東本願寺の飛び地にある国の名勝 渉成園(枳殻邸)の「梅林」へ
3月9日(月)の最低気温は0.2℃と、このところ高温傾向が続いていただけに寒さが堪える朝でした。この日は、東本願寺の飛び地にある国の名勝に指定されている渉成園(枳殻邸)の梅の花を見てきました。
渉成園(枳殻邸)には、2025年(令和7年)9月3日(水)に来て以来です。その日も車で向かいましたが、今日も車で来ました。事前に調べて渉成園(枳殻邸)内にある駐車場は利用できないので、提携先のタイムズ渉成園のコインパーキングに、8時59分止めることができました。このコインパーキングは、40分以内では無料となります。

9時1分に西門から入り拝観受付所に行くと、タイムズ渉成園に止めたことを証明するものが必要だと言うことで、再び駐車場に戻り教えて貰ったとおり証明書を出して受付へ。
拝観料は庭園維持寄付金として700円を納めます。2025年(令和7年)9月3日(水)の「第50回記念 京の夏の旅 燕申堂」に来たときは、猛烈な猛暑でしたが、この日の最高気温は11.7℃までしか上がらず寒い中の散策となりました。

いったん駐車場に戻ったので、入るのが遅れました。順路に従って進むと、最初に見るのが「高石垣」です。石橋のような長い切石や、礎石、石臼、山石や瓦など多様な素材を組み合わせて築かれているのが分かります。
次に注目するのが「大玄関」で、1884年(明治17年)に、大宮御所から移築されました。
1880年(明治13年)に明治天皇が京都に来られ、渉成園で休息された際、東本願寺の宮御殿とともに大宮御所から移築を約され、後に移築されたもの。2024年(令和6年)1月22日(月)の第58回 京の冬の旅で園林堂が特別公開された際には、ここから入りました。


次に門をくぐって最初に見るのが、非公開の茶室「漱枕居(そうちんきょ)」です。1865年(慶応元年)の再建。珍しく入口が開いてて内部が垣間見えました。
印月池(いんげつち)の西南に位置し、水上にのりだすよに建てられています。四畳半に三畳敷の続く座敷と土間からなり、三畳の東には左右に手摺付の縁があります。

ここから「印月池(いんげつち)」を見ました。「池泉回遊式庭園」の中心となる広い園池です。東山から上る月影を水面に映して美しいことから、この名が付けられました。




この辺りは「双梅檐(そうばいえん)」といい、紅梅・白梅が20株ほど植えられた梅林です。梅の花は、見頃でしたね。
双梅檐の「檐」とは「ひさし」の意味で、1864年(元治元年)の「禁門の変」(蛤御門の変)による焼失以前は、今より閬風亭(ろうふうてい)の規模が大きく屋根がこのあたりまでかかっていたことに由来する名前です。


非公開の「閬風亭(ろうふうてい)」です。2018年(平成30年)11月27日(火)の「ライトアップ」と2024年(令和6年)1月22日(月の「第58回 京の冬の旅」で入りました。
渉成園の中では、一番広い大広間。軒を深く差し出し、規模の大名建物ながら、穏やかな姿を見せる。室内は通常の書院造の間取りとは若干異なり、畳みを外せば能が演じられるようになっている。1880年(明治13年)7月14日な明治天皇が休息された場所。閬風とはも中国の崑崙山脈の頂部にあると言われる山の名前で、仙人が住むとされ、賓客を迎える大書院にふさわしい名前を付けられました。

