいわれる。この石組は昭和初期に庭師の田中泰阿弥らによって発掘・復元されたもので、現在も湧水が続いている。
こちらは「漱蘚亭跡(そうせんていあと)」です。昭和初期に山畔石組、泉、水流などの跡が見つかった。
この上下二段からなる庭の構成は、西方寺(苔寺)に似ているという。上段の庭を苑路から望み、漱蘚亭跡付近には崩れかかったような珍しい石組みが見られる。



ここから再び、急な石段を登ります。写真でも急峻な石段がわかるでしょう。ここまで前途した小学生を連れてくるのでしょうか?。
奥に「愛宕山」、手前に五山の送り火の一つである「左大文字」と、「船形」が見えています。今日は天気が良いので遠くまで、はっきり見えます。


山の中腹に伸びる苑路をたどると「展望所」に着きます。眼下に「観音殿(銀閣)」や「銀沙灘(ぎんしゃだん)」を見渡せます。


苑路は一方通行のため、下りはゆっくり降りました。小学生は危ないなぁと思っていたら、やっぱり登らなかったようです。
降りてくると、最初に撮った写真のように、観音殿(銀閣)を写真に納められるビューポイントは、外国人観光客の団体さんが占拠して近寄れません。先に撮っておいて良かったです。



苑路は「観音殿(銀閣)」の背後を通って、売店やトレイの前にでます。このとき9時15分、9時45分まで、ここで休憩します。
ここには床几があって座れます。なるべく日陰の床几に座りたかったので、運良く空いてて座れました😊。殆どが外国人観光客が座れてましたね。そして、座って休憩していたら、先の小学校の修学旅行生が班ごとに来ました。売店横に「室町時代の銀閣彩色の再現」があるのでガイドさんが説明されてました。そして整列しガイドさんより「ここでトイレを済ませてね」と。このあと駐車場に向かうようです。多分、危ないので展望所には行かなかったのでしょう、怪我でもされたら大変でしょうし。4班ぐらいあったかなぁ、上の写真は小学生が去ったあとのことです。このとき、9時35分になってました。
まだ、時間が早かったので、先に納経所に行き、朱印帳を取りに行きました。
朱印帳を取りにいき、売店の少しばかり買い物をし、9時46分ここを出ました。




「方丈(本堂)」の前を通ると、「室中の間」が開いてました。珍しいですね、まもなくここに集まるからでしょう。扁額は「東山水上行(とうざんすいじょうぎょう)」と書かれています。
9時51分に受付を済ませました。ざっとみて14名ぐらいでしょうか、靴を下駄箱に入れ方丈(本堂)に上がります。
ここで特別拝観料2000円を納めます。そしたら記念品を貰いました。そして荷物も預けますが、これは「第59回 京の冬の旅」と同じです。
これが記念品でした。切り絵御朱印のようですが、朱印はありません。パンフレットも結構、良いものでした。
方丈(本堂)の室中の間に入って待ちます。驚くことに外国人観光客も居ました。事前に案内は日本語のみとあったのに。9時55分に班を3班に分けられます。私は外国人観光客のお二人と私と妻とが同じ班となりました。ただ、最後の拝観者が遅刻されたので、案内が始まったのは10時4分。私の班は国宝「東求堂」から。ここが目的が来たのでね。
入母屋造り檜皮葺の東求堂は、観音殿(銀閣)とともに足利義政創建当時の数少ない遺構で、元は足利義政の持仏堂として、阿弥陀三尊像を安置し、1486年(文明18年)に建立された。仏間の北東に同仁斎(どうじんさい)とよばれる四畳半の書院があることで知られ、初期の書院造りを代表する名建築である。
