元禄の俳人向井去来の遺跡 落柿舎へ
化野念仏寺から愛宕街道を下り、二尊院の前に来てみました。すっかり紅葉は散ってしまい総門から見ただけですが、誰も居ないように思えました。その二尊院を通過し、当初は小倉山荘 嵯峨落柿舎前店に行くつもりでした。
お正月に向けて買い物をするつもりでしたが、開店前には遠くから見ても10㍍ぐらいの行列ができていて、並んでまで買い物をする気は無いので、予定を変更し元禄の俳人向井去来の遺跡である落柿舎に寄っていくことにしました。

9時54分に着いてみると「表門」が閉まってまま。9時30分開庵と思い来てみたので、この前で待つことに。

最近では2024年(令和6年)5月24日(金)に来てたりして何度も入ってますが、落柿舎の名前のとおり、今にも柿の実が落ちそうになってましたね。

10時になっても門が開かなかったので心配しましたが、10時2分に開きました。この2分は長く感じました。
落柿舎は、蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人、向井去来の閑居(かんきょ)の跡として知られている。当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちに、殆ど落ち尽くすことに。かねて庭の柿を買約中たった商人を気の毒に思った去来は、柿の代金を全額返してやったのが、落柿舎の名の由来である。松尾芭蕉も晩年、三度も来庵を訪れ、落柿舎を拠点として嵯峨嵐山の名所名刹を巡ったことは名作「嵯峨日記」として遺されている。去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学ぶ、その芭蕉をして、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と言わしめたと伝わる。かつて武人であった去来は、極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであったと。茅葺きの草庵の玄関には、主の在宅を告げた蓑と笠がかけられ、そのたたずまいが、嵯峨野ののどかな風景にとけ込んでいる。
入庵料は300円。受付の方に「柿が落ちてくるので注意してください」と案内されました😊。


今日は天気が良いので、先ずは重要文化財に指定されている「本庵」の縁側に腰を下ろし休憩します。
受付で、「縁側に座って一句捻って」と言われたんですが、才能が無いのか全然浮かびません😊。MBS毎日放送の「プレバト」では、間違い無く「才能無し」でしょう😊。
そこで、庵内の句碑を巡ります。最初は①の「向井去来句碑」から。「柿主(かきぬし)や梢(こずえ)はちかきあらし山」で、1772年(安永元年)に建立された洛中第一に古い句碑と言われています。

本庵は正面から太陽の光を浴びるので眩しすぎます。それで奥に行くと、今にも落ちそうな柿の実がありました。

本庵から次庵に行く前に石碑巡りです。③「高浜虚子句碑」「凡(およ)そ天下に去来ほどの小さき墓に詣(まい)りけり」。虚子の生前最後の自筆句碑だそうです。
その横には④「昭憲皇太后(第122代明治天皇の皇后)句碑」「加茂川のはやせの波のうちこえしことばのしらべ世にひびきけり」でした。
次庵に行く前の最後句碑は②「松尾芭蕉句碑」「五月雨(さみだれ)や色紙へぎたる壁の跡(あと)」で、芭蕉が「嵯峨日記」の最後にしるした句です。
芭蕉の句碑の奥、こちらは句碑ではありません。⑤「釋瓢斎供養塔」。落柿舎の昭和復興に功のあった十世庵主の永井瓢斎(ながいひょうさい)の供養塔です。


次に「次庵」に移動します。目立たない見つけにくい句碑ですが⑧「保田與重郎句碑」「何もない庭の日ざしや冬来る」。昭和の文人保田與重郎の句。
その向かいにあった句碑が⑦「平澤興句碑」「春の雨天地(あめつち)ここに俳人塔」。平澤興は元京大総長、前途した俳人塔竣工祭の折り作品。
右横には⑥「俳人塔」。1970年(昭和45年)に十一世庵主工藤芝蘭子(くどうしらんし) が、過去・現在・未来も含めた俳人供養のために建立したもの。