「閬風亭(ろうふうてい)」の奥に行ってみると、二階建ての茶室「蘆庵(ろあん)」があります。通常非公開ですが、2017年(平成29年)の「 京の夏の旅」で内部が公開されました。(私は行ってません)
二階建ての茶室(煎茶席)です。階下は七畳で、西側に床をかまえ、二方に縁がついています。階上は主室四畳半に、通常の3/4の大きさの畳三畳の次の間を附しています。階上の窓から渉成園を一望できるようです。
露地庭園内に立つ、この石灯籠も忘れずに注目しました。「蘆庵(ろあん)の春日灯籠」といいます。
江戸時代初期の制作と伝わり、六角形の傘の屋根には降り積もった雪が刻みだされているのが特徴。
まだまだ奥に進みます。そこには「園林堂(おんりんどう)」がありました。非公開ですが、2024年(令和6年)1月22日(月)に「第58回 京の冬の旅」で内部に入りました。その時の入口が先に案内した「大玄関」だったわけです。
堂内に本尊阿弥陀遼来を安置する持仏堂が「園林堂」である。園林堂竣工時1957年(昭和32年)に板画家・棟方志功(むなかたしこう)の肉筆の襖絵44面が収められている。独特の大胆な構図と繊細な筆致で描かれた。「天に伸ぶ杉木(すぎき)」「河畔(かはん)の呼吸」と題した襖絵は圧巻。また、仏間の襖絵はには、ボタンの花が描いてて、それは東本願寺の寺紋がボタンの花だからのようです。「園林」とは、元来、中国宮廷に設けられた庭園の意であるが、仏典では「浄土」を表す表現として用いる。


次に「傍花閣(ぼうかかく)」に行くと、早咲きの桜でしょうか咲き始めていました。この辺りは渉成園 では桜が咲き誇るエリアです。
「傍花閣(ぼうかかく)」は帰りに寄ることにして、順路に従って「代笠席」(たいりつせき)に向かいます。その前に「亀の甲の井戸」がありました。以前貰っていたパンフには載っているですが、新しく貰ったパンフには記載されてません。
上から見ると亀の形に石組みが成され、亀の甲にあたる部分が掘り込まれて中心に井筒が埋められており井戸になっている。


「代笠席」(たいりつせき)に着きました。ここは奥まった所にあるので、分かりずらいのでしょう、先に入られた方も来られません。
南面に建つ煎茶席。代笠席とは、人里離れた地を訪れた旅人が「笠代わり」に雨宿りする席という意味だと考えられる。前面に間口が三間あり、深さ半間の土間と小縁が設けられ、内部は四畳半二室が東西に並ぶ。
「代笠席」(たいりつせき)を出ると、前方に「ニデック京都タワー」が見えました。ここは京都駅から歩いて10分ぐらいです。
ここから遠くに「侵雪橋(しんせつきょう)」が見えて、後程渡ります。京都駅から近いためでしょう、以前は見なかった外国人観光客多いです。

印月池北東岸に入り組んだ、入江の奥にある築山の石組みの「獅子吼(ししく)」まで来ました。小さな滝が流れてますね。
印月池の水源の一つで、古くは高瀬川の水が引かれていた。現在は地下水を汲み上げて、流れとしています。通常見られるような滝の石組みではなく、山腹から湧き出す泉のような形式に造られている点が、渉成園の中でも大変珍しい。
これから渡る「回棹廊(かいとうろう)」の手前に、高浜虚子と河東碧梧桐、そして句佛上人の句碑があります。「句佛」とは、東本願寺第23代である彰如上人の俳号だそうです。
「回棹廊(かいとうろう)」には、外国人観光客が居て、少し待ちました。写真は渡りきってから撮ることにします。

橋の途中から左手の対岸を撮りました。こちらは「紫藤岸(しとうがん)」と呼ばれ、印月池にせり出すように造られた藤棚があります。当初この藤は、野生であったと伝えられていますが、現在は棚が設けられています。

前途したとおり渡りきってから「回棹廊(かいとうろう)」を撮りました。1884年(明治17年)の再建です。
北大島と「丹楓渓(たんぷうけい)」とを結ぶ木橋。1858年(安政5年)の「安政の大火」における焼失以前は、朱塗りの欄干を持つ反り橋だったと伝わる。現在は檜皮葺の屋根を持つ橋と変わりました。中央の唐破風屋根の天井部には掛け釘が設けられ、かつては夜半の来客の折り、金灯籠を吊って火を灯した。
北大島に入り対岸の「丹楓渓(たんぷうけい)」を撮ってみました。ここは紅葉の名所で知られています。
回棹廊の北端から印月池北岸沿いの園路の両側に楓が植えられ、秋には見事な紅葉だそうです。「丹」とは朱色を表す語で、紅葉の美しい渓谷を模した一帯のことです。