東求堂の名の由来は、「東方人念仏 求生西方」の仏典からの命名。現世に生きる人が仏に帰依することにより極楽浄土に生まれ変わることを願うとの意。先に仏間に入ります。正面に「足利義政像」があって、法衣をまとい結跏趺坐(けっかふざ)する像で、義政は1485年(文明17年)49歳で出家しており、その頃の像だと伝わる。それから6年、55歳で義政は世を去りました。次に「阿弥如来立像」の案内。東求堂仏間の須弥壇上、厨子を納められている。足利義政が念じたという当初の像ではないようです。梵字を配した舟形の光背を付け、往生者を迎え取る来迎印を結ぶ。そして「同仁斎」に入ります。北側に違い棚と付け書院が並び、床の部分がないのが、初期の書院造りの特徴だとか。ここで義政は硯・筆・漢籍や巻物を飾り、違い棚には茶の具をおき、書き物をされたと案内されました。創建当時そのまま残る東求堂、歴史を感じましたし、見られて本当に良かったです。
次は閬風亭(ろうふうてい)に向かいました。それより外国人観光客、案内分かるのかなぁ。ガイドさん英語話せないと言われてました😊。
弄清亭は、室町幕府8代将軍足利義政が香を楽しんだ「御香座敷(おこうざしき)」を1895年(明治28年)に再建したもの。1996年(平成8年)の改修に際して日本画家奥田元宋(おくだげんそう)の襖絵が奉納された。
最初の部屋は、一面に赤色と白色の牡丹の花が咲く誇る「薫園清韻(くんえんせいいん)」です。部屋が狭いので、目の前で見られます。次の部屋は広いです。床の間から違い棚、襖絵一面に、奥入瀬の渓谷を描いた「流水無限(りゅうすいむげん)」。渓流の流れた先には満開の桜が描いてありました。最後が、真っ赤な燃えるような紅葉を描いた「湖畔秋耀(こはんしゅうよう)」で、襖8面に描いてありました。そして、よくよく見ると、ここの襖の引き手は、足利家の家紋「丸に二つ引」でした。。
このあと、最初に入った方丈(本堂)の「室中の間」に戻って来ました。仏間の中央にご本尊の「宝冠釈迦牟尼仏」を安置。左には、黒の厨子に「足利義政公の位牌」が左横に「日野富子の位牌」を安置。向かって右手には「達磨大師像」が安置されており、お賽銭をしお参りしました。ここの襖絵は複製ですが、俳人で画家の与謝蕪村筆「飲中八仙図(いんちゅうはっせんず)」(12面)。仏間だけに、「東の間」や「西の間」には無い、「折り上げ格天井」となっています。
「本堂西の間」に入って、ここも複製ですが与謝蕪村筆「棕櫚に叭々鳥図(しゅろにははちょうず)」(12面)。叭々鳥は、八哥鳥。ムクドリ科の鳥を襖絵12面を使って同じ方向に飛び立つ叭々鳥が連続で描いてありました。最後は、「本堂東の間」に入って、文人画家の池大雅筆「琴棋書画図(きんきしょがず)」を見ます。こちらも複製です。文人がたしなむべき技芸としての琴・棋・書・画が題材。山中で遊戯三昧の生活を営む文人が水墨画で描いてありました。
最後は、庭園の説明です。「銀沙灘」と「向月台」、「観音殿(銀閣)」の案内が主でした。創建当時から残る「観音殿(銀閣)」は、宝形造の杮葺。1層は「心空殿」と呼ばれる。東に面した正面に4部屋。書院造りで住宅風の造り、正面左の四畳の板の間に、親指ぐらの大きさである「千体地蔵菩薩」を安置。2層は「潮音閣(ちょうおんかく)」と呼ばれ禅宗の仏殿造り。三間四方の縁には和風の跳高欄(はねこうらん)が取り囲む。南の戸口の両脇に花頭窓があって外観は1層の住宅風に見える造り。西側の禅宗洋式の須弥壇に「観音菩薩坐像」を安置。
銀沙灘と向月台には、創建時には何らかの建物が建っていたと推定される。室町幕府8代将軍足利義政は、月待山の麓に位置する自身の庵(東山山荘)から、「わが庵は 月待山の麓にて 傾く空の 影をしぞ思ふ」このように詠んでいる。
スタートが遅れたので、終わったのが10時35分頃。荷物を受け取り外に出ると、外国人観光客の団体さんが居たので、なかなか前に進めません。やっと方丈(本堂)前を抜けることができ、そのまま出口に向かいました。外国人観光客、体が大きいので、小さい私には前が見えないくらいの人混みでしたね。
充分、写真は撮っておいたので、帰りはこの1枚だけにしました。
帰りも、この椿の「銀閣寺垣」を通ります。海外の方はほぼ無関心で歩いて行かれました。

10時40分に「総門」から出ました。先に述べたように、ここは緩やかに登っています。バスガイドさんに連れられた団体さんが、何組もこちらに向かって歩かれてました。
