廬山寺の源氏庭に桔梗が咲く
平安神宮を出て、岡崎公園駐車場を出ます。入る時は二条通りですが、出る時には冷泉通りが出て、岡崎通りを北上し丸太町通りにでます。このあと西に向いて走り、東大路通り、川端通り、鴨川、河原町通りを超えた最初の寺町通りを右折し北上。次の目的地に近いフルーツパーク 寺町広小路に9時12分に車を入れました。
この日平安神宮の次に向かったのが、桔梗(キキョウ)で有名な廬山寺で、紫式部邸宅址としても知られています。

駐車場を出て寺町通りを北に上がり9時15分に廬山寺南門の「薬医門」に着きました。
廬山寺北門は「高麗門」で学生さんが多く集まってます。廬山寺に入られるのかどうか分かりませんが・・・。


学生さんが来られるのかどうか気になるところ、私は「本堂玄関」から靴を脱いで下駄箱に預け上がりました。
入ると正面に「紫式部像」が。その奥に拝観受付所があって、拝観料500円と御朱印代700円を納め堂内へ。
桔梗の特別御朱印は5種あって、2種が売り切れてました。私は残り3種から選んだわけです。
堂内に入る前に受付の方より「写真撮影は庭園のみです」と。何度かきているので知ってました。先ずは庭を見てみます。

入ると「源氏庭」に「桔梗(キキョウ)」が見事に咲いています。何度か来ていて、一番綺麗でしたね。




平安朝の庭園を模して作られ、白砂と苔の庭には、「桔梗(キキョウ)」が9月頃まで咲き続けるようです。
急ぐことでも無かったので、庭の手前で座り寛いでいると、廬山寺の執事さんが引き連れて来られました。多分10名ぐらいでしょうか、案内を始められたので、私も聞くことができました。
廬山寺は、天台圓浄宗の大本山で、正式にはは廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)という。元三大師良源(がんざんだいしりょうげん)により宮中に参内する宿坊として938年(天慶元年)に京都の北、船岡山の山麓に開いた輿願金剛院が始まりとされる。元三大師良源は、第十八世天台座主になられた方で、比叡山の復興に努められ、命日が正月3日であることから元三大師と呼ばれるようになった。その後、1245年(寛元3年)住心房覚瑜上人らよって、廬山寺は出雲路に開かれるが、南北朝時代に輿願金剛院(よがんこんごういん)と廬山寺の二ヶ寺を兼務した明導照源(みょうどうしょうげん)上人により統合され、この時より廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場となった。その後、応仁の乱の兵火に遭い伽藍は焼失してしまい、1571年(元亀3年)の織田信長の比叡山焼き討ち時に、危機に扮するが、正親町天皇(第106代天皇)の勅命により危機を免れた。元々廬山寺は船岡山の山麓にあったため、その前の通りは今でも「廬山寺通り」と呼ばれており、現在のこの場所に移転してきたのは1573年(天正元年)と言われている。時代は遡り1965年(昭和40年)に歴史学者・角田文衞博士により、紫式部の邸宅址であることが判明した。こちらの邸宅は紫式部の曾祖父藤原兼輔(三十六歌仙のひとり)が邸宅を構え、その広い邸宅は鴨川の西側の堤防沿いにあったため、堤邸と呼ばれ兼輔は、堤中納言(つつみちゅうなごん)と呼ばれていた。そのため、ここの庭園は整備され「源氏の庭」と名付けられ、桔梗が綺麗に咲き誇こる。本堂は、1708年(宝永5年)と1788年(天明8年)に火災に見舞われ焼失しする。1794年(寛政6年)光格天皇(第119代天皇)が仙洞御所の一部を移築し再建されたものである。これは光格天皇の父親・閑院宮典仁親王の葬儀を執り行うためでした。ご本尊は阿弥陀三尊像で、中央に阿弥陀如来(重文)、右に観音菩薩(重文)、左に勢至菩薩(重文)が祀られており、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて造立され定朝様式たと言われている。明治維新まで宮中の仏事を司る御黒戸四箇院(二尊院・遣迎院・般舟院・廬山寺)でした。




約15分ぐらい話され、学生さんたちは写経に行かれたようです。コインパーキングに止めているので早々に出たかったんですが・・・😊。

私も庭園を離れ、ご本尊にお参りです。案内で知ったことは、観音菩薩像と勢至菩薩像は大和座りをされているのが特徴。これは臨終の際にいち早く駆けつけ、ともに西方の極楽浄土におられる阿弥陀如来の元にお連れすると言われてました。
庭園の向かって左にあるのが「尊牌殿(そんぱいでん)」という御尊碑を安置する堂です。祀られているのは光格天皇(第119代天皇)と、その妃にあたる新清和院(しんせいわいん)皇后だそうです。ご住職など限られた人しか入れないと説明を聞きました。
あと寺宝は、2024年(令和6年)3月14日(水)の「第58回 京の冬の旅」で見たのと同じです。



