ブラタモリで、タモリさんが訪れた豊国神社や大仏殿跡緑地公園へ
10月17日(金)に、嵐山高雄パークウェイに行ったときは快晴の天気でしたが、翌日から雨がちの天気が続き、気温は平年に戻りましたが、それより何よりパソコンが急に動かなくなって、外出どころじゃ無くなってしまいました😢。
天気がイマイチだったことで、あれだけ平年より気温が高かったのに、10月22日(水)の最高気温は、16.4℃としか上がらなくて、長袖に上着が必要なほどの気候となりました。それでも、これで平年なんですね、今までが異常に暑かっただけのようです。そして、10月23日(木)の最低気温は、12.2℃と低く、ようやく晴れたこともあって、パソコンは動かないままでしたが、気分転換に出掛けることにしました。
この日は、京都市文化観光資源保護財団から招待券をいただいた洛東遺芳館に行くつもりで、その前に、タモリさんが9月20日(土)放送のブラタモリ「京都 国宝・三十三間堂SP」で、訪れた「豊国神社」や「甘春堂 東店」、「大仏殿跡緑地公園」を行くつもりで、京阪電車七条駅に9時17分に着いて、先ずは豊国神社に向かうことに。朝は寒かったけど、陽射しが強いので歩くと暑さは感じましたね、風は冷たかったけど。
七条駅から地上に上がり、東に向いて歩き、次に本町通りを北上しました。そして、正面通りを東に向いて歩いていくと豊国神社の鳥居が見えてきました。
この大鳥居には、江戸時代に焼失してしまった大仏殿の総門がありました。それは江戸時代に描かれた「都名所図会」にも載っています。
9時27分に西向きに建っている大鳥居をくぐります。この唐門へと続く石敷きは、かつての大仏殿に敷かれていたものを明治になって再利用されました。
花崗岩なので本当は白色なんですけど、中には赤いのが混じっています。それは大仏殿が火災によって焼失した名残だそうです。
唐門の前には陶器の「豊臣秀吉像」があります。この像は太平洋戦争中に制作されましたが、阪神淡路大震災により倒壊。長く蔵の中で保管されてきたそうですが、令和元年の新天皇即位に合わせる形で再び公開されることになったそうです。
余談ですがタモリさんは、この秀吉像にお参りされてましたね😊。国宝の唐門まで行かれなかったです。このあとタモリさんは「大仏殿跡緑地公園」に行かれました。

国宝「唐門」内には、お正月の三が日は入れますが、今年は、4日と5日が土曜日曜となったので5日まで延長されましたので、1月5日(日)にお参りできました。
せっかく豊国神社まで来たので、御朱印をいたたぎました。毎年「京都十六社朱印めぐり」で貰っているですけど😊。

タモリさんはスルーされましたが、この鐘の横を通るので寄って行きました。世に言う「方広寺鐘銘事件」の鐘です。この鐘に書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に徳川がクレームをつけた訳です。
方広寺は、豊臣秀吉が大仏(盧舎那佛)を安置するため、1586年(天正14年)に造営がはじまり、1595年(文禄4年)に創建しました。しかし、大仏は慶長大地震(1596年・慶長元年)により倒壊(伏見城も倒壊するほどの大地震)。秀吉の遺志を継いだ秀頼が大仏の再建に着手しましたが、1602年(慶長7年)に、鋳造中の大仏から出火炎上し大仏殿までも焼失します。ちなみに1602年は、徳川家康が征夷大将軍に任じられた年です。そして1607年(慶長12年)豊臣秀頼は豊臣家家臣の片桐且元を奉行として、再び大仏および大仏殿の再建を目指し大仏が鋳造され、大仏殿が完成したのは1612年(慶長17年)、1614年(慶長19年)4月には梵鐘も完成。しかし徳川幕府から鐘に書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に、家康の名を切ったものであり徳川家を呪い、豊臣家のみの繁栄を願っているものであると家康の怒りをかったとあります。これをきっかけに大坂冬の陣、大阪夏の陣によって豊臣家は滅亡となりました。その鐘が今も残っているのです。
「大仏殿跡緑地公園」には、この細い通路を通ります。私は、二度目ですが、記録に残ってないので何時訪れたのか分かりません。少なくとも20年以上前だと思います。

「方広寺大仏殿跡」に着きました。今は、「大仏殿跡緑地公園」になっており、当時の面影は何もありません。
1585年(天正13年)に、関白に就任した豊臣秀吉は翌年の1586年(天正14年)、奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東福寺の近傍でその工事を始めましたが、ほどなくして工事は中止となり、六波羅のこの地に寺地を変更して工事を再開。1595年(文禄4年)に大仏殿が完成。高さ18㍍の木製金漆塗の大仏坐像が安置されました。ところが、1596年(慶長元年)の「慶長伏見地震」により大仏が大破し、1598年(慶長3年)に秀吉も世を去ってしまい、そのあと、子である豊臣秀頼が金銅に変えて大仏の復興を行い、途中、鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上するという困難を乗り越え、1612年(慶長17年)に大仏を事実上完成させました。徳川政権下でも大仏殿は維持されましたが、1798年(寛政10年)に落雷で焼失し、再建されませんでした。






中心の小山の辺りに大仏が安置されていて、石のベンチは、大仏殿の大仏の台座があった場所をイメージして置かれ、丸い石は、大仏殿の柱の位置を示している。
ちなみに島津藩は屋久杉のウィルソン株を持って来たそうで、この丸い石の何処かに使われたようです。そして、大仏は高さが19㍍もあって、現在の奈良の大仏より4㍍高かった。この模様をブラタモリでは、風船を上げて実験されてましたね。
滅多に来ることが無いので、豊国神社本殿の裏手を見ました。
2000年(平成12年)に遺構の状態を確認するため発掘調査をされました。その結果大仏殿の正確な位置が判明したそうです。発見された遺構は地下に埋め戻され大切に保存されています。

