芭蕉・蕪村・村山たか女ゆかりの佛日山 金福寺へ
7月3日(金)は、2022年(令和4年)5月19日(木)以来の佛日山 金福寺に行きました。
金福寺は、今年の5月18日(月)に訪れた詩仙堂の近くにあります。この日、訪れるきっかけになったのは金福寺さんがX(旧Twitter)で、「桔梗(キキョウ)」が見頃になったと発信されているのを見たからです。
この日は遠方のため車で出掛けました。5月18日(月)に来ているのでナビは不要です。一乗寺釈迦堂パーキングに8時48分、車を入れました。

車から降りると目の前に「八大神社 一の鳥居」がありました。八大神社には5月18日(月)に来ています。
ここから登りはきついです。今年の5月18日(月)に詩仙堂まで来てますが、その時は詩仙堂前のコインパーキングに止めたので、この登り坂は分かりませんでした。
この看板が目印で、南に歩いて行きます。道幅は狭くて車でも行けそうですが歩いて向かうことを選択しました。
途中の左手には「本願寺 北山別院」があって西本願寺の別院で、親鸞聖人ゆかりの地です。ただ金福寺が目的地のため寄りません。
8時57分に金福寺に着きました。ただ開門はされてません。9時開門まで待つことにします。
ここに車を止められることは知ってましたが、道幅が狭いのと、次に圓光寺に行くつもりにしていたので前途したコインパーキングを利用したわけです。
小説『花の生涯』のヒロインである「村山たか女」創建の弁天堂の入口ですが、ここは開きません。後程、拝観はさせて貰いました。
9時になっても門が開かないので焦りました。帰ってから知ったんですが、水曜日と木曜日は拝観を休止されていたようで、知らずに来てて冷や汗もんでした😥。9時2分に開門されました。
佛日山(ぶつにちざん)金福寺(こんぷくじ)は、864年(貞観6年)安恵僧都(あんねそうず)が円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ創建。慈覚大師自作の聖観音像を本尊として安置し国家安泰、衆生救済を念じて創建された。もとは天台宗の寺院でしたが、その後、一時荒廃していたのを江戸中期に圓光寺の沢雲長老の法嗣(ほうし)鉄舟(てっしゅう)和尚が再興し、現在は臨済宗南禅寺派となり現在に至っている。松尾芭蕉が鉄舟と親交を深めたという芭蕉庵は荒廃したが、のちに与謝蕪村が再興。背後の丘に与謝蕪村ら近世の俳人の墓や句碑がある。また、舟橋聖一作歴史小説「花の生涯」や諸田玲子の「奸婦にあらず」のヒロイン村山たか女は1862年(文久2年)、勤皇の志士によって三条河原で晒し者にされたが、3日後助けられて金福寺に入り尼として1876年(明治9年)まで14年間過ごし、当寺で生涯を終った。本堂では与謝蕪村と村山たか女の遺品が拝観できる。庭園は皐月の築山と白砂の簡素な枯山水。3段の生垣ごしには素朴な趣の芭蕉庵の萱葺き屋根が見える。芭蕉庵からは洛中が一望できる。
拝観料は500円、御朱印は700円を納め、先ずは庭園を散策します。御朱印のデザインは芭蕉庵です。

芭蕉庵と書かれた扁額の架かる柴折戸をくぐる庭園に出ます。
庭園を見ると本堂前に「桔梗(キキョウ)」が見事に咲いてます。


ここから「本堂」に上がって「桔梗(キキョウ)」を撮りました。本堂から庭に降りられるエリアが決まってて、そこから知った次第です。
金福寺は松尾芭蕉と与謝野蕪村なゆかりのある俳句の聖地として知られている。この石碑には「花守は野守に劣る今日の月」(蕪村)、「西と見て日は入りにけり春の海」(百池)と書かれています。百池とは江戸時代の俳人寺村百池(てらむらひゃくち)のこと。