北大島に入り、最初に注目したが、この石灯籠の「碧玉の石幢(へきぎょくのせきどう)」です。青味がかかってないのに何故「碧玉」と言うのかは分かってないそうです。
石幢というのは通常の石灯籠と違って、笠の部分に蕨手と呼ばれる竿に節が無いなどの特徴がある。火袋にあたる部分は平面が六角形の仏像を安置するための龕となっている。



印月池に浮かぶ北大島の小高い丘にある茶室「縮遠亭(しゅくおんてい)」に寄りました。正面から太陽の光を浴びるので写真は、これだけです。
西側の土間から奥に入ると茶室がり、四畳間が付く構成となっている。南端から斜めに続く板間を経て三畳敷の上段の間が連結れさ、上段は床を高く支えた舞台造りとなっている。通常非公開。
この茶室「縮遠亭(しゅくおんてい)」を少し下った先には、「塩釜の手水鉢(しおがまのちょうずばち)」があります。
六条河原院は、源融が宮城県塩釜市の風景を模して造成したと言われ、庭園には「塩釜の手水鉢」と呼ばれる筒型の鉢が残されている。石造宝塔の塔身を手水鉢に転用したもので、鎌倉時代の制作とみられる。
「塩釜の手水鉢」の向こうに、嵯峨天皇の皇子で、左大臣の源融ゆかりの「九重の塔」が建っています。
この塔は源融の供養塔といわれている九重の石塔で、塔身には四方仏が刻まれ、基礎の格狭間(こうざま)と呼ばれる部分には蓮華(れんげ)が彫刻されている。制作年代は鎌倉時代中期と推定されているが、九重目の本来の笠は失われ、宝筐印塔の笠で代用されている。渉成園が築造される以前から、このあたりに建っていたと伝えられている。また、築庭にあたって、宇治にある塔の島の景色を写したともいわれている。
ここから手前に「馬酔木(アセビ)」の花が、奥に「ニデック京都タワー」が垣間見えました。
印月池に浮かぶ「臥龍堂(がりゅうどう)(南大島)」を見ています。今はお堂は建っていません。
元来はこの島に建てられていた小さな鐘楼堂のことを指しました。この堂は二階建・瓦葺の建物で、かつては漱枕居に集まった茶会の客人に、縮遠亭へと船で向かう刻限を告げる鐘を鳴らしていたそうです。1858年(安政5年)の「安政の大火」による焼失以降、再建されませんでした。

印月池(いんげつち)の池畔に建つ、茶室「漱枕居(そうちんきょ)」の向こうにも「ニデック京都タワー」が見えました。
北大島から出るため、「侵雪橋(しんせつきょう)」と呼ばれる木橋を渡ってから撮りました。
印月池の西北岸から縮遠亭のある島へ渡る木造の反橋。頼山陽は、「渉成園記」のなかで雪の積もった橋のありさまを玉龍にたとえて表現している。
1892年(明治25年)に再建された珍しい楼門作りの「傍花閣(ぼうかかく)」(非公開)まで戻ってきました。
庭園内には珍しい楼門作りで、左右側面に山廊と呼ばれる階段の入口があり、階上には四畳半の部屋を設けている。部屋の天井中央には磁石板に十二支を配した珍しい図様が描かれている。奔放で軽快な構成と穏やかな数奇屋造の手法を兼ね備えた、園内でも特に個性的な建築である。


この渉成園 では最後なりました。「臨池亭(りんちてい)」(左)、「滴翠軒(てきすいけん)」(正面)まで来ました。ここも非公開で入れません。
「臨池亭(りんちてい)」は「滴翠軒(てきすいけん)」と吹き放しの廊下で繋がり、池に臨んで建てられたことからその名前が付けられた。主室は八畳二間で、二方に縁をめぐらし、さらに東側前面に幅一間の縁を張り出し、前面の池との一体感を強調する。1884年(明治17年)再建。
「滴翠軒(てきすいけん)」は書院群の北端に位置し、池に南面して建てられた。名前の由来は、池に落ちる小滝(滴翠)からつけられた。南側が池に張り出しているのが特徴。1884年(明治17年)再建。

