臨済宗相国寺派 大本山 相国寺「秋の特別拝観」へ
臨済宗相国寺派 大本山 相国寺では「秋の特別拝観」として、9月25日(木)~12月14日(日)の期間、始まりました。昨年は、2024年(令和6年)11月28日(木)に行って、綺麗な紅葉を見ているので、今年は行くつもりにしてませんでしたが・・・。
秋の特別拝観の内容を見ると、法堂内にある「花天井」が初めて公開されるとあって、京都府立植物園から車で5分程度で行けるので、寄ってみようかなぁと思いきてみたわけです。
相国寺北門近くにあるコインパーキングはに9時59分に入れ、「北門」から相国寺の境内に入りました。

10時6分頃に方丈前にある拝観受付所に行き、拝観料は1000円で、昨年より200円値上げされました😊。
こちらの写真は2019年(令和元年)11月21日(木)のコピペです😊。法堂に入ると、職員さんより案内がありますが断りました。私は、先ず天井の「蟠龍図(狩野光信作)」“鳴き龍”の前で手を叩き、その反響音を聞ききました。
そして、堂内の須弥壇に、本尊の釈迦如来坐像を迦葉尊者と阿難尊者を脇侍として祀られているので、お賽銭をしてからお参りし、案内にしたがって、堂内の東側にある「花天井」を初めて見ました。ライトに照らされているので綺麗に見えましたね。
相国寺の法堂は、1605年(慶長10年)に豊臣秀頼が再建。相国寺と深い縁を持つ江戸時代の画家伊藤若冲(いとうじゃくちょう)らなど多くの位牌が祀られている。日牌(にっぱい)と月牌(がっぱい)の天井には、明治時代初期に描かれたと伝わる四季折々の草花や鳥が描かれています。相国寺の法堂は、現存最古かつ最大級の法堂建築。「無畏堂(むいどう)」とも呼ばれる。天井には狩野光信筆の「蟠龍図」が描かれ、「鳴き龍」として知られる。


法堂から戻ると、次に「方丈(本堂)」に上がります。なお、方丈内は撮影禁止とありました。
ご覧のように、「竹の間」から室内を見て行きます。余談ですが、方丈に戻る前に、修学旅行生が60名スタンバイされてました。こんなに大勢来られても・・・。
私が受付を行くと、先生か添乗員さんか分かりませんが、○○学校の60名と言われてました。まだ、この時は生徒さんの姿は見えてませんでしたが。学校名は分かりました。どうも関東の高校のようです。どうも、30名が方丈へ、30名が開山堂に行かれるような話しされてましたね。
現在の方丈は、1807年(文化4年)に開山堂や庫裏と供に再建された。方丈は住職の居室を指すが、この建物は東西25㍍、南北15㍍、6間168畳の「大方丈」である。室中には、本尊の「法華観音像」が掛かる。また、江戸時代後期の京都画壇で原派の祖となった原在中の「中国補陀洛山の図」、相国寺第115世維明周奎(いめい しゅうけい)禅師の「老梅図」をはじめ、それぞれの部屋に大作の襖絵が残る。扁額「方丈」は、中国南宋の書家張即之筆によるもの。




「表方丈庭園」です。この庭は白砂敷きの枯山水庭園で、禅の境地「無」を表現している。白砂は太陽の反射を利用し室内を明るくし、法堂の姿を立派に浮き立たせる効果もあるそうです。
「竹の間」は、玉潾(ぎょくりん)和尚筆の「竹林図」。1807年(文化4年)の作。玉潾(ぎょくりん)和尚は近江国の僧。王翁の法弟で、永観堂で知られる禅林寺の画僧。墨石堂と号した。墨竹を得意としたよう。
「室中の間」の本尊は、「観世音菩薩(法華観音)図」で、加藤信清筆の文字絵。襖絵は、原在中筆の、中国「補陀洛山の図」。1819年(文政2年)の作。
原在中は、江戸時代後期の絵師。石田幽汀、円山応挙らに師事し、伊藤若冲、池大雅、与謝野蕪村、曾我蕭白らと同時代に京都画壇において活躍した。風景画、人物画、動物画などあらゆる内容を得意とし、文化・文政期に御用絵師として相国寺をはじめとする大寺院や京都御所などの障壁画を多く描いた。
この扁額「方丈」は、前途したとおり中国南宋の書家張即之(ちょうそくし)筆によるものです。
「梅の間」は、維明周奎(いしんしゅうけい)禅師筆の、「老梅の図」。方丈西側の奥にある杉戸絵は、原在中筆の「白象図」(複製)です。
維明周奎は、相国寺第115世住持。若狭国出身。伊藤若冲について画を学び、特に梅を描けば天下第一と言われたほどの名手で、多くの梅画を残した。池大雅、与謝野蕪村ととも親交があったため、相国寺には残る近世絵画は禅師の交友に負うことが大きい。


