百々御所 宝鏡寺(人形寺)「令和8年 春の人形展」へ
京都府立植物園の駐車場を9時43分に出て、北大路通りに出ます。賀茂川を渡り、烏丸通りを超え、次の堀川通りを左折し南下紫明通りを超えると、左手に水火天満宮が見えてきます。ここの枝垂れ桜は有名で、多くの方が今年も来られるでしょう。そして次の上御霊通りを左折し東に進み、空いているコインパーキングを探します。2月25日(水)の西西陣 興聖寺(織部寺)に来たとき同じ、妙顕寺パーキングが空いてました。今日は、あと何ヶ所か覚えてきたので問題は無かったですが、先ずは空いてて良かったです。9時52分に車を止めました。
そこから向かったのが、2025年(令和7年)3月5日(火)にも「令和7年 春の人形展」で訪れている宝鏡寺で、令和8年 春の人形展が3月1日(日)から4月3日(金)まで開催されてました。

コインパーキングから急いで歩き、宝鏡寺の「山門」に、9時59分に着きました。

山門を入って玄関に向かうと開いてました。靴を下駄箱に入れ上がると正面に拝観受付所があり、拝観料600円と御朱印代300円を納めます。
受付の方より写真撮影についての案内がありました。昨年と同じで、堂内では「使者の間」のみOK、それと庭園も可能です。ずっと以前より、少しだけ緩くなりました。
「使者の間」の右手では、宝鏡寺のビデオが流れています。10時に入ったので誰も見てません。このビデオは帰りに見させて貰います。
使者の間は、表玄関に来られた方を上臈(じょうろう)が迎える部屋で、許しが出るまで、この部屋で待つことになります。廊下左手正面には、表と奥との境界の役目を果たす錠口と呼ばれる美しい玉節をもつ欅の一枚板による扉があり、上臈の許しの後この錠口より中に入りました。







「令和7年 春の人形展」とは違う展示でしたね。浦島太郎の乙姫は明治時代の作、雅楽の五人囃子も明治時代、花見人形、鶴亀雛も明治時代の作でした。


「本堂」に入って西側の部屋から見て行きます。襖絵は、2004年(平成16年)に奉納された河股幸和画伯筆「葡萄と鹿」(夏)です。2004年(平成16年)に奉納されました。
この部屋のガラスケースの中に「干支・馬を迎えて」と題して人形の展示がありました。あと「郷土玩具」の展示も合わせてありました。
中央の仏間の部屋には扁額が架かっており、「宝鏡寺門跡22世本覚院宮筆」だそうです。後西(ごさい)天皇(第111代天皇)の第十一皇女です。
内陣には伊勢の二見ケ浦で漁網にかかれ上げられた折り、小さな宝鏡を手にし光り輝いていたため人々は驚き朝廷に献上したと伝わる、聖観世音菩薩がご本尊として祀られています。あと後水尾天皇(第108代天皇)信仰の釈迦如来像が御所より宝鏡寺に安置され安置。他に歴代天皇・皇后の御尊牌が祀られてました。襖絵は、正面に狩野探幽筆の「秋の図」。向かって右には、河股幸和画伯筆「伊勢撫子と鶺鴒(セキレイ)」(月)。左に「伊勢撫子と鶺鴒」(日)でした。

「本堂」東側の部屋の奥には「上段の間」があります。正面に狩野探幽筆の「秋の図」。左には、河股幸和画伯筆「ゆりかもめ(都どり)」(冬)でした。
この部屋には、「御殿雛」が展示されてました。御殿飾りは建物内に内裏雛を配し、官女や随身などを添える様式で、御殿を御所の紫宸殿に見立てて桜と橘も飾られている。各人形の役割も分かりやすく配置され、遊びの要素も備えている。この作品では屋根を持たないので、「源氏物語絵巻」の「吹き抜け屋台」に似ていることから「源氏枠」と呼ばれている。
本堂東側突き当たりに「勅作堂(阿弥陀堂)」があります。堂内中央に光格天皇(第119代天皇)勅作の「阿弥陀如来立像」が、右に後光厳天皇(北朝第4代天皇)妃の「崇賢門院木像」が、左に「日野富子木像」が祀られています。
日野富子は、公卿日野重政(ひのしげまさ)の娘で、室町幕府8代将軍足利義政の妻となった。世継ぎがいなかったことから将軍の後継者を弟の足利義視(あしかがよしみ)を定めていたが、その翌年富子に義尚(よしなお)が生まれ世継ぎ争いになった。富子は義視の後見人である細川勝元に対して山名宗全を頼り義尚を将軍にしようとした。これが「応仁の乱」を引き起こす要因の一つとなった。宝鏡寺の北に隣接して、後円融天皇(北朝第5代天皇)の母、崇賢門院を開基とする浄土宗の大慈院が明治初期まであったが、この崇賢門院は富子の親族であり、後に富子は出家し妙善院となって大慈院に入った。宝鏡寺は大慈院の住職を兼務していたこともあって、大慈院は宝鏡寺に引き継がれ日野富子の像も宝鏡寺に祀られるようになった。宝鏡寺第十五世渓山禅師は、義政と富子との間に生まれた娘である。

