小さな桂離宮と称される曼殊院門跡「春の特別公開」へ

5月14日(木)頃から快晴の天気が続き、5月16日(土)には最高気温が30.0℃となり真夏日を記録しました。5月17日(日)には最高気温が32.0℃となり2日続けての真夏日を記録。そして5月18日(月)には最高気温が34.0℃まで上がりました。これは梅雨明けしたあとの気温と同等で、まだ5月というのに記録的な高温となりました。全国的には 大分県日田市と兵庫県豊岡市が35.3℃まで上がり、近畿地方で5月に猛暑日を記録するの初めてだそうです。

京都市では天気予報では34℃まで上がるとの予報が出ていたので当たったわけです。熱中症の警戒区分では注意でした。と言うのも、この時期は湿度が低いのと、朝の気温が低いからだそうです。この日の最低気温は15.8℃と比較的涼しさを感じてました。

この日は、当初からこの週に曼殊院門跡春の特別公開」に行くのを決めていて、あとは何時行くか前週から考えてました。行くなら天気が良い日に行きたかったので、晴れが期待できるのが5月18日(月)だったわけです。あと曼殊院門跡はサツキの名所でもあるので、それも期待してました。

曼殊院門跡には2023年(令和5年)5月23日(火)に「国宝 秘仏黄不動尊修復記念」で来ましたが、この時は三条京阪からタクシーを利用しました。車で来たのは、2017年(平成29年)5月3日(水・祝)にキリシマツツジを見に来て以来です。

車は白川通りから曼殊院通りに入り、後は道なりです。道路幅は狭いので気を遣いますが、ここまで来る時の道路も混雑しなかったので予定より早く着きそうになって、ここで停まりました。

IMG_0230.jpgちょぅど「武田薬品工業株式会社 京都薬用植物園」の前で停めました。この植物園には行ったことがありませんが不定期で見学会されているようです。

IMG_0233.jpg車から降りてみて気づいたんですが、結構な登りなんですね。振り向いたら京都市街地が見えました。

IMG_0234.jpg8時42分に曼殊院門跡の駐車場に車を入れました。こちらは自家用車専用で、まだ1台も停まってません。

IMG_0235.jpgこちらがタクシー専用の駐車場でした。ここは紅葉の名所だけに青モミジが綺麗です。

IMG_0236.jpgこの案内の通り、少し登った先に拝観受付所が通用門があります。まだ早いので行きません。

IMG_0237.jpgIMG_0238.jpg先ずは「勅使門」を見に行きました。一般の方は通れません。高い石段の上に西に面して立つ曼殊院の正門で、皇族の関係者のみが通行を許される。天皇皇后両陛下行幸とあるのは現在の上皇皇后陛下だと思います。

IMG_0242.jpg2017年(平成29年)5月3日(水・祝)以来の「曼殊院天満宮」に行きました。

IMG_0241.jpg向かって右が菅原道真公を祀る「天満宮」で曼殊院の鎮守堂にあたります。そして左側が「弁天堂」で弁財天が祀られています。

弁天堂は、比叡山東塔の無動谷にある無動弁財天の前堂として創建され、比叡山に登る体力のない人がお参りできようにと創建されたとか。この時間でも、ご近所さんが犬を連れての散歩に来られてました。まだ時間が早かったけど受付に行くことにします。

IMG_0244.jpgIMG_0243.jpg8時51分でしたが、ここで待つことにしました。さすがに紅葉のの時期では無いので、待たれる方は私を含めて2組だけでした。

IMG_0245.jpgただ、以外なことに8時55分頃に開門されました。拝観料の1000円を納めて「庫裏」(重文)から入ります。

曼殊院は、延暦年間(782~806)、宗祖伝教大師最澄により、鎮護国家の道場として比叡山西塔北谷に創建され東尾坊と称した。その後、天暦年間(947~957)に住持の是算(ぜさん)国師のとき北野天満宮が造営されると、是算国師が菅原家の出生であったことから、初代別当職に補され、以後明治維新まで900年間曼殊院は北野別当職を歴任した。平安時代後期の天仁年間(1108~1110)になり東尾坊を改め曼殊院と称し、北野天満宮管理のため北山に別院を建立。その後御所内公家町に移転し、1656年(明暦2年)になり、桂離宮を創始された八条宮智仁(としひと)親王の第二皇子良尚(りょうしょう)法親王が入寺され、現在の地に堂宇を移し造営されたのが今日の曼殊院である。