再び豊国神社に戻り、今日の目的地に向かいます。この大鳥居からの前の通り名は「正面通り」と言います。
大仏が西向きに安置されていたので、その名残でしょう。目的に行く前に、タモリさんも寄られた「甘春堂 東店」に寄って行きます。

タモリさんが食べられた「大仏餅」です。五個入り800円でした。家に帰ってから美味しくいただきました。
ここから歩いて5分ぐらいの洛東遺芳館に向かいます。場所は、一度訪れてますが、随分前のことで、地図を頭に入れて来ました😊。
天気がイマイチだったことで、あれだけ平年より気温が高かったのに、10月22日(水)の最高気温は、16.4℃としか上がらなくて、長袖に上着が必要なほどの気候となりました。それでも、これで平年なんですね、今までが異常に暑かっただけのようです。そして、10月23日(木)の最低気温は、12.2℃と低く、ようやく晴れたこともあって、パソコンは動かないままでしたが、気分転換に出掛けることにしました。
この日は、京都市文化観光資源保護財団から招待券をいただいた洛東遺芳館に行くつもりで、その前に、タモリさんが9月20日(土)放送のブラタモリ「京都 国宝・三十三間堂SP」で、訪れた「豊国神社」や「甘春堂 東店」、「大仏殿跡緑地公園」を行くつもりで、京阪電車七条駅に9時17分に着いて、先ずは豊国神社に向かうことに。朝は寒かったけど、陽射しが強いので歩くと暑さは感じましたね、風は冷たかったけど。
花崗岩なので本当は白色なんですけど、中には赤いのが混じっています。それは大仏殿が火災によって焼失した名残だそうです。
余談ですがタモリさんは、この秀吉像にお参りされてましたね😊。国宝の唐門まで行かれなかったです。このあとタモリさんは「大仏殿跡緑地公園」に行かれました。
せっかく豊国神社まで来たので、御朱印をいたたぎました。毎年「京都十六社朱印めぐり」で貰っているですけど😊。
方広寺は、豊臣秀吉が大仏(盧舎那佛)を安置するため、1586年(天正14年)に造営がはじまり、1595年(文禄4年)に創建しました。しかし、大仏は慶長大地震(1596年・慶長元年)により倒壊(伏見城も倒壊するほどの大地震)。秀吉の遺志を継いだ秀頼が大仏の再建に着手しましたが、1602年(慶長7年)に、鋳造中の大仏から出火炎上し大仏殿までも焼失します。ちなみに1602年は、徳川家康が征夷大将軍に任じられた年です。そして1607年(慶長12年)豊臣秀頼は豊臣家家臣の片桐且元を奉行として、再び大仏および大仏殿の再建を目指し大仏が鋳造され、大仏殿が完成したのは1612年(慶長17年)、1614年(慶長19年)4月には梵鐘も完成。しかし徳川幕府から鐘に書かれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字に、家康の名を切ったものであり徳川家を呪い、豊臣家のみの繁栄を願っているものであると家康の怒りをかったとあります。これをきっかけに大坂冬の陣、大阪夏の陣によって豊臣家は滅亡となりました。その鐘が今も残っているのです。
1585年(天正13年)に、関白に就任した豊臣秀吉は翌年の1586年(天正14年)、奈良東大寺にならって大仏の造立を発願し、東福寺の近傍でその工事を始めましたが、ほどなくして工事は中止となり、六波羅のこの地に寺地を変更して工事を再開。1595年(文禄4年)に大仏殿が完成。高さ18㍍の木製金漆塗の大仏坐像が安置されました。ところが、1596年(慶長元年)の「慶長伏見地震」により大仏が大破し、1598年(慶長3年)に秀吉も世を去ってしまい、そのあと、子である豊臣秀頼が金銅に変えて大仏の復興を行い、途中、鋳造中の大仏から出火して大仏殿もろとも炎上するという困難を乗り越え、1612年(慶長17年)に大仏を事実上完成させました。徳川政権下でも大仏殿は維持されましたが、1798年(寛政10年)に落雷で焼失し、再建されませんでした。
ちなみに島津藩は屋久杉のウィルソン株を持って来たそうで、この丸い石の何処かに使われたようです。そして、大仏は高さが19㍍もあって、現在の奈良の大仏より4㍍高かった。この模様をブラタモリでは、風船を上げて実験されてましたね。
大仏が西向きに安置されていたので、その名残でしょう。目的に行く前に、タモリさんも寄られた「甘春堂 東店」に寄って行きます。
ここから歩いて5分ぐらいの洛東遺芳館に向かいます。場所は、一度訪れてますが、随分前のことで、地図を頭に入れて来ました😊。
この記事へのコメント
豊国神社へは行って、隣の方広寺鐘銘も何度か見ています。
ですが、大仏殿跡緑地公園は知らなかった。
ここに建っていたのですね。大変興味深いです。
実物が残っていたら、見てみたいですよね。間違いなく京都の名所のひとつになっていたはず。今は、甘春堂 東店で、大仏餅を食べながら想像することしかできないのですね。
ブラタモリでタモリさんが行かれて、久しく行って無いなぁと思い、来て見ました。
あそこに、奈良の大仏より大きい大仏さんが京都にあったんです。
来年の京の冬の旅では、方広寺や豊国神社が特別公開されます。私は、何度か行っているので、多分行きません。
NHK大河の豊臣兄弟!の関連なんでしょう。
三十三間堂も、11月の連休にライトアップされ、凄く賑わったようです。