「京都市銀閣寺観光駐車場」に10時45分、戻って来ました。ご覧のように観光バスで向こうが見えないほど止まっています。
ここから白川通りに出て北上します。北大路通りの手前にある「王将 北白川店」でお昼を済ませ、車は北大路通りを西に進みます。突き当たりの西大路が金閣寺の最寄りです。そこで見たのは驚きでしたね、金閣寺バス停に長蛇の列が。ここ最近、地元の人がバスに乗れないのが問題になってますが、本当にあれでは地元の人は乗れないです。そんなことを思いながら帰路に着きました。
ここから慈照寺(銀閣寺)のことを銀閣寺と書きます。銀閣寺では、春と秋に特別拝観として、通常非公開の「本堂・東求堂・閬風亭」が公開されます。前途したとおり、本堂と閬風亭は見せて貰いました。後は国宝「東求堂(とうぐうどう)」だけです。春の特別拝観は、「第59回 京の冬の旅」で入ったばかりだったので、当初から秋の特別拝観に行くことを決めてました😊。
銀閣寺 秋の特別拝観の日程は、10月1日(水)~12月7日(日)、開始時間は、10時00分、11時00分、12時00分、13時30分、14時30分、15時30分で、所要時間は約30分、定員は各回約20名。拝観開始時間の1時間前から受付(当日申込順)。
10月1日(水)の最高気温は、29.7℃と、10月というのに、あと一歩で真夏日を記録するところでした。そして翌日の10月2日(木)は、最低気温が18.3℃と、今季最低となりました。9月30日(火)に、嵐山月灯路を見に行ったので、当初は10月1日(水)に行くつもりが、2日(木)に行くことにしました。ただ、想定外のことが分かりました。それは中国では10月1日(水)から国慶節の大型連休が始まったようで、23億人が移動されるとのニュースで言ってました。それに人気の旅行先は日本が1位だそうで、世界遺産の銀閣寺にも多くの中国人観光客が来られるでしょうけどね、仕方ないです😒。
銀閣寺の開門は8時30分から。今日の特別拝観の受付が9時00分から、そして特別拝観は10時00分からです。あまり早く行くと待ち時間が長くなるし、ギリギリ行けば、特別拝観の定員20名に漏れる可能性もあるし、それで、9時に入ることを目標にしてきました。いつものことですが、外国人観光客多いし、修学旅行生も多いです😢。
何度か行ってる銀閣寺で、この受付で、「朱印帳があれば先に出して下さい」と案内されますが、今日は無かったです。私は、向かいにある納経所に朱印帳を出しました。最近は500円が多いですが、ここは300円でした。番号札は5番だったので以外と少ないかなぁ。朱印帳は帰りに受け取ります。
向月台は高さ1.8㍍。富士山の頭を削ったような形が特徴。初めて登場したのは、1780年(安永9年)の「都名所図会」で、盛砂は低く描いてある。1799年(寛政11年)の「都林泉名勝図会」では、既に高く描いてあり、時代が下がるたびに高くなっている。
銀沙灘は高さ35~40㌢。江戸時代初期、宮城丹波守豊盛が荒れ果てたお堂や庭の整備にとりかかった際、池は白い流砂で埋まっていたそうで、その砂を盛り上げことから、砂盛りが始まったという。
10時から始まるので、10分前に集合するようにと書いてあったので、境内を散策してきます。特に、まだ観光客が少ない間に😊。
江戸時代はじめ、1640年(寛永17年)、知恩院の普請奉行を務めた宮城丹波守豊盛(元は豊臣秀吉配下の武将)の援助により造営されたのが「方丈(本堂)」である。
斬新なデザインが僧の袈裟を連想させ、モダンを感じさせるので、別名を袈裟型手水鉢と呼ばれている。
室町時代の守護大名大内政弘(おおうちまさひろ)が東山山荘造営に際し、室町幕府第8代将軍足利義政に献上した石と言われている。
「観音堂(銀閣)」は、中世の楼閣建築や庭園建築の代表とされている銀閣。その名は、金色に輝く鹿苑寺の舎利殿が金閣と呼ばれたのに対する呼称だが、近年の調査でも、建物の外側に銀箔を貼った痕跡は認められない。1階は「心空殿(しんくうでん)」と呼ばれた住宅風、2階は花頭窓に囲まれた禅宗様の造りで「潮音閣(ちょうおんかく)」といい、ここに観音菩薩坐像が安置されている。
