北嵯峨にある隠れ紅葉の名所 浄土宗 祥鳳山 直指庵へ
コロナ禍まで常時拝観されていた浄土宗 祥鳳山 直指庵は、秋の紅葉の時期に嶽公開されるようになって、昨年は2024年(令和6年)11月25日(月)に行きました。今年は、11月23日(日)~12月1日(月)の日程で公開されました。
今年は、いつ公開されるのか直指庵のHPを度々見ていたところ、なかなか日程が出なかったです。そして、気づいたときには公開中となってて、いろいろ考えた結果、最終日の12月1日(月)に行くこととしました。
直指庵には駐車場が無いので、徒歩で行くしかありません。自転車やパイクで来られる方もいるでしょう、私は歩いて向かいます。
北嵯峨の山間にある直指庵は、過去何度か行っているので、迷うことはありません。開門時間の10時に間に合うようにと向かいました。

このとき、9時50分でしたが、まだ「山門」は閉まったままです。ところが、このあと開門されました。

私は行ったことがありませんが、この先を歩いて行くと、嵐山高雄パークウェイ内にある「菖蒲谷池」に出られるかも知れません。


9時52分に「山門」から入ました。先に2名入られていくのを遠くから見えてました。
拝観料は500円。紅葉が見頃が続くと予想されているのでしょう、12月1日(月)までを、12月6日(土)と12月7日(日)も開門されるようです。



先の方が何処に行かれたのか分かりませんが、私は本堂を目指します。それより紅葉は昨年より断然綺麗です。





今年は、赤色が鮮やかです。昨年は色づきが遅かったからでしょう。先ずは「玄関」でくつを脱いで上がります。


外の紅葉を見る前に、ご本尊の「阿弥陀如来坐像」が中央に安置。あと知恵の「文殊菩薩」、右手には、あらゆる願いをかける「地蔵菩薩像」が安置されていたので、お賽銭をしお参りさせて貰いました。
今年は、窓硝子が閉まったままで、そこだけ残念でした。ただ、紅葉がガラスに反射していたのも綺麗です。
本堂を出て、玄関から見た紅葉です。赤色や黄色のグラデーションや、散り始めた紅葉も見応えあります。



次に「愛逢い地蔵」があって縁結び、恋愛成就が御利益のようです。ただ散りモミジが地面一面に散らばってて大変綺麗です。

こちらは、入口で貰った由緒書には、「二河白道(にがびゃくどう)の庭」と書いてありました。あまり手入れされてない枯山水庭園のようです。
この奥に「書院」でしょうか、建物があって、昨年はガラス戸でしたが、今年は閉まっています。

この池には案内があって、モリアオガエル(天然記念物)が、初夏から夏にかけて、池の周囲の樹木に白い泡状の卵を産み付けるようです。
この建物は「待合」です。この先に後に行くことにして、左手の坂を上がり開山堂に向かいます。
階段の途中に碑があって、「与謝野晶子の碑」でした。「夕ぐれを 花にかくるる小狐の にこ毛にひびく 北嵯峨の鐘」。



上がった先にあったのは「開山堂」です。この日の扉は閉まってますが、2010年(平成22年)5月4日の時は開いてました。手前には「亀石」があります。
直指庵を開いた独照性円(どくしょうしょうえん)禅師の墓所。宝形造りの堂の中央に墓を示す大円塔がある。堂前の巨石は独照自らが「出でて吾が塔を護る・・・」と序した亀石である。


登って良かったです。「」の周りの紅葉が赤く染まってて、見頃に来られて良かったです。



この「待合」では座って休憩できます。ただ、空いている間に、回りきります。




水子地蔵の祠の手前に、「津崎村岡局の墓」がありました。大覚寺 大沢池には顕著碑、嵐山 亀山公園には胸像があります。
津崎矩子(つざきのりこ)は1786年(天明6年)嵯峨に生まれ、父は津崎左京。近衛忠煕に仕え村岡局(むらおかのつぼね)と名乗る。1853年(嘉永6年)ペリーの来航とともに幕末の政局は俄に慌ただしくなり、近衛卿は尊王攘夷派の公家として頭角を現した。局は、僧月照(げっしょう)や水戸の鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)らと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たり、特に、近衛卿や西郷隆盛らの運動を助け活躍した。このため、1858年(安政5年)、井伊直弼による「安政の大獄」が起こると、局も捕えられて江戸に送られ、永の慎に処せられた。その後、近衛家を辞して北嵯峨の直指庵に隠居、付近の子女の教育に尽くした。村岡局は維新の女傑といわれているが、晩年は子女の教育に尽くし嵯峨庶民の慈母でもあった。1873年(明治6年)に88歳で没した。


