加賀前田家ゆかりの寺院 大徳寺塔頭 興臨院「春の特別公開」へ
京都府立植物園の駐車場を9時49分に出て、北大路通りを西に進み大徳寺通りの交差点まで行き、そこを右折し100㍍先にある大徳寺駐車場に車を入れました。最近コインパーキングにされ、60分で200円、昼間最大500円とされました。
9時58分に大徳寺駐車場に車を入れてみると、けっこう多くの車が止められてました。観光バスも1台止まってましたね。
大徳寺の「総門」から境内に入りました。目的の寺院が10時からのためトイレにも行かず向かいます。
この日、大徳寺に来たのは、3月14日(土)から始まった大徳寺塔頭 興臨院の「春の特別公開」でした。 興臨院は通常非公開で、昨年は2025年(令和7年)5月8日(木)に「春の特別公開」に、2025年(令和7年)12月3日(水)に「秋の特別公開」に行ってました。
10時1分に 興臨院の「表門」前に着きました。昨年も来たのに、今年来たのは躑躅の花を見るためです。
拝観料は800円でした。同時公開中の黄梅院、総見院の三ヵ寺共通拝観券もあるようで勧められましたが、今日は、ここだけにします。御朱印は書き置きのみだそうで、帰るときまでに考えることにして入りました。



拝観料を納めるとガイドさんが付いて案内されました。「庫裏」から入るものと思っていたら「唐門」(重文)から入ります。
平唐門、檜皮葺、一間一戸。室町時代の特徴をよく表し、波形の連子窓、客持の花頭窓は禅宗様式を表してて、大徳寺山内でも有数の古い門である。

唐門を入って花頭窓から庭を見てから重要文化財に指定されている「方丈(本堂)」に靴を脱いで上がります。
ガイドさんに、ここは初めてか尋ねられたので、数回来ているむね話しガイドは遠慮し、「礼の間」から見ていきます。
幕末から明治維新にかけての動乱により失われる前は、「礼の間」には狩野元信の彩色「花鳥麝香猫」、「室中の間」には狩野元信の水墨画「山水」、「檀那の間」には、土佐光信の彩色韃旦人の「風俗画」と江戸時代の郡林泉名勝図絵に記載されてました。
現在の障壁画は、福岡県久留米市の水墨画家、村石米齋(むらいしべいさい)が描き、1995年(平成7年)7月に納められたもの。「礼の間」には、「葡萄図」が描いてあって、葡萄の木の下で佇む動物が微笑ましく描いてある。「室中の間」には「夏景山水図」が、左側が山口県の青海島、右側が頤和園(古代中国の歴代の皇帝離宮)が、「檀那の間」は「寒山拾得図」が描いてあって、伝説的な僧である寒山と拾得が暮らしていた蓬莱世界を表している。方丈裏の「書院の間」には、日本で最初に作られた「床の間」がある。
「室中の間」奥の仏間には、開祖の「小渓紹怤(しょうけいじょうふ)禅師像」を中央に、左手に「釈迦如来像」が祀られています。なお、ここの内部で手を叩けば響く「響き天井」となってますが、入室はできません。

次に庭園を見てみます。今日は庭園に咲く「躑躅(ツツジ)」を見に来ました。



方丈前庭は、昭和の小堀遠州とたたえられる名作庭家中根金作によって江戸期の「都林泉名勝図絵(みやこりんせんめいしょうずえ)」をもとに、1975年(昭和50年)に復元されたもの。
中国の天台山・国清寺の石橋を模して、大石や松をあしらった枯山水庭園。不老不死の神や仙人が住むという蓬莱山を表した、豪放な石組みが特徴の庭園。
この庭園の見所の一つが「石橋」で高い位置にあります。普通は低いにあるもので、何故石橋が高いところにあるかは?。
「深山幽谷(しんざんゆうこく)」の景色を表し深い谷のように見せてます。この石橋の下を轟々と水が流れていることを連想されてくれます。高い位置にある石橋が浮いているように見えるは、両側にある大きな石に石橋は架かっていません。そのカラクリは人から見えない(正面から)所に、別の石が支えているから😊。
次に「方丈」の西側に移動しました。枯山水庭園から庭園の趣が、ここから変わります。

