世界文化遺産 臨済宗大本山 天龍寺 大方丈 旧「雲龍図(鈴木松年画伯筆)」特別公開へ
春のお彼岸が3月17日(火)に入ったこともあって、我が家のご先祖の墓参りを3月19日(木)に行ったついでに世界文化遺産 臨済宗大本山 天龍寺の大方丈で、 旧「雲龍図(鈴木松年画伯筆)」が特別公開されていたこともあって見てきました。
3月18日(水)の午後から雨が降り始めて予報では、19日(木)の早々に止むはずが、8時頃家を出る頃には、まだ降り続いてました。雨降りのため朝の最低気温はむ、10.9℃と高かったですが、雨が止むと北風が強く吹き、日中の気温は上がらなかったですし、この日の天気予報では、京都には霜注意報が出されたほどです。
8時27分に拝観受付所がある「庫裏」前に着きました。8時30分拝観開始ですが、直ぐに受付されましたね、私で2組目でした。
拝観料は、お堂エリアと庭園エリア合わせて800円。私の前のグループが海外の方だったんで、どうしても受付が遅くなります。寺の方も簡単な英語(多分)で話されているのでしょう。

入ると大きな「達磨図」があって、前臨済宗天龍寺派管長の平田精耕老師が描いたものだそうです。


庭園側の方が行列は長かったですが、ほぼ外国人観光客のようでした。前途したとおり、外国人観光客は受付で時間がかかるので、私が曹源池庭園に入った時は誰も居ませんでした。



先に並ばれていた外国人観光客のグループは、入ってから大方丈に来ずに多宝殿に向かわれました。私は、特別公開されている旧「雲龍図」を見に行きます。
大方丈に入る前に、こちらの「雲龍図」を見ました。この雲龍図は庭園側からも、一部見ることができます。
こちらの「雲龍図」は、富岡鉄斎の孫弟子にあたる若狭物外画伯筆によるもの。ガラス戸に中に展示されているので、曹源池が写り込んでいます。
この「雲龍図」、続きがあったんですね、今日は大方丈内に入れたので見ることができました。
若狭物外(もつがい)画伯は、1887年(明治20年)1月1日秋田県に生まれる。東京美術学校に入学し卒業後、山元春挙画伯の春挙塾に入ったあと自ら絶縁し、富岡鉄斎門下の才知のすぐれた山田介堂の弟子となる。富岡鉄斎唯一の孫弟子である。物外道人、物外山人、物外文人と名乗る。当時の関牧翁(せきぼくおう)天龍寺館長の親友で、1957年(昭和32年)に「雲龍図」を天龍寺に寄進。この四ヶ月後に寂す。

こちらは「大方丈」の南側からの入口です。普段は中に入ることができません。参考までに北側からも入ることができてました。






天龍寺の「法堂」を約100年間守り続けた「雲龍図」は、ボロボロです。かろうじて龍の目は分かりました。
1864年(元治元年)の「禁門の変(蛤御門の変)」にて薩摩兵により焼失した天龍寺は、その後明治になり江戸後期建立の雲居庵禅堂(選佛場)を、1899年(明治32年)の夢想国師550年遠忌記念事業により、移築し法堂を禅宗七堂伽藍のひとつとした。同年、鈴木松年画伯により、約一ヶ月を費やし「法堂」の天井一杯に所狭しとも紙本の大作「雲龍図」が画がたれた。その後、近年の剥落が激しくなり、1997年(平成9年)に法堂移築100年、夢窓国師650年遠忌(おんき)記念事業として、加山又造によって新しく「雲龍図」が描かれることになった。鈴木松年の旧雲龍図は、思っていた以上に傷みが激しく、龍の顔が不鮮明ですが、パネルにして20枚を毎年、この時期に特別公開されている。
余談ですが、外国人観光客の皆さんは、感心無かったのでしょう、ここに来られた人はほぼ無かったように思います。
こちらは「大方丈前庭」です。門の向こうに見えているのが「法堂」で、この日は拝観もされてました。ただ私は入りません。
「大方丈」で、「旧雲龍図」を見るのは2021年(令和3年)3月26日(金)でした。このあと多宝殿に向かいます。