この「水子地蔵」の左手の奥に行けたんですが、昨年は、分からずに引き返してしまいました。それで心残りがありましたね。




この奥に「思い出草観音像」がありました。ここに至るまで紅葉も綺麗だったので、昨年何故、気づかないかったのかなぁ。
今年は「思い出草ノート」は置かれませんでしたが、通常拝観の時はありました。私は書かなかったけど妻は書いていたように記憶しています。その思い出草ノートを綴った苦しみや悲しみ等の一切の苦を救って貰える観音様だそうです。



「思い出草観音像」から下ります。ここは、ずっと以前通ったことがあって久しぶりに来ました。


こちらは「阿弥陀堂」で非公開です。最近は公開されません。ずっと以前、一度だけ入りました。




阿弥陀堂には、阿弥陀如来坐像(胎内に惠心御作と有)が、安置されていたように記憶しています。その時、寺宝も見られました。






まだ出るのは早いかっので、ここから上ると先の「待合」に出ました。この日は、気温が19.4℃まで上がったほど暑かったので、ここでしばし休憩をしました。
ここから本堂の方向を見ると、奥の方がカメラを構えて、こちらを向いています。遠慮しながら帰るため向かいました。
本堂の前から出口に向かって下りました。ここも昨年は見逃したところです。

ここから見上げて「本堂」を撮りました。多分、多くの方が入られているでしょう、ただガラス戸があるので見えません。
こちらがトレイでした。帰りも歩いて帰るので借りました😊。







今年は記録的な猛暑でした。あの暑い夏のときに、紅葉なんて考えられなかったのに、こうしてモミジは赤く色づきました。






10時24分に「山門」から出ました。この日で拝観が終わる予定が、週末の土曜日と日曜日に開門されるようです。ただ紅葉が持つかどうか分かりません。
用事があったので、大覚寺バス停から京都バスに乗りました。今日から交通規制が解除され、通常に戻ったので、中辻通りは混雑してました。バスが離合できなくて、嵐電嵐山駅まで乗りましたが、結構時間かかりました。嵐山の紅葉は色褪せと出てましたが、人出は半端なく多かったです。
今年は、いつ公開されるのか直指庵のHPを度々見ていたところ、なかなか日程が出なかったです。そして、気づいたときには公開中となってて、いろいろ考えた結果、最終日の12月1日(月)に行くこととしました。
拝観料は500円。紅葉が見頃が続くと予想されているのでしょう、12月1日(月)までを、12月6日(土)と12月7日(日)も開門されるようです。
直指庵を開いた独照性円(どくしょうしょうえん)禅師の墓所。宝形造りの堂の中央に墓を示す大円塔がある。堂前の巨石は独照自らが「出でて吾が塔を護る・・・」と序した亀石である。
津崎矩子(つざきのりこ)は1786年(天明6年)嵯峨に生まれ、父は津崎左京。近衛忠煕に仕え村岡局(むらおかのつぼね)と名乗る。1853年(嘉永6年)ペリーの来航とともに幕末の政局は俄に慌ただしくなり、近衛卿は尊王攘夷派の公家として頭角を現した。局は、僧月照(げっしょう)や水戸の鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)らと親交を持ち、志士相互及び志士と公家との連絡に当たり、特に、近衛卿や西郷隆盛らの運動を助け活躍した。このため、1858年(安政5年)、井伊直弼による「安政の大獄」が起こると、局も捕えられて江戸に送られ、永の慎に処せられた。その後、近衛家を辞して北嵯峨の直指庵に隠居、付近の子女の教育に尽くした。村岡局は維新の女傑といわれているが、晩年は子女の教育に尽くし嵯峨庶民の慈母でもあった。1873年(明治6年)に88歳で没した。
今年は「思い出草ノート」は置かれませんでしたが、通常拝観の時はありました。私は書かなかったけど妻は書いていたように記憶しています。その思い出草ノートを綴った苦しみや悲しみ等の一切の苦を救って貰える観音様だそうです。
用事があったので、大覚寺バス停から京都バスに乗りました。今日から交通規制が解除され、通常に戻ったので、中辻通りは混雑してました。バスが離合できなくて、嵐電嵐山駅まで乗りましたが、結構時間かかりました。嵐山の紅葉は色褪せと出てましたが、人出は半端なく多かったです。
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