ここで注目するのは、江戸時代の天皇も愛したとされる椿(ツバキ)「九重(ここのえ)」で、宝鏡寺のは枯れてしまいました。ただ、武田薬品工業薬用植物園(京都市左京区一乗寺)が約70年間守ってきた苗木を移植し、境内に復活したそうです。
この件をNHK京都「京いちにち」で放送され、この日来てみたわけです。花は白地に紅色の筋が入る大輪が来月咲くとみられています。この苗木は69年前から同園で保全され、挿し木で増やした高さ約60センチの苗を、3月5日(木)に植えられてました。



「勅作堂(阿弥陀堂)」を時計回りで巡ります。そして「勅作堂(阿弥陀堂)」の北側、書院の東側には江戸幕府14代将軍徳川家茂に降嫁した皇女和宮が、幼少の頃、宝鏡寺に住まわれていた時に遊ばれていたお庭「鶴亀の庭」に出ました。
仁孝(にんこう)天皇(第120代天皇)を父君に持つ和宮内親王は、公武合体のため江戸幕府14代将軍徳川家茂に降嫁し、江戸城開城に隠れた功績を残した。和宮が幼少の頃、生母橋本経子(はしもとつねこ)の許より姉君桂宮淑子(かつらのみやすみこ)内親王の御殿に移ってから百々御所(宝鏡寺)にて若い上臈(じょうろう)達と盤雙六(ばんすごろく)や貝合せなどに興じて「鶴亀の庭」で遊んだと言う。

秋には紅葉が綺麗な庭園も、今は梅の花が咲いています。勅銘「曙梅」と書いてありました。曙梅は光格天皇(第119代天皇)が命名された由緒ある梅だそうです。

庭をよくよく見ると、「落ち椿」を見つけました。庭に降りることができませんが、ズームで撮ってみました。

この松には名札があって「白松」と書かれてました。由緒などは分かりません。
次に本堂の裏手にある「第二展示場」に向います。
主な展示品は、佐四郎人形「諸国あそび」(昭和の前期)で、明治時代後期から戦前にかけて活躍した人形作家の久保佐四郎(1872~1944)による作品。あと御所人形の「孝明さん」(江戸時代後期)、名の由来は、人形に造詣の深かった孝明天皇(第121代天皇)の崩御後に形見分けとして宝鏡寺に下賜されことよる。三つ折人形の「万勢伊さん」(江戸時代前期)、宝鏡寺の第22代門跡の後西天皇(第111代天皇)皇女本覚院宮の御料の人形だそうです。三つ折人形の「おとらさん」(江戸時代後期)は、万勢さんのおつきの人形。三つ折人形の「おたけさん」(江戸時代中期)は、おとらさんの同様に、万勢さんのおつきの人形。雛人形「有職雛(狩衣雛)」1832年(天保3年)作、光格天皇より拝領品のもの。
再び「使者の間」に戻り、右手部屋でビデオを鑑賞しました。何本かあったようですが、3本だけ見て出ました。
出て行く前に、受付に寄って御朱印を受け取りました。ご本尊の観世音菩薩を書いて貰いました。

玄関を出て、最後に「人形塚」に寄りました。1959年(昭和34年)に、お人形と人形制作などに関わられた方々の供養のために建立されましたそうで、毎年10月14日に人形供養が行われています。この石碑には武者小路実篤の詩が刻まれてました。