今日は特別公開でなので、「元三大師堂」には入れません。写真はその中庭です。紫陽花が咲いてました。

9時47分に玄関から出ました。学生さんは写経に行かれたようで声だけ聞こえてました。
本堂玄関前にあった「紫式部歌碑」です。「有馬山 いなのささ原 風吹けば いでそよ人を忘れやはする」(大貳三位)、「めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに 雲隠れにし 夜半の月かな」(紫式部)とあります。


9時50分頃に廬山寺を出ました。ここから直接コインパーキングに向かいます。
フルーツパーク寺町広小路に戻って精算しようとしたら、私が止めた番号が押せません。フリーダイヤルに電話して対応して貰ってる最中に、番号が押せました。9時12分~9時56分、440円もしました。もう少し安い所に止めたら良かったと思いましたが仕方ないです。ここから帰りました。
この日平安神宮の次に向かったのが、桔梗(キキョウ)で有名な廬山寺で、紫式部邸宅址としても知られています。
桔梗の特別御朱印は5種あって、2種が売り切れてました。私は残り3種から選んだわけです。
堂内に入る前に受付の方より「写真撮影は庭園のみです」と。何度かきているので知ってました。先ずは庭を見てみます。
急ぐことでも無かったので、庭の手前で座り寛いでいると、廬山寺の執事さんが引き連れて来られました。多分10名ぐらいでしょうか、案内を始められたので、私も聞くことができました。
廬山寺は、天台圓浄宗の大本山で、正式にはは廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)という。元三大師良源(がんざんだいしりょうげん)により宮中に参内する宿坊として938年(天慶元年)に京都の北、船岡山の山麓に開いた輿願金剛院が始まりとされる。元三大師良源は、第十八世天台座主になられた方で、比叡山の復興に努められ、命日が正月3日であることから元三大師と呼ばれるようになった。その後、1245年(寛元3年)住心房覚瑜上人らよって、廬山寺は出雲路に開かれるが、南北朝時代に輿願金剛院(よがんこんごういん)と廬山寺の二ヶ寺を兼務した明導照源(みょうどうしょうげん)上人により統合され、この時より廬山天台講寺と改め、円、密、戒、浄の四宗兼学道場となった。その後、応仁の乱の兵火に遭い伽藍は焼失してしまい、1571年(元亀3年)の織田信長の比叡山焼き討ち時に、危機に扮するが、正親町天皇(第106代天皇)の勅命により危機を免れた。元々廬山寺は船岡山の山麓にあったため、その前の通りは今でも「廬山寺通り」と呼ばれており、現在のこの場所に移転してきたのは1573年(天正元年)と言われている。時代は遡り1965年(昭和40年)に歴史学者・角田文衞博士により、紫式部の邸宅址であることが判明した。こちらの邸宅は紫式部の曾祖父藤原兼輔(三十六歌仙のひとり)が邸宅を構え、その広い邸宅は鴨川の西側の堤防沿いにあったため、堤邸と呼ばれ兼輔は、堤中納言(つつみちゅうなごん)と呼ばれていた。そのため、ここの庭園は整備され「源氏の庭」と名付けられ、桔梗が綺麗に咲き誇こる。本堂は、1708年(宝永5年)と1788年(天明8年)に火災に見舞われ焼失しする。1794年(寛政6年)光格天皇(第119代天皇)が仙洞御所の一部を移築し再建されたものである。これは光格天皇の父親・閑院宮典仁親王の葬儀を執り行うためでした。ご本尊は阿弥陀三尊像で、中央に阿弥陀如来(重文)、右に観音菩薩(重文)、左に勢至菩薩(重文)が祀られており、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて造立され定朝様式たと言われている。明治維新まで宮中の仏事を司る御黒戸四箇院(二尊院・遣迎院・般舟院・廬山寺)でした。
あと寺宝は、2024年(令和6年)3月14日(水)の「第58回 京の冬の旅」で見たのと同じです。
フルーツパーク寺町広小路に戻って精算しようとしたら、私が止めた番号が押せません。フリーダイヤルに電話して対応して貰ってる最中に、番号が押せました。9時12分~9時56分、440円もしました。もう少し安い所に止めたら良かったと思いましたが仕方ないです。ここから帰りました。
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