新緑の青モミジを見に楠木正行 足利義詮両菩提所 宝筐院へ
5月6日(水・振休)は、昨日までの快晴の天気から曇り空に変わりました。それでも降水確率は0%だったんですが、家を出たら小雨が降ってきて、いつもリュックに折りたたみ傘を入れているのに、気象庁を信頼して出掛ける前、傘を出しました。空を見たら、黒い雲が広がっていたのに気象庁を信用したのが間違いでしたね。ただ、小雨だったんで濡れなくて済みましたが・・・。

目的の寺院の拝観時間が9時からで、まだ早かったため清凉寺(嵯峨釈迦堂)に寄りました。
この日、雨は余計でしたが、ここから紅葉の名所で有名な宝筐院に向かいます。紅葉が有名なだけに瑞々しい青モミジが期待できるから来てみたわけです。最近では2025年(令和7年)4月7日(月)に来て以来です。

9時1分に宝筐院の「表門」前に着きました。青モミジの季節でしたが、私で2組目でした。
門を入ると自販機で拝観券を購入します。500円でした。そして受付で拝観券を渡すと、庭園の入口を開けられます。

紅葉の名所だけに、2024年(令和6年)12月11日(水)では、ここから見る庭園は真っ赤に染まっていました。ただ今は青モミジが綺麗です。

本堂に上がる前に苑路には「アヤメ」(多分😊)が咲いてました。





本堂内陣の中央には、ご本尊の「十一面千手観世音菩薩」が、左隣には「楠木正行像」が安置されています。
楠木正行(くすのきまさつら)は1348年(正平3年)四條畷の合戦で討ち死にし、その首級を生前交流のあった黙庵善入寺に葬ったとの寺伝があります。






本堂を出て次に、楠木正行菩提所と足利義詮菩提所の前まで来ました。生前、敵同士だった二人の墓が・・・?。

墓の入口には家紋があって、右が楠木正行(くすのきまさつら)の家紋「菊水」、左が足利義詮(あしかがよしあきら)の家紋「二つ引両」です。
ここには、生前敵同士であった「足利義詮の墓」(左)と、楠木正成の子「楠木正行の首塚」(右)が仲良く並んで建っています。これは義詮が正行の人柄を慕い、そばに葬るように遺言したためといわれています。
宝筐院は、善入(ぜんにゅう)山と号する臨済宗の単立寺院。寺伝によると、平安時代に白河天皇(第72代天皇)の勅願寺として創建され、善入寺と称した。南北朝時代に夢窓疎石の高弟である黙庵周諭(もくあんしゅうゆ)禅師が入寺し、室町幕府2代将軍足利義詮(よしあきら)の保護を受け衰退していた伽藍が復興され、これ以降臨済宗の寺となった。1367年(貞治6年)に義詮の没後、善入寺は義詮の菩提寺となり、その院号に因んで宝筐院と改められた。室町幕府足利将軍家の保護もあって寺も隆盛したが、応仁の乱以降は経済的に困窮し衰退し明治の初めには廃寺となった。また、南朝時代の武将楠木正行(くすのきまさつら)(小楠公、楠木正成の長男)は、黙庵周諭禅師に帰依しており、1348年(正平3年・貞和4年)の「四條畷の戦い」で足利方の高師直・師泰兄弟に討ち取られた後、その首級を生前の交誼により善入寺に葬った。時は明治になり、1891年(明治24年)、京都府知事北垣国道は楠木正行の遺跡が荒れているのを知り、正行ゆかりの遺跡を守ろうと天龍寺管長・高木龍淵や神戸の実業家・川崎芳太郎によって、旧境内地が買い戻され、建物も移築され伽藍が整えられ、1916年(大正5年)宝筐院の再興が行われた。その後茶室が移築され、本堂が新築された。

墓所の横には1891年(明治24年の建立の「欽忠碑」が建っています。京都府知事の北垣国道が正行の遺跡が人知れず埋もれていることを惜しみ、これを世に知らせるために首塚の由来を記してた撰文です。
墓所の北側には楠木正行の辞世の句が書かれた歌碑があります。「かえらじと かねておもへば梓弓 なき数に入る 名をぞ 止(とど)むる」と書いてあります。
この先に本堂があって出口に出られますが、ここから庭園を散策し周遊します。