IMG_0306.jpg靴を脱いで上がると右手から見ていきます。最初は特別公開の「竹の間」から。襖は江戸時代(1700年頃)、竹と雲の模様をあしらった木版画(唐紙)だそうです。

IMG_0305.jpgIMG_0303.jpgIMG_0302.jpgこの「竹の間」から見えるのが「勅使門」です。皇族の方々がご参詣の際にのみ用いられるものです。皇族の方々は「虎の間」を通られ、お供の方々は「竹の間」から入られたようです。

次に写真はありませんが重要文化財に指定されている「虎の間」です。襖絵は狩野永徳と伝わる障壁画で、襖4面に竹や竹林で竹を噛む虎(オス)と豹(メス)が描いてある。

同じく大玄関にある「孔雀の間」の障壁画は岸駒(がんく)筆。親子の孔雀を南画風に描く。江戸中期の作。

IMG_0248.jpg次に「上之台所」に入りますが、その前に寄って行きます。

IMG_0249.jpg谷崎潤一郎寄贈の鐘」と書いてありるので寄りました。以前には「あさゆふのかね能ひびきに吹きそえよ 我たつ杣乃やまおろし能かぜ」の張り紙もありました。

上之台所」では、貴人や住職などの食事を作る台所のことです。寺院には通常の台所としていわいる「庫裏」があるが、曼殊院には、創建当初より賓客をもてなすための「上之台所」が設けられた。一つの寺院に、このように二つの台所がともに残る例としては唯一ものものであり、親王が住持した門跡寺院の特徴である遺構のようです。

IMG_0252.jpg良尚法親王の御寝所であった「御座の間」を通り抜けます。こちらには良尚法親王宸筆の屏風が見られました。

IMG_0254.jpgIMG_0255.jpgIMG_0256.jpg中庭」を見てから「丸炉の間」に入りました。こちらには大徳寺の春屋(しゅんおく)宗園による「寒更」の額が掲げられ丸炉(がんろ)をともなう水屋がありました。

次は「宿直(とのゐ)の間」で、高僧や門跡の警護にあたる者が控えていた部屋だったようです。ここにも良尚(りょうしょう)法親王直筆の屏風の展示がありました。

IMG_0262.jpgIMG_0263.jpg次に「小書院」(重文)へ。江戸時代の1656年(明暦2年)建立。こちらには「黄昏の間(上段の間)」と「富士の間」がありました。

黄昏の間((上段の間)」の襖は狩野探幽筆。違い棚は曼殊院棚と呼ばれ、約10種類の寄せ木で作られた。「富士の間」の襖は狩野探幽筆。額は松花堂昭乗(閑静亭)、欄間は菊型で元禄模様の先駆けをなすものと云われる。

IMG_0268.jpg小書院前にある「梟の手水鉢」は、下の台石は亀、傍らの石は鶴をかたどっている。

IMG_0269.jpg小書院の釘隠しは「富士の形」に七宝の雲を配したものです。扁額は「閑酔亭(かんすいてい)」で、松花堂昭乗筆。

IMG_0271.jpgIMG_0272.jpgIMG_0273.jpgIMG_0274.jpg曼殊院の「書院庭園」は名勝庭園指定で、小堀遠州好み。大書院と小書院の南に展開し、白砂敷の上に大小三つの中島が築かれている枯山水庭園です。

IMG_0277.jpgIMG_0281.jpg次に「大書院」に入りました。普段は入室できません。特別に庭に向かっての写真撮影も許可されました。

大書院」(重文)は、江戸時代初期の数寄屋風書院建築で、この時代に造られた書院建築を代表するものである。奥の仏間は明治までは付書院をもつ「上段の間」であった。本尊は阿弥陀如来、歴代の位牌を安置する。また桂離宮と相通ずるものが多く、特に引手(瓢箪、扇、巻物、鞕など)や釘隠しは意匠を凝らしてあり、桂離宮と同じく金具師の嘉長(かちょう)作である。また、掛け軸の「良尚法親王像」(江戸時代 絹本著色)と「智仁親王像」(江戸時代 絹本著色)が架かってました。

大書院「瀧の間」の障壁画は江戸時代初期の狩野探幽筆。床の間の中央に瀧の絵があった。欄間は桂離宮の新御殿にある欄間「月の字崩し」を少し変えたもので「月型卍崩し」と呼ばれている。床の間には「法華経塔」が安置されてました。