次に順路に従って方丈(本堂)の西側から裏手に回ります。表の白砂庭園から苔の庭に変わりました。



「方丈裏亭庭園」(京市市指定名勝)。表方丈庭園とは対象的に、手前を谷川に見立てて掘り下げ、対岸には築山を設け、深山幽谷の雰囲気を感じさせる。
ここも室内を見て回ります。左から「琴棋書画の間」、「御所移しの間」、「聴呼の間」の襖絵がありますが、残念ながら撮影禁止です。
「琴棋書画(きんきしょうが)の間」で、襖絵は原在中筆、「琴棋書画の図」。1819年(文政2年)の作。中国文人のあいだで士君子(学問に通じ徳の高い人)の教養、嗜みとされる琴棋書画は、風流韻事(ふうりゅういんじ)の代表とされていた。琴棋書画とは、中国琴(古琴)、囲碁、書道、絵画のことである。
「御所移しの間」で、襖絵が土佐派の土佐光起筆、「吉野山 桜の図」。御所の清涼殿より拝領した襖絵は、山々のまろみ、桜や檜の優しさが見事に表現された絵。作者は、江戸時代の初期に土佐派を復興した土佐光起と伝わる。また、通称「長棒駕籠」の展示あって、相国寺歴代住持専用の高級仕様。住持は御所へ参内したときに使用されたとも伝わる。
「聴呼(ちょうきょ)の間」で、襖絵は原在中筆の「仙人の図」。1819年(文政2年)作。住職が、その日の予定などを告報するために使用する部屋。襖には、中国の道教思想をもとにした、仙人が描かれている。



方丈の東側にも箱庭があって、そこから元の表方丈庭園に出ました。そこで相国寺の御朱印お願いしました。
朱印帳の直書きして貰えるので、いただくまでに方丈の縁側に座って待ってました。
相国寺方丈の御朱印は、「無畏堂(むいどう)」と書かれています。本来、お堂や法堂は、畏れることなく法を聞くという意でしょう。
10時23分に「開山堂」に向かいました。着いてみて驚いたことに、靴の置き場が無いほど。前途した学生さんが先に入ってました。
開山堂は、相国寺勧請開山の夢窓疎石(夢窓国師)の木像を正面中央最奥に安置しているお堂で、特にその箇所を開山塔(円明塔)または祠堂とも呼び、師弟のつながり重んじる禅宗では、境内で最も神聖かつ大切な場所である。14世紀後半に創建され、元は崇寿院と称したが、数回の火災、戦禍により焼失。現在の建物は、1807(文化4年)に桃園天皇(第116代天皇)皇后の恭礼門院の黒御殿を拝領して移築し開山堂に改めたもので、入母屋造り、前に広縁、三方に落緑をもち、高欄を備え、内部と共に御殿の様式を今にとどめている。夢窓国師像前面左右には脇壇があり、西壇には右から無学祖元禅師(仏光国師)、高峰顕日禅師(仏光国師)、春屋妙葩禅師(普明国師)の各祖師像と相国寺開基てある足利義満像を、東壇には相国寺の創建や再建に功績があった後小松天皇(北朝第6代天皇)、後水尾天皇(第108代天皇)の位牌や桂宮歴代像などを安置している。内部には円山応挙の襖絵もある。2007年(平成19年)に、京都府指定文化財に登録された。
普段は、入口でチケットを見せますが、さすがに大人数が入っているので、誰も居ません。そして、庭園を見るのも足の踏み場がありません。