少し歩くと「著莪(シャガ)」の花を見つけました。


次に見つけたのが「海南更紗満天星(カンナンサララドウダン)」かなぁ、多分😊。

次に左手に滝組があって、そこから流れ出る水を枯山水で表現されているようです。かつて水が実際に流されていたのも知れませんね。








次に苑路で咲き誇っていたのが「紫蘭(シラン)」でした。この花を見ながら歩いて行くと、突き当たりに出たのが本堂裏でした。

本堂裏まで来ると左手に行ってみます。そこには2024年(令和6年)5月8日(水)の「令和6年度 春期京都非公開文化財特別公開」で初公開された茶室「丹照庵」があります。


ここは紅葉の名所ですが、2025年(令和7年)4月7日(月)に来たとき、ここの枝垂れ桜が見事に咲いてました。それは綺麗でしたね。


再び本堂前に出て、楠木正行菩提所と足利義詮菩提所の前まで来ました。ここで最後の苑路を歩き出口に向かいます。







この苑路の裏手で咲いていたのが「オオヤマレンゲ(大山蓮華)」でしょう。Google様々です。





9時20分頃に庭園を出て「庫裏」の前に行くと、大輪の「クレマチス」が咲いてました。
宝筐院には、2024年(令和6年)12月11日(水)に紅葉を見に来て以来でしたが、青モミジも綺麗でした。ただ天気はイマイチで残念でしたが。
この日の亭低気温は13.0℃、最高気温は21.1℃でした。暑くもなく寒くもなく、湿気もなく、一年で最も気候が良い時期でしょうね、今年も猛暑の予報が出ているので、この時期に一杯楽しみたいです。
この日、雨は余計でしたが、ここから紅葉の名所で有名な宝筐院に向かいます。紅葉が有名なだけに瑞々しい青モミジが期待できるから来てみたわけです。最近では2025年(令和7年)4月7日(月)に来て以来です。
楠木正行(くすのきまさつら)は1348年(正平3年)四條畷の合戦で討ち死にし、その首級を生前交流のあった黙庵善入寺に葬ったとの寺伝があります。
宝筐院は、善入(ぜんにゅう)山と号する臨済宗の単立寺院。寺伝によると、平安時代に白河天皇(第72代天皇)の勅願寺として創建され、善入寺と称した。南北朝時代に夢窓疎石の高弟である黙庵周諭(もくあんしゅうゆ)禅師が入寺し、室町幕府2代将軍足利義詮(よしあきら)の保護を受け衰退していた伽藍が復興され、これ以降臨済宗の寺となった。1367年(貞治6年)に義詮の没後、善入寺は義詮の菩提寺となり、その院号に因んで宝筐院と改められた。室町幕府足利将軍家の保護もあって寺も隆盛したが、応仁の乱以降は経済的に困窮し衰退し明治の初めには廃寺となった。また、南朝時代の武将楠木正行(くすのきまさつら)(小楠公、楠木正成の長男)は、黙庵周諭禅師に帰依しており、1348年(正平3年・貞和4年)の「四條畷の戦い」で足利方の高師直・師泰兄弟に討ち取られた後、その首級を生前の交誼により善入寺に葬った。時は明治になり、1891年(明治24年)、京都府知事北垣国道は楠木正行の遺跡が荒れているのを知り、正行ゆかりの遺跡を守ろうと天龍寺管長・高木龍淵や神戸の実業家・川崎芳太郎によって、旧境内地が買い戻され、建物も移築され伽藍が整えられ、1916年(大正5年)宝筐院の再興が行われた。その後茶室が移築され、本堂が新築された。
この日の亭低気温は13.0℃、最高気温は21.1℃でした。暑くもなく寒くもなく、湿気もなく、一年で最も気候が良い時期でしょうね、今年も猛暑の予報が出ているので、この時期に一杯楽しみたいです。
この記事へのコメント
何度か拝見していますが、いつも不思議な感慨があります。
それはひょっとすると本人たちもそうかも。
歴史の流れと偶然の織り成す顛末は、意外なものになることもあるのでしょう。それだけ時の流れは大きいのですよね。
それにしても、境内にシランが咲く小径の風景に癒されます。
大型連休中に宝筐院に行きましたが、紅葉のときは行列必至ですが、青モミジではガラガラです。生前敵味方同士が並んで葬られているのも興味深いです。ここは紅葉の名所です。圧倒的に境内が真っ赤に染まる秋の紅葉は見事です。ただ人が多いのが難点ですが。