今は、草が覆い茂っているので石碑の文字は見えませんが「爪塚」と書かれています。
そして、その先には「琴心塔」を目にします。琴で使う爪などを供養するためだそうです。
方丈の北西角まで来ましたそこには「鎮守社」があって、その前には「バイタラ樹の名木(多羅葉樹)」があります。
古代インドで経文を書いたと言われるヤシ科の樹木ので、葉の裏に傷をつけて文字が書ける、多羅葉は葉書の語源の元となったことから「郵便局の木」とも呼ばれている。

方丈の北西にある「衣鉢の間」には入室できました。江戸時代の儒学者である祇園南海(ぎおんなんかい)(1677~1751)の筆によるもの。

方丈最後の部屋は「書院の間」です。撮影禁止のため写真はありません。この部屋は日本で最初に出来た「床の間」の形だそうです。
框(かまち)が二重になり、下の框は欅で奥に凹んでいる。足で蹴ったように見える所から蹴込式、蹴込床と呼ばれ床には畳が敷かれ珍しい形である。床の壁は土壁ではなく襖張りになり、創建当時の形を復元している。
書院の間には、興臨院開基の畠山義総(はたけやまよしふさ)公の肖像画、前田利家公の肖像画、屏風には「鷹猿図」(徳美友僊)が描いてありました。
畠山義総(1491~1545)は、能登守護畠山氏の第七代当主。1515年(永正12年)に家督を継ぎ、以後、30年の統治で能登畠山氏の安定をもたらした。
前田利家(1539?~1599)は加賀百万石の藩祖。幼名は犬千代。15歳で織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗る。22歳で「まつ」と結婚し、又左衛門利家と名を改める。若年の頃は派手で、奇抜な振舞いを好み、武勇にも優れ「槍の又左」と呼ばれた。「姉川の戦い」、「一乗谷城の戦い」、「長島一向一揆」、「長篠の戦い」で戦功を上げ、信長の政策により、府中(福井県越前市)を他の武将とともに治め、のち能登一国を領有する。本能寺の変後の賎ヶ岳戦では柴田勝家側でしたが、柴田勢を裏切り、豊臣秀吉側に付くという大きな決断を下す。後に豊臣秀吉を補佐する大名に成長、加賀百万石の礎を築きあげた。


最後に、茶室「涵虚亭(かんきょてい)」に向かいます。入る前に、「花手水」を撮りました。お寺の方が生けられた花が飾ってありました。

茶室前には、美しい苔と水の流れがある「露地庭園」となっています。禅宗で水の流れは珍しいと以前、聞きました。

茶室「涵虚亭(かんきょてい)」は、この奥ですが写真撮影は禁止とありました。
茶室「涵虚亭(かんきょてい)」は、茶人の古田織部好みの四畳台目に隅板(すみいた)を加えた造りで、特徴は、袖壁が出ているために洞のように見える「洞床(ほらどこ)」と呼ばれる床の間で奥に空間がある、間口よりも奥の方が広くなっている。涵虚亭の名は、中国・北宋時代の詩人である蘇東坡(そうとば)の詩から名付けられている。

表門から出る前に、書き置き御朱印をいただくことにしました。御朱印は300円、ご本尊が書かれています。
10時18分に重要文化財に指定されている「表門(平唐門)」を出ました。1633年(天文2年)の再建。この看板の写真のようなツツジを期待していたんですが、残念でした。