ここから芭蕉庵に向かいます。場所は小高い所にあります。そして下から見ると皐月の刈り込みが綺麗に見えます。


ご覧のように「本堂」前に「桔梗(キキョウ)」を植えられ、見事に満開です。拝観受付所で案内されたとおり、ここを降りて来てから堂内に入ります。



登り切ると分岐点があって、私は先に右手の「芭蕉庵」に向かいます。





今では珍しい茅葺き屋根の「芭蕉庵」。庵内は見学できますが、上がることは出来ません。
芭蕉庵は鉄舟和尚と親交のあった松尾芭蕉が寺を訪れたゆかりから、和尚はは「芭蕉庵」と名付けた。その後、85年ほどして与謝野蕪村が当寺を訪ねた頃には荒廃していた。その荒廃を大変惜しみ一門と共に、1776年(安永5年)に再興した。以来、俳句愛好家から親しまれている。
芭蕉庵を離れる時、松尾芭蕉の句碑がありました。「憂きわれを さびしがらせよ 閑古鳥」。
その後ろには「芭蕉の碑」があって、蕪村や道立(どうりゅう)が建てたもので芭蕉の生涯を称える文が刻してあるそうです。芭蕉は碑の建立時に「我も死して碑に辺(ほとり)せむ枯尾花」と詠み残していたので望みどおり後丘の墓に納骨された。
こちらは「翁の水」といい、鉄舟和尚が芭蕉をもてなした時に使ったと伝えられる井戸。
こちらは中川四明の俳句で「時雨るるや軒の千菜の錣(しころ)釣り」と書いてあります。
中川四明(1849~1917)、京都生まれ。正岡子規・大谷句仏師の先輩にあたり、1896年(明治29年)京都と大阪の俳人初集団たる京都満月会を興し、1904年(明治37年)に俳誌「懸葵」を刊行した。京都に於ける明治、大正時代の文芸の元老として重きをなし、その作品には京都情緒をたたえたものが多く、金福寺をしばしば訪れ句を残した。
「松村呉春の碑」。舎弟の松村景文(1779~1843)が建てた。松村呉春(まつむらごしゅん)(1752~1811)、江戸中期の画家、四条派の祖だそうです。

次に「与謝野蕪村の墓」まで登ります。けっこうきつい登りが続きました。
こちらは「穎原退蔵筆塚」です。穎原退蔵(えばらたいぞう)(1894~1948)は九州五島の生まれ。京都大学文学部の教授で著書も多く近世文学特に芭蕉、蕪村、徘徊に関する学問的業績が立派だった。筆塚の文字は新村出先生である。
さらに登ったところに、石碑があって「青木月斗」と書いてあります。
青木月斗(あおきげっと)(1879~1949)、本名は青木新護、大阪の人、俳句を正岡子規に学び精進し大阪俳壇の重鎮であった。満月会に加わり、後に三日月会を起こした。1899年(明治32年)俳誌「車百合」を創刊。後に「カラタチ」、更に1920年(大正9年)、「同人」と改題して、晩年までこの指導に当たった。その句風は平明で至味があると言われている。ここ金福寺詠んだ句「蕪村の墓に隣して寝る霜夜かな狸追いし和尚の話夜半(よわ)の冬提灯で墓へ参りぬ星冴(さ)ゆる」と書いてありました。

ここが「展望所」のようです。京都市街地を見渡せます。看板に書いてあるように見えないですね、分かったのは愛宕山、舟形、左大文字ぐらいです。
最後に、この急な石段を登って「与謝野蕪村の墓」に行きます。
その前に、高浜虚子(1874年~1959)が蕪村の墓に参られての句が書いてありました。「ゆく春や京を一目の墓どころ」。

金福寺裏山の小高い所に「与謝野蕪村の墓」がありました。墓石の字は雨森章廸(あめのもりしょうてき、1732〜1786)で江戸後期の医者・書家。
与謝野蕪村(1716~1783)は江戸時代中期の俳人、画家。現在の大阪市に生まれ、20歳の頃に江戸に出て早野巴人(はやのはじん、1676~1742)の弟子となり俳諧を学ぶ傍ら誌、書、画の研鑽に励んだ。師の没後に奥羽一円を修業遍歴の後、36歳で京都に上る。39歳から3年間丹後で画業に専念し、後に姓を与謝野と改めた。51歳で讃岐に渡り一層画技を磨き池大雅、円山応挙と並び賞されるようになった。俳画を得意とし軽妙な仮名書きをともなった俳趣に富む誌書画一体の酒脱な絵画世界を開拓した。晩年は当寺で度々句会を催した。絵画の代表作には「十宣之図」(国宝)、「奥の細道図巻」(重文)、「夜色楼台図」(国宝)などその他多数あり。
お隣が「江森月居の墓」です。京都の人。蕪村門下の高弟で几董と共に双璧と言われた人物。
江森月居(えもりげっきょ、1756~1824)は京都生まれ。与謝野蕪村門下の高弟で高井几董と共に双璧と云われた。1790年(寛政2年)二条家俳諧の会に召され百韻(ひゃくいん)の連句を興行した一人である。蕪村没後は一門を統率して京阪地方に勢力をきづいた。「朝霧にまぎれて出む君が門」「敗軍の五六騎簔をうちかつぎ」。
こちらが「𠮷分大魯(よしわけたいろのはか、?〜1778)の墓」で、徳島の藩士、蕪村門下、個性豊かな俳人。「春が来た梅じゃ芝居じゃうかれ人」「うぐいすの舌ほど枝の雫(しづく)かな」「香の音水の音しぬ二月堂」「田の蛙ぬるるほどの水に啼」。
こちらが「森川魯文の墓」で、京都の人、四条派の画家、長谷川王峯に学ぶ、各種の展覧会で受賞を重ね名声を上げた。京都府画学校(現京都芸大)の経論も務めた。門人に三宅呉暁、深田直城などあり。墓石表裏の字は富岡鉄斎の筆によるもの。
右が「呉月渓(呉春)の墓」、左が「呉景文の墓」とありました。
呉月渓(呉春)(1752~1811)の本姓は松村(まつむら)、名は豊昌(とよまさ)、字を裕甫(ゆうほ)、のち伯望(はくぼう)、通称を嘉左衛門と云い、京の生まれで京の金座の役人をしていたが、20歳の頃辞職して画を大西酔月に学んだが、のち蕪村の内弟子となって画、俳道を研修した。その後摂津池田に仮寓居していたが、師蕪村の死に際して後事を託され、1789年(寛政元年)京に居を定めた。その居が四条東洞院にあったので画業での系統を四条派と云う。
呉景文(1779~1843)は、月渓の弟で、絵を兄に学び、風景・花鳥に妙を得ていた。光格天皇の御引立を蒙り法眼の位を頂き御所の襖絵に多くの名作を残した。