近寄れないのでズームで撮った「檜垣の燈篭」です。
「滴翠軒(てきすいけん)」の東側に建つ石燈篭で、檜垣という銘の由来については、はっきりとしたことは伝わってません。






渉成園 を出て、椿の花や梅の花を見ながら、2025年(令和7年)9月3日(水)に「第50回記念 京の夏の旅」で特別公開された「燕申堂」の前まで来ました。非公開のため門は閉まっています。



最初に見た「高石垣」まで戻ってきました。ご覧のように多様な素材を組み合わせて築かれているのが分かります。

9時28分に「西門」から出て行きました。少し寒いですが、多くの方が来られてました。
タイムズ渉成園に戻り精算すると、8時59分~9時30分で600円のところ、40分以内に戻れたので0円で済みました。今日は、一箇所寄って行きます。
渉成園(枳殻邸)には、2025年(令和7年)9月3日(水)に来て以来です。その日も車で向かいましたが、今日も車で来ました。事前に調べて渉成園(枳殻邸)内にある駐車場は利用できないので、提携先のタイムズ渉成園のコインパーキングに、8時59分止めることができました。このコインパーキングは、40分以内では無料となります。
拝観料は庭園維持寄付金として700円を納めます。2025年(令和7年)9月3日(水)の「第50回記念 京の夏の旅 燕申堂」に来たときは、猛烈な猛暑でしたが、この日の最高気温は11.7℃までしか上がらず寒い中の散策となりました。
1880年(明治13年)に明治天皇が京都に来られ、渉成園で休息された際、東本願寺の宮御殿とともに大宮御所から移築を約され、後に移築されたもの。2024年(令和6年)1月22日(月)の第58回 京の冬の旅で園林堂が特別公開された際には、ここから入りました。
印月池(いんげつち)の西南に位置し、水上にのりだすよに建てられています。四畳半に三畳敷の続く座敷と土間からなり、三畳の東には左右に手摺付の縁があります。
双梅檐の「檐」とは「ひさし」の意味で、1864年(元治元年)の「禁門の変」(蛤御門の変)による焼失以前は、今より閬風亭(ろうふうてい)の規模が大きく屋根がこのあたりまでかかっていたことに由来する名前です。
渉成園の中では、一番広い大広間。軒を深く差し出し、規模の大名建物ながら、穏やかな姿を見せる。室内は通常の書院造の間取りとは若干異なり、畳みを外せば能が演じられるようになっている。1880年(明治13年)7月14日な明治天皇が休息された場所。閬風とはも中国の崑崙山脈の頂部にあると言われる山の名前で、仙人が住むとされ、賓客を迎える大書院にふさわしい名前を付けられました。
二階建ての茶室(煎茶席)です。階下は七畳で、西側に床をかまえ、二方に縁がついています。階上は主室四畳半に、通常の3/4の大きさの畳三畳の次の間を附しています。階上の窓から渉成園を一望できるようです。
江戸時代初期の制作と伝わり、六角形の傘の屋根には降り積もった雪が刻みだされているのが特徴。
堂内に本尊阿弥陀遼来を安置する持仏堂が「園林堂」である。園林堂竣工時1957年(昭和32年)に板画家・棟方志功(むなかたしこう)の肉筆の襖絵44面が収められている。独特の大胆な構図と繊細な筆致で描かれた。「天に伸ぶ杉木(すぎき)」「河畔(かはん)の呼吸」と題した襖絵は圧巻。また、仏間の襖絵はには、ボタンの花が描いてて、それは東本願寺の寺紋がボタンの花だからのようです。「園林」とは、元来、中国宮廷に設けられた庭園の意であるが、仏典では「浄土」を表す表現として用いる。
上から見ると亀の形に石組みが成され、亀の甲にあたる部分が掘り込まれて中心に井筒が埋められており井戸になっている。