大書院「十雪の間」の障壁画は江戸時代初期の狩野探幽筆。違い棚は様式、用材ともに桂離宮と同じで、同時期に作られたものと云う。

IMG_0284.jpgIMG_0288.jpg最後は「客殿」です。2022年(令和4年)5月に150年振りに復興再建されました。

宸殿とは歴代天皇・皇室関係者の位牌をまつる門跡寺院では中心となる施設である。大書院、小書院と同じく明暦年間に建立された旧寝殿を復興したもので、公家の文化を今に伝える造りとなっている。

IMG_0289.jpg宸殿の正面に行く前に、左手にあるのは「護摩堂」です。

IMG_0291.jpgIMG_0292.jpgIMG_0293.jpg宸殿内は撮影できません。2023年(令和5年)5月23日(火)に、「国宝 秘仏黄不動尊修復記念」で特別公開を見せて貰いお参りさせて貰いました。

宸殿前庭は「盲亀浮木之庭(もうきふぼくのにわ)」といい、大海に住む目の見えない亀が、100年に一度息継ぎのために頭を出した。そこへ風のままに流されて来た節穴のある流木の木片が流れてきて、その穴に偶然にも頭がすっぽりはまという。それほど仏教に巡り合うこと、また人間に生まれることは難しいということを表しています。その流木に見立てた、向かって左の岩は天然記念物の貴船岩である。

客殿に入って右手の部屋から。ここには国宝黄不動明王像」が架かってました。2023年(令和5年)5月23日(火)「国宝 秘仏黄不動尊修復記念」では直ぐ側まで行けましたが、今日は廊下側からでした。凄く遠かったです。ここでは、新たに4年の歳月をかけて作成された模写の「黄不動」があるので多分それでしょう。

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2023年(令和5年)5月23日(火)「国宝 秘仏黄不動尊修復記念」で購入したものです。この公開終了後は京都国立博物館に寄託され保存されます。今、ここで見ているのは模写のものです。

国宝「黄不動明王像」(平安時代後期)は、838年(承和5年)当時25歳であった智証大師圓珍(814~891)が洞窟で坐禅している時、手に利剣(りけん)をとり虚空(こくう)を踏んで出現した金人の姿を写したと伝えられる園城寺(三井寺)の黄不動を原本として模したのが、この黄不動である。両眼を張り裂けんばかりに見開き弁髪(べんぱつ)を垂らさず旋毛(つむじ)の頭髪、耳璫(じとう)、瓔珞(ようらく)、腕剣(わんけん)、足釧(そくせん)についた鈴の描写は珍しい。更に筋肉隆々とした肉身と裳から出た膝と脛の描写は不動明王の逞しさを表現して特色がある。原本に比して豊麗(ほうれい)な装飾性が強く平安時代後期の趣向が濃厚である。足の親指が反り返った満身の力強さの表現と迫真性は若き圓珍の激しい求道の末に感得した「黄不動」の尊容を良く伝えたものである。

次の部屋には「阿弥陀如来坐像」(重文)(平安時代)が真ん中に安置されてて、周りには歴代天皇・皇室関係者の位牌も安置されてました。

最後の部屋には、大書院から移された仏像が安置されてました。重要文化財に指定されている「慈恵大師像」、「良源像」、“おみくじの祖“として知られる「元三大師像」や、「薬師如来坐像」、「大日如来坐像」、そして大書院に祀られていた本尊の「阿弥陀如来立像」が安置されていたのでお参りしました。

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足早に巡ったので、もう一周するつもりでした。ただ次の所も人気があるので出て行くことに。最後に「竹の間」の御朱印をいただきました。

IMG_0307.jpgIMG_0308.jpg9時15分に曼殊院の駐車場に戻り出て行きました。このような山間にある寺院なんでクマが出て来ないか心配です。(目撃情報はありませんが)

余談ですが、京都府各地は18日(月)は、よく晴れて季節外れの暑さとなり、5月の観測史上最高気温を記録した地点が続出しました。京都地方気象台によると、午後5時までの最高気温は、宮津市34・6℃、舞鶴市34・4℃、京都市中京区と福知山市34℃、京田辺市33・8℃、南丹市園部町33℃、南丹市美山町32・7℃で、真夏並みかそれ以上の暑さとなりました。京都府各地で5月の最高気温記録を更新し、宮津市と福知山市、京田辺市は観測史上1位、南丹市美山町は観測史上1位タイとなった。5月としては、舞鶴市も史上2位、京都市は史上3位の高温だったようです。

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