次も目立たない所にあります。⑨「工藤芝蘭子句碑」「十三畳半の落柿舎冬支度(ふゆじたく)」。工藤芝蘭子は落柿舎十一世庵主。永井瓢斎(ながいひょうさい)の志を継ぎ、堂島の相場師から一転、私財を投じて戦後の落柿舎の再建に尽力しました。

奥に進み⑩「山鹿栢年句碑」「草の戸やわが名月の山はなれ」。山鹿栢年(やまがはくねん)は落柿舎八世庵主。近代における落柿舎復興の営みは明治の栢年より始まったといいます。この句は1876年(明治9年)落柿舎退庵の折り作品。

さらに奥には⑪「下平可都三(しもだいらかつみ)句碑」「草の戸やわが名月の山はなれ」がありました。


この柿の実が撮れて良かったです。落柿舎はさほど広く無いので本庵に戻ります。

散策してて見つけた「マンリョウ(万両)」と「シママンギク」でしょう。


良い俳句が浮かんだら、ここに投稿します。私は何も浮かばなかった・・・。


再び「本庵」まで戻って、縁側に腰を下ろします。その間に二組の方が入って来られました。
そして、外国人観光客が入って来られ、受付の方と英語と話されていたので詳しいことは分かりませんが、先ずは受付で呼び止められ、料金を払うように言われたようです。そして本庵に上がれるかどうか聞かれて、上がれないと言われると拝観料を払わずに出て行かれました。英語は分かりませんが、多分間違いないようです😊。





今日は「おくどさん」には入れなかったです。ここに座っていると、入って来られた方が、本庵にあがれないのかと残念がってましたね。
10時18分に「表門」から出ました。ここの対面にある「小倉山荘 嵯峨落柿舎前店」を見ると、行列はもっと伸びてました。



ここを出て、行列が解消されていたら行くつもりでしたが、断念しました。何がバズったでしょうか。

落柿舎の開門前に、受付の方が鍵を開けに行かれたので、帰りに寄ってみました。ここで休憩をできるようですが、他には何もありません。
紅葉も散ったのに、相変わらず外国人観光客ばっかりです。日本人観光客は、ほぼ見なかったです。今日は、これで帰りました。
お正月に向けて買い物をするつもりでしたが、開店前には遠くから見ても10㍍ぐらいの行列ができていて、並んでまで買い物をする気は無いので、予定を変更し元禄の俳人向井去来の遺跡である落柿舎に寄っていくことにしました。
落柿舎は、蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人、向井去来の閑居(かんきょ)の跡として知られている。当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちに、殆ど落ち尽くすことに。かねて庭の柿を買約中たった商人を気の毒に思った去来は、柿の代金を全額返してやったのが、落柿舎の名の由来である。松尾芭蕉も晩年、三度も来庵を訪れ、落柿舎を拠点として嵯峨嵐山の名所名刹を巡ったことは名作「嵯峨日記」として遺されている。去来は長崎の生まれ、芭蕉に師事して俳諧を学ぶ、その芭蕉をして、「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と言わしめたと伝わる。かつて武人であった去来は、極めて篤実真摯な人柄で、芭蕉に仕えるさまは、ちょうど親に対するようであったと。茅葺きの草庵の玄関には、主の在宅を告げた蓑と笠がかけられ、そのたたずまいが、嵯峨野ののどかな風景にとけ込んでいる。
受付で、「縁側に座って一句捻って」と言われたんですが、才能が無いのか全然浮かびません😊。MBS毎日放送の「プレバト」では、間違い無く「才能無し」でしょう😊。
そして、外国人観光客が入って来られ、受付の方と英語と話されていたので詳しいことは分かりませんが、先ずは受付で呼び止められ、料金を払うように言われたようです。そして本庵に上がれるかどうか聞かれて、上がれないと言われると拝観料を払わずに出て行かれました。英語は分かりませんが、多分間違いないようです😊。
紅葉も散ったのに、相変わらず外国人観光客ばっかりです。日本人観光客は、ほぼ見なかったです。今日は、これで帰りました。
この記事へのコメント