「大方丈」から曹源池庭園を見ると、まだ空いてました。この諸堂拝観のあと庭園を巡りますが、その時は混雑しているでしょう。
大方丈から「小方丈」に入りました。ここでは寝そべり禁止です😊。



まもなく多くの外国人観光客が入って来られるでしょう、ここでは座って休憩できますが、奥の多宝殿に向かいました。


ここの先には、非公開の茶室「祥雲閣・甘雨亭」があって、2025年(令和7年)1月16日(木)に、「第59回 京の冬の旅」で入りました。

渡り廊下の先に多宝殿があります。こちらは天龍寺の近くを流れる桂川(大堰川)を模して小川が造られています。




後醍醐天皇の聖廟である「多宝殿」に着きました。庭を見ると北門から入られた外国人観光客で溢れています😊。
この場所は亀山上皇が離宮を営んだ際、後醍醐天皇が学問所とした地で、1934年(昭和9年)に当時の天龍寺官長であった関精拙老師が建立させたもので、後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿の様式と伝えられる。内陣には後醍醐天皇の尊像を祀り、両側に歴代天皇の尊牌を安置。




後醍醐天皇像まで遠くて暗くてズームで撮りました。襖絵の作者は分かりません。堂内に入ったことはありません。






8時44分に諸堂拝観の「庫裏」を出ました。諸堂拝観には庭園の拝観券も付いてきます。次は曹源池庭園を巡ります。
明日から3連休で気温が上がるようで、桜の開花が一気に進みそうと報道では聞いてます。この日の最高気温は、14.0℃止まりでした。このあと曹源池庭園を巡りますが、多分、混雑しているでしょう。
3月18日(水)の午後から雨が降り始めて予報では、19日(木)の早々に止むはずが、8時頃家を出る頃には、まだ降り続いてました。雨降りのため朝の最低気温はむ、10.9℃と高かったですが、雨が止むと北風が強く吹き、日中の気温は上がらなかったですし、この日の天気予報では、京都には霜注意報が出されたほどです。
拝観料は、お堂エリアと庭園エリア合わせて800円。私の前のグループが海外の方だったんで、どうしても受付が遅くなります。寺の方も簡単な英語(多分)で話されているのでしょう。
若狭物外(もつがい)画伯は、1887年(明治20年)1月1日秋田県に生まれる。東京美術学校に入学し卒業後、山元春挙画伯の春挙塾に入ったあと自ら絶縁し、富岡鉄斎門下の才知のすぐれた山田介堂の弟子となる。富岡鉄斎唯一の孫弟子である。物外道人、物外山人、物外文人と名乗る。当時の関牧翁(せきぼくおう)天龍寺館長の親友で、1957年(昭和32年)に「雲龍図」を天龍寺に寄進。この四ヶ月後に寂す。
1864年(元治元年)の「禁門の変(蛤御門の変)」にて薩摩兵により焼失した天龍寺は、その後明治になり江戸後期建立の雲居庵禅堂(選佛場)を、1899年(明治32年)の夢想国師550年遠忌記念事業により、移築し法堂を禅宗七堂伽藍のひとつとした。同年、鈴木松年画伯により、約一ヶ月を費やし「法堂」の天井一杯に所狭しとも紙本の大作「雲龍図」が画がたれた。その後、近年の剥落が激しくなり、1997年(平成9年)に法堂移築100年、夢窓国師650年遠忌(おんき)記念事業として、加山又造によって新しく「雲龍図」が描かれることになった。鈴木松年の旧雲龍図は、思っていた以上に傷みが激しく、龍の顔が不鮮明ですが、パネルにして20枚を毎年、この時期に特別公開されている。
この場所は亀山上皇が離宮を営んだ際、後醍醐天皇が学問所とした地で、1934年(昭和9年)に当時の天龍寺官長であった関精拙老師が建立させたもので、後醍醐天皇の吉野行宮時代の紫宸殿の様式と伝えられる。内陣には後醍醐天皇の尊像を祀り、両側に歴代天皇の尊牌を安置。
明日から3連休で気温が上がるようで、桜の開花が一気に進みそうと報道では聞いてます。この日の最高気温は、14.0℃止まりでした。このあと曹源池庭園を巡りますが、多分、混雑しているでしょう。
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