次の目的の寺院に行くため北に向かって歩いて行きます。三門の金毛閣、仏殿、法堂を過ぎ、本坊の入口まで来ました。
興臨院では、誰とも出会いませんでしたが、次の寺院は公開することが稀なんで多いかもです。
この日、大徳寺に来たのは、3月14日(土)から始まった大徳寺塔頭 興臨院の「春の特別公開」でした。 興臨院は通常非公開で、昨年は2025年(令和7年)5月8日(木)に「春の特別公開」に、2025年(令和7年)12月3日(水)に「秋の特別公開」に行ってました。
拝観料は800円でした。同時公開中の黄梅院、総見院の三ヵ寺共通拝観券もあるようで勧められましたが、今日は、ここだけにします。御朱印は書き置きのみだそうで、帰るときまでに考えることにして入りました。
平唐門、檜皮葺、一間一戸。室町時代の特徴をよく表し、波形の連子窓、客持の花頭窓は禅宗様式を表してて、大徳寺山内でも有数の古い門である。
幕末から明治維新にかけての動乱により失われる前は、「礼の間」には狩野元信の彩色「花鳥麝香猫」、「室中の間」には狩野元信の水墨画「山水」、「檀那の間」には、土佐光信の彩色韃旦人の「風俗画」と江戸時代の郡林泉名勝図絵に記載されてました。
現在の障壁画は、福岡県久留米市の水墨画家、村石米齋(むらいしべいさい)が描き、1995年(平成7年)7月に納められたもの。「礼の間」には、「葡萄図」が描いてあって、葡萄の木の下で佇む動物が微笑ましく描いてある。「室中の間」には「夏景山水図」が、左側が山口県の青海島、右側が頤和園(古代中国の歴代の皇帝離宮)が、「檀那の間」は「寒山拾得図」が描いてあって、伝説的な僧である寒山と拾得が暮らしていた蓬莱世界を表している。方丈裏の「書院の間」には、日本で最初に作られた「床の間」がある。
中国の天台山・国清寺の石橋を模して、大石や松をあしらった枯山水庭園。不老不死の神や仙人が住むという蓬莱山を表した、豪放な石組みが特徴の庭園。
「深山幽谷(しんざんゆうこく)」の景色を表し深い谷のように見せてます。この石橋の下を轟々と水が流れていることを連想されてくれます。高い位置にある石橋が浮いているように見えるは、両側にある大きな石に石橋は架かっていません。そのカラクリは人から見えない(正面から)所に、別の石が支えているから😊。
古代インドで経文を書いたと言われるヤシ科の樹木ので、葉の裏に傷をつけて文字が書ける、多羅葉は葉書の語源の元となったことから「郵便局の木」とも呼ばれている。
框(かまち)が二重になり、下の框は欅で奥に凹んでいる。足で蹴ったように見える所から蹴込式、蹴込床と呼ばれ床には畳が敷かれ珍しい形である。床の壁は土壁ではなく襖張りになり、創建当時の形を復元している。
書院の間には、興臨院開基の畠山義総(はたけやまよしふさ)公の肖像画、前田利家公の肖像画、屏風には「鷹猿図」(徳美友僊)が描いてありました。
畠山義総(1491~1545)は、能登守護畠山氏の第七代当主。1515年(永正12年)に家督を継ぎ、以後、30年の統治で能登畠山氏の安定をもたらした。
前田利家(1539?~1599)は加賀百万石の藩祖。幼名は犬千代。15歳で織田信長に仕え、元服して孫四郎利家と名乗る。22歳で「まつ」と結婚し、又左衛門利家と名を改める。若年の頃は派手で、奇抜な振舞いを好み、武勇にも優れ「槍の又左」と呼ばれた。「姉川の戦い」、「一乗谷城の戦い」、「長島一向一揆」、「長篠の戦い」で戦功を上げ、信長の政策により、府中(福井県越前市)を他の武将とともに治め、のち能登一国を領有する。本能寺の変後の賎ヶ岳戦では柴田勝家側でしたが、柴田勢を裏切り、豊臣秀吉側に付くという大きな決断を下す。後に豊臣秀吉を補佐する大名に成長、加賀百万石の礎を築きあげた。
茶室「涵虚亭(かんきょてい)」は、茶人の古田織部好みの四畳台目に隅板(すみいた)を加えた造りで、特徴は、袖壁が出ているために洞のように見える「洞床(ほらどこ)」と呼ばれる床の間で奥に空間がある、間口よりも奥の方が広くなっている。涵虚亭の名は、中国・北宋時代の詩人である蘇東坡(そうとば)の詩から名付けられている。
10時18分に重要文化財に指定されている「表門(平唐門)」を出ました。1633年(天文2年)の再建。この看板の写真のようなツツジを期待していたんですが、残念でした。
興臨院では、誰とも出会いませんでしたが、次の寺院は公開することが稀なんで多いかもです。
この記事へのコメント
唐門の先に花頭窓があって、そこから中庭は見えているなんて、非常に心憎い造りだと思います。現代でも上品でお洒落なたたずまい。
もちろん枯山水の石庭は見事。
方丈前庭は昭和の作庭家、中根金の作でしたか。
おそらく廃仏毀釈後の復興がしっかりとなされ、現代の日本芸術作家が腕を振るって立派な境内の風景を形作っているのですね。
春でも赤く色づくモミジが印象的に色合いを提供していますね。
ここも昨年訪れましたが、看板の写真にあるようなツツジの花を期待したんですがイマイチでした。それでしょうか、来られる人も少なかったです。やっぱり、ここは紅葉ですね、凄く綺麗なんで。