錦鏡池の南東端にある一筋の小さな滝。山から出た湧き水が、下段にある錦鏡池に流れ落ちる。足利義政造営時の姿を今に伝えている。
慈照寺(銀閣寺)の山腹あり、足利義政はこの泉の水を汲んでお茶を点てたという。相君泉(そうくんせん)は茶の湯の蹲踞の原型とされる。西方寺の龍淵水を写したともいわれる。この石組は昭和初期に庭師の田中泰阿弥らによって発掘・復元されたもので、現在も湧水が続いている。
この上下二段からなる庭の構成は、西方寺(苔寺)に似ているという。上段の庭を苑路から望み、漱蘚亭跡付近には崩れかかったような珍しい石組みが見られる。
降りてくると、最初に撮った写真のように、観音殿(銀閣)を写真に納められるビューポイントは、外国人観光客の団体さんが占拠して近寄れません。先に撮っておいて良かったです。
ここには床几があって座れます。なるべく日陰の床几に座りたかったので、運良く空いてて座れました😊。殆どが外国人観光客が座れてましたね。そして、座って休憩していたら、先の小学校の修学旅行生が班ごとに来ました。売店横に「室町時代の銀閣彩色の再現」があるのでガイドさんが説明されてました。そして整列しガイドさんより「ここでトイレを済ませてね」と。このあと駐車場に向かうようです。多分、危ないので展望所には行かなかったのでしょう、怪我でもされたら大変でしょうし。4班ぐらいあったかなぁ、上の写真は小学生が去ったあとのことです。このとき、9時35分になってました。
まだ、時間が早かったので、先に納経所に行き、朱印帳を取りに行きました。
朱印帳を取りにいき、売店の少しばかり買い物をし、9時46分ここを出ました。
ここで特別拝観料2000円を納めます。そしたら記念品を貰いました。そして荷物も預けますが、これは「第59回 京の冬の旅」と同じです。
方丈(本堂)の室中の間に入って待ちます。驚くことに外国人観光客も居ました。事前に案内は日本語のみとあったのに。9時55分に班を3班に分けられます。私は外国人観光客のお二人と私と妻とが同じ班となりました。ただ、最後の拝観者が遅刻されたので、案内が始まったのは10時4分。私の班は国宝「東求堂」から。ここが目的が来たのでね。
入母屋造り檜皮葺の東求堂は、観音殿(銀閣)とともに足利義政創建当時の数少ない遺構で、元は足利義政の持仏堂として、阿弥陀三尊像を安置し、1486年(文明18年)に建立された。仏間の北東に同仁斎(どうじんさい)とよばれる四畳半の書院があることで知られ、初期の書院造りを代表する名建築である。
東求堂の名の由来は、「東方人念仏 求生西方」の仏典からの命名。現世に生きる人が仏に帰依することにより極楽浄土に生まれ変わることを願うとの意。先に仏間に入ります。正面に「足利義政像」があって、法衣をまとい結跏趺坐(けっかふざ)する像で、義政は1485年(文明17年)49歳で出家しており、その頃の像だと伝わる。それから6年、55歳で義政は世を去りました。次に「阿弥如来立像」の案内。東求堂仏間の須弥壇上、厨子を納められている。足利義政が念じたという当初の像ではないようです。梵字を配した舟形の光背を付け、往生者を迎え取る来迎印を結ぶ。そして「同仁斎」に入ります。北側に違い棚と付け書院が並び、床の部分がないのが、初期の書院造りの特徴だとか。ここで義政は硯・筆・漢籍や巻物を飾り、違い棚には茶の具をおき、書き物をされたと案内されました。創建当時そのまま残る東求堂、歴史を感じましたし、見られて本当に良かったです。
次は閬風亭(ろうふうてい)に向かいました。それより外国人観光客、案内分かるのかなぁ。ガイドさん英語話せないと言われてました😊。
弄清亭は、室町幕府8代将軍足利義政が香を楽しんだ「御香座敷(おこうざしき)」を1895年(明治28年)に再建したもの。1996年(平成8年)の改修に際して日本画家奥田元宋(おくだげんそう)の襖絵が奉納された。