学生さんに退いてもらって、「開山堂前庭」だけ撮らして貰いました。そして、お参りするのも退いて貰うことに。
手前が白砂敷きの枯山水、奥部が軽くなだらかな苔地築山で、奇岩を配し樹木が植えられており、その巧みな調和の美しさが特徴である。このような二様の庭が一体となっているのは、禅宗寺院では珍しい。また、庭の水路は「龍淵水(りゅうえんすい)」と呼ばれており、創建当時は相国寺境内の水路「碧玉溝(へきぎょくこう)」に通じて鴨川の水を後用水として皇居に流していた。この「龍淵水」は「相国寺十境」に数えられている。
こちらが開山堂の御朱印です。「圓明」と書いてあります。開山夢窓国師を祀る開山堂を「圓明塔」と称します。
ここを出るとき、職員さんに「団体さんが入って申し訳なかったです」と。ホント、狭い開山堂に30名も入ったら、歩くのもままならないほど。退いて貰うのも気の毒やしね。かろうじて夢窓疎石(夢窓国師)木像は、見えました😊。

開山堂を出て、駐車場に戻るのを遠回りにして「法堂」を正面から見ました。
行きと同様に北門から出る手前で、遠くに「比叡山」が見えました。植物園で見た比叡山が小さくなりましたね😊。
「くるっとパーク相国寺門前町」に戻り、精算すると9時59分~10時40分、200円でした。帰りに金閣寺の前を通ると、相変わらず大混雑の様子。バス停も大行列だし、あれでは地元の人乗れないですね。ここから近くの「くら寿司 金閣寺店」で食事を済ませて帰りました。くら寿司まで大半が外国人観光客でした。日本のガイドさんが連れてこられたようでした。
秋の特別拝観の内容を見ると、法堂内にある「花天井」が初めて公開されるとあって、京都府立植物園から車で5分程度で行けるので、寄ってみようかなぁと思いきてみたわけです。
こちらの写真は2019年(令和元年)11月21日(木)のコピペです😊。法堂に入ると、職員さんより案内がありますが断りました。私は、先ず天井の「蟠龍図(狩野光信作)」“鳴き龍”の前で手を叩き、その反響音を聞ききました。
そして、堂内の須弥壇に、本尊の釈迦如来坐像を迦葉尊者と阿難尊者を脇侍として祀られているので、お賽銭をしてからお参りし、案内にしたがって、堂内の東側にある「花天井」を初めて見ました。ライトに照らされているので綺麗に見えましたね。
相国寺の法堂は、1605年(慶長10年)に豊臣秀頼が再建。相国寺と深い縁を持つ江戸時代の画家伊藤若冲(いとうじゃくちょう)らなど多くの位牌が祀られている。日牌(にっぱい)と月牌(がっぱい)の天井には、明治時代初期に描かれたと伝わる四季折々の草花や鳥が描かれています。相国寺の法堂は、現存最古かつ最大級の法堂建築。「無畏堂(むいどう)」とも呼ばれる。天井には狩野光信筆の「蟠龍図」が描かれ、「鳴き龍」として知られる。
私が受付を行くと、先生か添乗員さんか分かりませんが、○○学校の60名と言われてました。まだ、この時は生徒さんの姿は見えてませんでしたが。学校名は分かりました。どうも関東の高校のようです。どうも、30名が方丈へ、30名が開山堂に行かれるような話しされてましたね。
現在の方丈は、1807年(文化4年)に開山堂や庫裏と供に再建された。方丈は住職の居室を指すが、この建物は東西25㍍、南北15㍍、6間168畳の「大方丈」である。室中には、本尊の「法華観音像」が掛かる。また、江戸時代後期の京都画壇で原派の祖となった原在中の「中国補陀洛山の図」、相国寺第115世維明周奎(いめい しゅうけい)禅師の「老梅図」をはじめ、それぞれの部屋に大作の襖絵が残る。扁額「方丈」は、中国南宋の書家張即之筆によるもの。
「竹の間」は、玉潾(ぎょくりん)和尚筆の「竹林図」。1807年(文化4年)の作。玉潾(ぎょくりん)和尚は近江国の僧。王翁の法弟で、永観堂で知られる禅林寺の画僧。墨石堂と号した。墨竹を得意としたよう。
「室中の間」の本尊は、「観世音菩薩(法華観音)図」で、加藤信清筆の文字絵。襖絵は、原在中筆の、中国「補陀洛山の図」。1819年(文政2年)の作。
