東本願寺の飛び地にある国の名勝 渉成園(枳殻邸)へ
5月11日(月)の最低気温は、13.0℃と冷え込みましたが、予報では夏日になると出てました。放射冷却で冷え込んだので、朝から快晴の天気が広がっています。それで予定どおり車で出掛けのは、4月18日(土)から始まっていた「京都国際写真展」の会場に行くためです。
今日の目的地は、東本願寺の飛び地にある国の名勝 渉成園(枳殻邸)の西門から直ぐの所にあって、先ずは渉成園 の駐車場に車を止めます。タイムズ渉成園には9時00分に入れました。予定より随分早く着いてしまいましたが、3月9日(月)にも来てますが、渉成園 に入ります。
9時3分に「西門」から入り、拝観受付所で、庭園維持寄付金として拝観料700円を納めました。写真は受付前に咲いていた「紫蘭(シラン)」です。




最初に見るのが「高石垣」です。石橋のような長い切石や、礎石、石臼、山石や瓦など多様な素材を組み合わせて築かれているのが分かります。

私の前に入って行かれたのは外国人観光客の皆さん。京都駅から近いこともあって、最近は外国人観光客が多く来られています。次に注目するのが「大玄関」です。1884年(明治17年)に、大宮御所から移築されました。
1880年(明治13年)に明治天皇が京都に来られ、渉成園で休息された際、東本願寺の宮御殿とともに大宮御所から移築を約され、後に移築されたもの。2024年(令和6年)1月22日(月)の「第58回 京の冬の旅」で「園林堂」が特別公開された際には、ここから入りました。

こちらは大玄関の正面にある「馬繋ぎ(廏)」で、当時のまま残されたようです。そして、ここから庭園に入ります。


庭園に入って最初に見るのが、非公開の茶室「漱枕居(そうちんきょ)」です。
1865年(慶応元年)の再建。印月池(いんげつち)の西南に位置し、水上にのりだすよに建てられている。四畳半に三畳敷の続く座敷と土間からなり、三畳の東には左右に手摺付の縁がある。

先に行かれた皆さんは、真っ直ぐ行かれましたが、私は寄って行きます。非公開の「閬風亭(ろうふうてい)」ですが、2018年(平成30年)11月27日(火)の「ライトアップ」と2024年(令和6年)1月22日(月の「第58回 京の冬の旅」で入りました。
渉成園の中では、一番広い大広間。軒を深く差し出し、規模の大名建物ながら、穏やかな姿を見せる。室内は通常の書院造の間取りとは若干異なり、畳みを外せば能が演じられるようになっている。1880年(明治13年)7月14日な明治天皇が休息された場所。閬風とはも中国の崑崙山脈の頂部にあると言われる山の名前で、仙人が住むとされ、賓客を迎える大書院にふさわしい名前を付けられた。


「閬風亭(ろうふうてい)」の奥には、二階建ての茶室「蘆庵(ろあん)」があるので寄りました。通常非公開ですが、2017年(平成29年)の「 京の夏の旅」で内部が公開されたようです。
茶室前の庭園「露地庭園」内に立つ、石灯籠は「蘆庵(ろあん)の春日灯籠」といいます。江戸時代初期の制作と伝わり、六角形の傘の屋根には降り積もった雪が刻みだされているのが特徴。

外からしか見られませんが「園林堂(おんりんどう)」で非公開です。ここ開けると棟方志功の襖絵があったように記憶しています。
堂内に本尊阿弥陀遼来を安置する持仏堂が「園林堂」である。園林堂竣工時1957年(昭和32年)に板画家・棟方志功(むなかたしこう)の肉筆の襖絵44面が収められている。独特の大胆な構図と繊細な筆致で描かれた。「天に伸ぶ杉木(すぎき)」「河畔(かはん)の呼吸」と題した襖絵は圧巻。また、仏間の襖絵はには、ボタンの花が描いてて、それは東本願寺の寺紋がボタンの花だからのようです。「園林」とは、元来、中国宮廷に設けられた庭園の意であるが、仏典では「浄土」を表す表現として用いる。

次は「傍花閣(ぼうかかく)」です。1892年(明治25年)に再建された珍しい楼門作りの建物です。
庭園内には珍しい楼門作りで、左右側面に山廊と呼ばれる階段の入口があり、階上には四畳半の部屋を設けている。部屋の天井中央には磁石板に十二支を配した珍しい図様が描かれている。奔放で軽快な構成と穏やかな数奇屋造の手法を兼ね備えた、園内でも特に個性的な建築である。

このタンポポに似た花は「ブタナ(豚菜)」といい、「タンポポモドキ」の別名もあるそうです。

こちらは調べて無いですが、多分時期的に、黄色の「アヤメ」でしょうね。


次に「代笠席」(たいりつせき)に向かいますが、その前に「亀の甲の井戸」に寄りました。結界が無いので、初めて上から覗いてみました。
上から見ると亀の形に石組みが成され、亀の甲にあたる部分が掘り込まれて中心に井筒が埋められており井戸になっている。