10時33分に「山門」から出ました。帰る頃には、拝観者がボチボチ増えてきましたね。
コインパーキングに戻る途中、俵屋吉富 小川店「茶ろん俵屋」さん寄りました。2025年(令和7年)3月5日(火)に来たときは、奥にある茶席に入りましたが、今日は買い物だけ済ませました。
妙顕寺パーキングに戻る前に、妙顕寺を撮りました。春の特別公開は、3月28日(土)~4月12日(日)です。
妙顕寺パーキングに戻り、精算すると9時52分~10時43分、400円で済みました。戻ってきたら、このコインパーキングも満車になってました。今日は、これで帰路につきました。
そこから向かったのが、2025年(令和7年)3月5日(火)にも「令和7年 春の人形展」で訪れている宝鏡寺で、令和8年 春の人形展が3月1日(日)から4月3日(金)まで開催されてました。
受付の方より写真撮影についての案内がありました。昨年と同じで、堂内では「使者の間」のみOK、それと庭園も可能です。ずっと以前より、少しだけ緩くなりました。
使者の間は、表玄関に来られた方を上臈(じょうろう)が迎える部屋で、許しが出るまで、この部屋で待つことになります。廊下左手正面には、表と奥との境界の役目を果たす錠口と呼ばれる美しい玉節をもつ欅の一枚板による扉があり、上臈の許しの後この錠口より中に入りました。
内陣には伊勢の二見ケ浦で漁網にかかれ上げられた折り、小さな宝鏡を手にし光り輝いていたため人々は驚き朝廷に献上したと伝わる、聖観世音菩薩がご本尊として祀られています。あと後水尾天皇(第108代天皇)信仰の釈迦如来像が御所より宝鏡寺に安置され安置。他に歴代天皇・皇后の御尊牌が祀られてました。襖絵は、正面に狩野探幽筆の「秋の図」。向かって右には、河股幸和画伯筆「伊勢撫子と鶺鴒(セキレイ)」(月)。左に「伊勢撫子と鶺鴒」(日)でした。
この部屋には、「御殿雛」が展示されてました。御殿飾りは建物内に内裏雛を配し、官女や随身などを添える様式で、御殿を御所の紫宸殿に見立てて桜と橘も飾られている。各人形の役割も分かりやすく配置され、遊びの要素も備えている。この作品では屋根を持たないので、「源氏物語絵巻」の「吹き抜け屋台」に似ていることから「源氏枠」と呼ばれている。
日野富子は、公卿日野重政(ひのしげまさ)の娘で、室町幕府8代将軍足利義政の妻となった。世継ぎがいなかったことから将軍の後継者を弟の足利義視(あしかがよしみ)を定めていたが、その翌年富子に義尚(よしなお)が生まれ世継ぎ争いになった。富子は義視の後見人である細川勝元に対して山名宗全を頼り義尚を将軍にしようとした。これが「応仁の乱」を引き起こす要因の一つとなった。宝鏡寺の北に隣接して、後円融天皇(北朝第5代天皇)の母、崇賢門院を開基とする浄土宗の大慈院が明治初期まであったが、この崇賢門院は富子の親族であり、後に富子は出家し妙善院となって大慈院に入った。宝鏡寺は大慈院の住職を兼務していたこともあって、大慈院は宝鏡寺に引き継がれ日野富子の像も宝鏡寺に祀られるようになった。宝鏡寺第十五世渓山禅師は、義政と富子との間に生まれた娘である。
この件をNHK京都「京いちにち」で放送され、この日来てみたわけです。花は白地に紅色の筋が入る大輪が来月咲くとみられています。この苗木は69年前から同園で保全され、挿し木で増やした高さ約60センチの苗を、3月5日(木)に植えられてました。
仁孝(にんこう)天皇(第120代天皇)を父君に持つ和宮内親王は、公武合体のため江戸幕府14代将軍徳川家茂に降嫁し、江戸城開城に隠れた功績を残した。和宮が幼少の頃、生母橋本経子(はしもとつねこ)の許より姉君桂宮淑子(かつらのみやすみこ)内親王の御殿に移ってから百々御所(宝鏡寺)にて若い上臈(じょうろう)達と盤雙六(ばんすごろく)や貝合せなどに興じて「鶴亀の庭」で遊んだと言う。
主な展示品は、佐四郎人形「諸国あそび」(昭和の前期)で、明治時代後期から戦前にかけて活躍した人形作家の久保佐四郎(1872~1944)による作品。あと御所人形の「孝明さん」(江戸時代後期)、名の由来は、人形に造詣の深かった孝明天皇(第121代天皇)の崩御後に形見分けとして宝鏡寺に下賜されことよる。三つ折人形の「万勢伊さん」(江戸時代前期)、宝鏡寺の第22代門跡の後西天皇(第111代天皇)皇女本覚院宮の御料の人形だそうです。三つ折人形の「おとらさん」(江戸時代後期)は、万勢さんのおつきの人形。三つ折人形の「おたけさん」(江戸時代中期)は、おとらさんの同様に、万勢さんのおつきの人形。雛人形「有職雛(狩衣雛)」1832年(天保3年)作、光格天皇より拝領品のもの。
再び「使者の間」に戻り、右手部屋でビデオを鑑賞しました。何本かあったようですが、3本だけ見て出ました。
出て行く前に、受付に寄って御朱印を受け取りました。ご本尊の観世音菩薩を書いて貰いました。
妙顕寺パーキングに戻り、精算すると9時52分~10時43分、400円で済みました。戻ってきたら、このコインパーキングも満車になってました。今日は、これで帰路につきました。
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