原在中は、江戸時代後期の絵師。石田幽汀、円山応挙らに師事し、伊藤若冲、池大雅、与謝野蕪村、曾我蕭白らと同時代に京都画壇において活躍した。風景画、人物画、動物画などあらゆる内容を得意とし、文化・文政期に御用絵師として相国寺をはじめとする大寺院や京都御所などの障壁画を多く描いた。
維明周奎は、相国寺第115世住持。若狭国出身。伊藤若冲について画を学び、特に梅を描けば天下第一と言われたほどの名手で、多くの梅画を残した。池大雅、与謝野蕪村ととも親交があったため、相国寺には残る近世絵画は禅師の交友に負うことが大きい。
「琴棋書画(きんきしょうが)の間」で、襖絵は原在中筆、「琴棋書画の図」。1819年(文政2年)の作。中国文人のあいだで士君子(学問に通じ徳の高い人)の教養、嗜みとされる琴棋書画は、風流韻事(ふうりゅういんじ)の代表とされていた。琴棋書画とは、中国琴(古琴)、囲碁、書道、絵画のことである。
「御所移しの間」で、襖絵が土佐派の土佐光起筆、「吉野山 桜の図」。御所の清涼殿より拝領した襖絵は、山々のまろみ、桜や檜の優しさが見事に表現された絵。作者は、江戸時代の初期に土佐派を復興した土佐光起と伝わる。また、通称「長棒駕籠」の展示あって、相国寺歴代住持専用の高級仕様。住持は御所へ参内したときに使用されたとも伝わる。
「聴呼(ちょうきょ)の間」で、襖絵は原在中筆の「仙人の図」。1819年(文政2年)作。住職が、その日の予定などを告報するために使用する部屋。襖には、中国の道教思想をもとにした、仙人が描かれている。
相国寺方丈の御朱印は、「無畏堂(むいどう)」と書かれています。本来、お堂や法堂は、畏れることなく法を聞くという意でしょう。
開山堂は、相国寺勧請開山の夢窓疎石(夢窓国師)の木像を正面中央最奥に安置しているお堂で、特にその箇所を開山塔(円明塔)または祠堂とも呼び、師弟のつながり重んじる禅宗では、境内で最も神聖かつ大切な場所である。14世紀後半に創建され、元は崇寿院と称したが、数回の火災、戦禍により焼失。現在の建物は、1807(文化4年)に桃園天皇(第116代天皇)皇后の恭礼門院の黒御殿を拝領して移築し開山堂に改めたもので、入母屋造り、前に広縁、三方に落緑をもち、高欄を備え、内部と共に御殿の様式を今にとどめている。夢窓国師像前面左右には脇壇があり、西壇には右から無学祖元禅師(仏光国師)、高峰顕日禅師(仏光国師)、春屋妙葩禅師(普明国師)の各祖師像と相国寺開基てある足利義満像を、東壇には相国寺の創建や再建に功績があった後小松天皇(北朝第6代天皇)、後水尾天皇(第108代天皇)の位牌や桂宮歴代像などを安置している。内部には円山応挙の襖絵もある。2007年(平成19年)に、京都府指定文化財に登録された。
手前が白砂敷きの枯山水、奥部が軽くなだらかな苔地築山で、奇岩を配し樹木が植えられており、その巧みな調和の美しさが特徴である。このような二様の庭が一体となっているのは、禅宗寺院では珍しい。また、庭の水路は「龍淵水(りゅうえんすい)」と呼ばれており、創建当時は相国寺境内の水路「碧玉溝(へきぎょくこう)」に通じて鴨川の水を後用水として皇居に流していた。この「龍淵水」は「相国寺十境」に数えられている。
こちらが開山堂の御朱印です。「圓明」と書いてあります。開山夢窓国師を祀る開山堂を「圓明塔」と称します。
「くるっとパーク相国寺門前町」に戻り、精算すると9時59分~10時40分、200円でした。帰りに金閣寺の前を通ると、相変わらず大混雑の様子。バス停も大行列だし、あれでは地元の人乗れないですね。ここから近くの「くら寿司 金閣寺店」で食事を済ませて帰りました。くら寿司まで大半が外国人観光客でした。日本のガイドさんが連れてこられたようでした。
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