奥まって分かりにくい所にあるので、先に入られた方は、ここまで来られなかった「代笠席」(たいりつせき)です。室内まで見られるようになっています。
南面に建つ煎茶席。代笠席とは、人里離れた地を訪れた旅人が「笠代わり」に雨宿りする席という意味だと考えられる。前面に間口が三間あり、深さ半間の土間と小縁が設けられ、内部は四畳半二室が東西に並ぶ。
先に外国人観光客の皆さんが多く来られている話をしましたが、ご覧のようにニデック京都タワーが、庭園内から至る所で見えます。

印月池北東岸に入り組んだ、入江の奥にある築山の石組みの「獅子吼(ししく)」まで来ました。ここでは小さな滝がありました。
印月池の水源の一つで、古くは高瀬川の水が引かれていた。現在は地下水を汲み上げて、流れとしています。通常見られるような滝の石組みではなく、山腹から湧き出す泉のような形式に造られている点が、渉成園の中でも大変珍しい。
「回棹廊(かいとうろう)」を渡る手前まで来ました。
「回棹廊(かいとうろう)」の途中から見る「青モミジ」綺麗です。
橋の途中から左手の対岸を撮りました。こちらは「紫藤岸(しとうがん)」と呼ばれ、印月池にせり出すように造られた藤棚があります。当初この藤は、野生であったと伝えられていますが、現在は棚が設けられています。
海外からの方が居たので渡りきってから撮った「回棹廊(かいとうろう)」で、1884年(明治17年)の再建です。
北大島と「丹楓渓(たんぷうけい)」とを結ぶ木橋。1858年(安政5年)の「安政の大火」における焼失以前は、朱塗りの欄干を持つ反り橋だったと伝わる。現在は檜皮葺の屋根を持つ橋と変わりました。中央の唐破風屋根の天井部には掛け釘が設けられ、かつては夜半の来客の折り、金灯籠を吊って火を灯した。

北大島に入り、最初に注目したが、この石灯籠の「碧玉の石幢(へきぎょくのせきどう)」です。青味がかかってないのに何故「碧玉」と言うのかは分かってないそうです。
石幢というのは通常の石灯籠と違って、笠の部分に蕨手と呼ばれる竿に節が無いなどの特徴がある。火袋にあたる部分は平面が六角形の仏像を安置するための龕となっている。


印月池に浮かぶ北大島の小高い丘にある茶室「縮遠亭(しゅくおんてい)」(非公開)に寄りました。
西側の土間から奥に入ると茶室がり、四畳間が付く構成となっている。南端から斜めに続く板間を経て三畳敷の上段の間が連結れさ、上段は床を高く支えた舞台造りとなっている。
この茶室「縮遠亭(しゅくおんてい)」を少し下った先には、「塩釜の手水鉢(しおがまのちょうずばち)」があります。
六条河原院は、源融が宮城県塩釜市の風景を模して造成したと言われ、庭園には「塩釜の手水鉢」と呼ばれる筒型の鉢が残されている。石造宝塔の塔身を手水鉢に転用したもので、鎌倉時代の制作とみられる。
この「塩釜の手水鉢(しおがまのちょうずばち)」の先に「源融ゆかりの塔」があるんですが、どうしても木々が邪魔で見えません。それで「ニデック京都タワー」を撮りました。
北大島から出るため、「侵雪橋(しんせつきょう)」と呼ばれる木橋を渡りました。
印月池の西北岸から縮遠亭のある島へ渡る木造の反橋。頼山陽は、「渉成園記」のなかで雪の積もった橋のありさまを玉龍にたとえて表現している。
印月池に浮かぶ「南大島」です。「臥龍堂」とも呼ばれるのは、ここにかつて鐘楼堂がありましたが、安政の大火で焼失し、今は礎石しか残ってないようです。

出口に向かって歩いて行く途中に「睡蓮(スイレン)」が咲いてました。少し早いように思いますが・・・。



再び「傍花閣(ぼうかかく)」まで来ました。ここは通過で最後のポイントまで行きます。





この渉成園 では最後エリアまで来ました。ここにも「ブタナ(豚菜)」と、多分「ヒメジョオン(姫女菀)」だと思いますが綺麗に咲いてました。
正面に見えているのが「滴翠軒(てきすいけん)」で書院群の北端に位置し、池に南面して建てられた。名前の由来は、池に落ちる小滝(滴翠)からつけられた。南側が池に張り出しているのが特徴。1884年(明治17年)再建。
こちらが「臨池亭(りんちてい)」です。「滴翠軒(てきすいけん)」と吹き放しの廊下で繋がり、池に臨んで建てられたことからその名前が付けられた。主室は八畳二間で、二方に縁をめぐらし、さらに東側前面に幅一間の縁を張り出し、前面の池との一体感を強調する。1884年(明治17年)再建。
木々で見にくいですが、「檜垣の燈篭」です。「滴翠軒(てきすいけん)」の東側に建つ石燈篭で、檜垣という銘の由来については、はっきりとしたことは伝わってません。
9時28分に渉成園 の庭園を出ました。ただ、次の目的が10時開始のため、まだまだ早いです。