南面に建つ煎茶席。代笠席とは、人里離れた地を訪れた旅人が「笠代わり」に雨宿りする席という意味だと考えられる。前面に間口が三間あり、深さ半間の土間と小縁が設けられ、内部は四畳半二室が東西に並ぶ。
印月池の水源の一つで、古くは高瀬川の水が引かれていた。現在は地下水を汲み上げて、流れとしています。通常見られるような滝の石組みではなく、山腹から湧き出す泉のような形式に造られている点が、渉成園の中でも大変珍しい。
北大島と「丹楓渓(たんぷうけい)」とを結ぶ木橋。1858年(安政5年)の「安政の大火」における焼失以前は、朱塗りの欄干を持つ反り橋だったと伝わる。現在は檜皮葺の屋根を持つ橋と変わりました。中央の唐破風屋根の天井部には掛け釘が設けられ、かつては夜半の来客の折り、金灯籠を吊って火を灯した。
回棹廊の北端から印月池北岸沿いの園路の両側に楓が植えられ、秋には見事な紅葉だそうです。「丹」とは朱色を表す語で、紅葉の美しい渓谷を模した一帯のことです。
石幢というのは通常の石灯籠と違って、笠の部分に蕨手と呼ばれる竿に節が無いなどの特徴がある。火袋にあたる部分は平面が六角形の仏像を安置するための龕となっている。
西側の土間から奥に入ると茶室がり、四畳間が付く構成となっている。南端から斜めに続く板間を経て三畳敷の上段の間が連結れさ、上段は床を高く支えた舞台造りとなっている。通常非公開。
六条河原院は、源融が宮城県塩釜市の風景を模して造成したと言われ、庭園には「塩釜の手水鉢」と呼ばれる筒型の鉢が残されている。石造宝塔の塔身を手水鉢に転用したもので、鎌倉時代の制作とみられる。
この塔は源融の供養塔といわれている九重の石塔で、塔身には四方仏が刻まれ、基礎の格狭間(こうざま)と呼ばれる部分には蓮華(れんげ)が彫刻されている。制作年代は鎌倉時代中期と推定されているが、九重目の本来の笠は失われ、宝筐印塔の笠で代用されている。渉成園が築造される以前から、このあたりに建っていたと伝えられている。また、築庭にあたって、宇治にある塔の島の景色を写したともいわれている。
元来はこの島に建てられていた小さな鐘楼堂のことを指しました。この堂は二階建・瓦葺の建物で、かつては漱枕居に集まった茶会の客人に、縮遠亭へと船で向かう刻限を告げる鐘を鳴らしていたそうです。1858年(安政5年)の「安政の大火」による焼失以降、再建されませんでした。
印月池の西北岸から縮遠亭のある島へ渡る木造の反橋。頼山陽は、「渉成園記」のなかで雪の積もった橋のありさまを玉龍にたとえて表現している。
庭園内には珍しい楼門作りで、左右側面に山廊と呼ばれる階段の入口があり、階上には四畳半の部屋を設けている。部屋の天井中央には磁石板に十二支を配した珍しい図様が描かれている。奔放で軽快な構成と穏やかな数奇屋造の手法を兼ね備えた、園内でも特に個性的な建築である。
「臨池亭(りんちてい)」は「滴翠軒(てきすいけん)」と吹き放しの廊下で繋がり、池に臨んで建てられたことからその名前が付けられた。主室は八畳二間で、二方に縁をめぐらし、さらに東側前面に幅一間の縁を張り出し、前面の池との一体感を強調する。1884年(明治17年)再建。
「滴翠軒(てきすいけん)」は書院群の北端に位置し、池に南面して建てられた。名前の由来は、池に落ちる小滝(滴翠)からつけられた。南側が池に張り出しているのが特徴。1884年(明治17年)再建。
「滴翠軒(てきすいけん)」の東側に建つ石燈篭で、檜垣という銘の由来については、はっきりとしたことは伝わってません。
タイムズ渉成園に戻り精算すると、8時59分~9時30分で600円のところ、40分以内に戻れたので0円で済みました。今日は、一箇所寄って行きます。
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