最初の部屋は、一面に赤色と白色の牡丹の花が咲く誇る「薫園清韻(くんえんせいいん)」です。部屋が狭いので、目の前で見られます。次の部屋は広いです。床の間から違い棚、襖絵一面に、奥入瀬の渓谷を描いた「流水無限(りゅうすいむげん)」。渓流の流れた先には満開の桜が描いてありました。最後が、真っ赤な燃えるような紅葉を描いた「湖畔秋耀(こはんしゅうよう)」で、襖8面に描いてありました。そして、よくよく見ると、ここの襖の引き手は、足利家の家紋「丸に二つ引」でした。。
このあと、最初に入った方丈(本堂)の「室中の間」に戻って来ました。仏間の中央にご本尊の「宝冠釈迦牟尼仏」を安置。左には、黒の厨子に「足利義政公の位牌」が左横に「日野富子の位牌」を安置。向かって右手には「達磨大師像」が安置されており、お賽銭をしお参りしました。ここの襖絵は複製ですが、俳人で画家の与謝蕪村筆「飲中八仙図(いんちゅうはっせんず)」(12面)。仏間だけに、「東の間」や「西の間」には無い、「折り上げ格天井」となっています。
「本堂西の間」に入って、ここも複製ですが与謝蕪村筆「棕櫚に叭々鳥図(しゅろにははちょうず)」(12面)。叭々鳥は、八哥鳥。ムクドリ科の鳥を襖絵12面を使って同じ方向に飛び立つ叭々鳥が連続で描いてありました。最後は、「本堂東の間」に入って、文人画家の池大雅筆「琴棋書画図(きんきしょがず)」を見ます。こちらも複製です。文人がたしなむべき技芸としての琴・棋・書・画が題材。山中で遊戯三昧の生活を営む文人が水墨画で描いてありました。
最後は、庭園の説明です。「銀沙灘」と「向月台」、「観音殿(銀閣)」の案内が主でした。創建当時から残る「観音殿(銀閣)」は、宝形造の杮葺。1層は「心空殿」と呼ばれる。東に面した正面に4部屋。書院造りで住宅風の造り、正面左の四畳の板の間に、親指ぐらの大きさである「千体地蔵菩薩」を安置。2層は「潮音閣(ちょうおんかく)」と呼ばれ禅宗の仏殿造り。三間四方の縁には和風の跳高欄(はねこうらん)が取り囲む。南の戸口の両脇に花頭窓があって外観は1層の住宅風に見える造り。西側の禅宗洋式の須弥壇に「観音菩薩坐像」を安置。
銀沙灘と向月台には、創建時には何らかの建物が建っていたと推定される。室町幕府8代将軍足利義政は、月待山の麓に位置する自身の庵(東山山荘)から、「わが庵は 月待山の麓にて 傾く空の 影をしぞ思ふ」このように詠んでいる。
スタートが遅れたので、終わったのが10時35分頃。荷物を受け取り外に出ると、外国人観光客の団体さんが居たので、なかなか前に進めません。やっと方丈(本堂)前を抜けることができ、そのまま出口に向かいました。外国人観光客、体が大きいので、小さい私には前が見えないくらいの人混みでしたね。
ここから白川通りに出て北上します。北大路通りの手前にある「王将 北白川店」でお昼を済ませ、車は北大路通りを西に進みます。突き当たりの西大路が金閣寺の最寄りです。そこで見たのは驚きでしたね、金閣寺バス停に長蛇の列が。ここ最近、地元の人がバスに乗れないのが問題になってますが、本当にあれでは地元の人は乗れないです。そんなことを思いながら帰路に着きました。
この記事へのコメント
朝日があふれる絶好の天気。境内の庭園や家屋がとっても綺麗です。
こんな日の散策は心がウキウキするでしょう。写真映えもばっちり。
そこでの本堂・東求堂・閬風亭内部の公開も素晴らしいでしょうね。
銀閣寺というと庭園と建築の外観を眺めるだけというイメージなので、内部もしっかり見学する特別公開に憧れますよ。
銀閣寺の特別拝観は良かったです。金閣寺もありますが、やっぱり歴史が違うので銀閣寺の方が断然値打ちあります。
東求堂では、義政が書物や書き物をしたと伝わる部屋も当時のまま残っていたりして。ガイドは日本語だけで、外国人観光客には気の毒でしたね。
あり得ないでしょうけど、観音殿も見てみたいです。