庭園を出て直ぐの所にアジサイに似た花が咲いてて、多分「ウツギ(空木)」だと思いますが、そこに「アゲハチョウ」が飛んで来ました。
こちらは、2025年(令和7年)9月3日(水)の「第50回記念 京の夏の旅」で入った非公開の「燕申堂」です。猛烈に暑かったことしか覚えてないです😊。
トレイを済ませて、9時36分に「西門」から、次の目的地である重信会館を見ています。さすがに早いので誰も居ません。

渉成園 には西門の近くに休憩所があって、時間まで座って休んでました。
9時50分頃に、もう一度トイレを済ませてから、今日は重信会館が目的だったで向かいました。驚いたことに、既に10名ぐらいの方が並ばれていましたね。
今日の目的地は、東本願寺の飛び地にある国の名勝 渉成園(枳殻邸)の西門から直ぐの所にあって、先ずは渉成園 の駐車場に車を止めます。タイムズ渉成園には9時00分に入れました。予定より随分早く着いてしまいましたが、3月9日(月)にも来てますが、渉成園 に入ります。
1880年(明治13年)に明治天皇が京都に来られ、渉成園で休息された際、東本願寺の宮御殿とともに大宮御所から移築を約され、後に移築されたもの。2024年(令和6年)1月22日(月)の「第58回 京の冬の旅」で「園林堂」が特別公開された際には、ここから入りました。
1865年(慶応元年)の再建。印月池(いんげつち)の西南に位置し、水上にのりだすよに建てられている。四畳半に三畳敷の続く座敷と土間からなり、三畳の東には左右に手摺付の縁がある。
渉成園の中では、一番広い大広間。軒を深く差し出し、規模の大名建物ながら、穏やかな姿を見せる。室内は通常の書院造の間取りとは若干異なり、畳みを外せば能が演じられるようになっている。1880年(明治13年)7月14日な明治天皇が休息された場所。閬風とはも中国の崑崙山脈の頂部にあると言われる山の名前で、仙人が住むとされ、賓客を迎える大書院にふさわしい名前を付けられた。
堂内に本尊阿弥陀遼来を安置する持仏堂が「園林堂」である。園林堂竣工時1957年(昭和32年)に板画家・棟方志功(むなかたしこう)の肉筆の襖絵44面が収められている。独特の大胆な構図と繊細な筆致で描かれた。「天に伸ぶ杉木(すぎき)」「河畔(かはん)の呼吸」と題した襖絵は圧巻。また、仏間の襖絵はには、ボタンの花が描いてて、それは東本願寺の寺紋がボタンの花だからのようです。「園林」とは、元来、中国宮廷に設けられた庭園の意であるが、仏典では「浄土」を表す表現として用いる。
庭園内には珍しい楼門作りで、左右側面に山廊と呼ばれる階段の入口があり、階上には四畳半の部屋を設けている。部屋の天井中央には磁石板に十二支を配した珍しい図様が描かれている。奔放で軽快な構成と穏やかな数奇屋造の手法を兼ね備えた、園内でも特に個性的な建築である。
上から見ると亀の形に石組みが成され、亀の甲にあたる部分が掘り込まれて中心に井筒が埋められており井戸になっている。
南面に建つ煎茶席。代笠席とは、人里離れた地を訪れた旅人が「笠代わり」に雨宿りする席という意味だと考えられる。前面に間口が三間あり、深さ半間の土間と小縁が設けられ、内部は四畳半二室が東西に並ぶ。
印月池の水源の一つで、古くは高瀬川の水が引かれていた。現在は地下水を汲み上げて、流れとしています。通常見られるような滝の石組みではなく、山腹から湧き出す泉のような形式に造られている点が、渉成園の中でも大変珍しい。
北大島と「丹楓渓(たんぷうけい)」とを結ぶ木橋。1858年(安政5年)の「安政の大火」における焼失以前は、朱塗りの欄干を持つ反り橋だったと伝わる。現在は檜皮葺の屋根を持つ橋と変わりました。中央の唐破風屋根の天井部には掛け釘が設けられ、かつては夜半の来客の折り、金灯籠を吊って火を灯した。
石幢というのは通常の石灯籠と違って、笠の部分に蕨手と呼ばれる竿に節が無いなどの特徴がある。火袋にあたる部分は平面が六角形の仏像を安置するための龕となっている。
西側の土間から奥に入ると茶室がり、四畳間が付く構成となっている。南端から斜めに続く板間を経て三畳敷の上段の間が連結れさ、上段は床を高く支えた舞台造りとなっている。
六条河原院は、源融が宮城県塩釜市の風景を模して造成したと言われ、庭園には「塩釜の手水鉢」と呼ばれる筒型の鉢が残されている。石造宝塔の塔身を手水鉢に転用したもので、鎌倉時代の制作とみられる。
印月池の西北岸から縮遠亭のある島へ渡る木造の反橋。頼山陽は、「渉成園記」のなかで雪の積もった橋のありさまを玉龍にたとえて表現している。
9時50分頃に、もう一度トイレを済ませてから、今日は重信会館が目的だったで向かいました。驚いたことに、既に10名ぐらいの方が並ばれていましたね。
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