「呉月渓(呉春)の墓」、「呉景文の墓」から下ります。2022年(令和4年)5月19日(木)に来たときは、「村山たか女の参り墓」に行けたように記憶してますが、行けなかったのか行くことを忘れてたのか・・・。



下って行くと、再び「芭蕉庵」に出ますが、帰りは寄りません。ここから降りて本堂に入ります。


ここから本堂に靴を脱いで上がりました。上がると、もう一度「桔梗(キキョウ)」を撮ってみます。


右手前、石に囲まれているエリアには降りることができます。



降りられるエリアが狭いので、早々に上がって堂内の寺宝を見せて貰いました。


本堂に入って、寺宝を見ました。こちらの掛け軸は、与謝野蕪村が64歳のとき、当寺のために描いた「芭蕉翁像」です。
こちらの絵は複製ですが、国宝「夜色楼台図(やしょくろうたいず)」で与謝野蕪村が描きました。
寺宝は、2022年(令和4年)5月19日(木)に来たときと変わらないように思いました。お隣の仏間にてお参りは済ませました。
本堂を出て、金福寺を出て行く前に、村山たか女が創建した「弁天堂」に寄りました。2022年(令和4年)5月19日(木)では工事中で見られなかったです。
舟橋聖一作歴史小説「花の生涯」のヒロインである村山たか女(妙壽尼)が(慶応3年)に創建したのが当寺の弁天堂である。村山たか女は、1809年(文化6年)の己巳(きみ)の年に生まれた。巳(白い蛇)は弁天様のお使いとされているので、たか女は弁天さんを深く信仰していたものと思われる。村山たか女は、井伊直弼が彦根城の埋木舎で不遇な部屋住み生活をしてした頃の愛人であった。たか女は京都において幕府の隠密(スパイ)となり、攘夷論者達(薩摩・長州・水戸藩の浪人、公家)の動向を探索し、その情報を長野主膳を通じて幕府(大老)に密報することで「安政の大獄」に加担した。そのため、たか女は勤王方から大変恨まれ、井伊大老が1860年(安政7年)の「桜田門外の変」で暗殺されると、勤王の志士に捕らえられ、京都三条河原で生晒にされたが、3日後に助けられ、1862年(文久2年)に尼僧となって金福寺に入り、名を「妙壽」と改め、14年間の余生を送り1876年(明治9年)に67歳の波瀾の生涯を閉じた。
2022年(令和4年)5月19日(木)に来たとき、工事中のためご本尊は本堂に祀ってあったので間近で見られました。
帰る時に、この「蹲踞」を見ると、龍安寺にある蹲踞と同じで、書いてあるている文字は「吾唯足知(われただたるをしる)」ですね。
9時25分頃に金福寺を出ました。門が開いている写真を撮りたかったけど、お寺の方が清掃されていたので断念しました。
金福寺を出て、来た道を戻り、また少しだけ登ります。その先に次の目的地である圓光寺の案内が出ています。金福寺も空いてましたが、次の圓光寺も空いていたらと思いながら歩いて行きました。
金福寺は、今年の5月18日(月)に訪れた詩仙堂の近くにあります。この日、訪れるきっかけになったのは金福寺さんがX(旧Twitter)で、「桔梗(キキョウ)」が見頃になったと発信されているのを見たからです。
この日は遠方のため車で出掛けました。5月18日(月)に来ているのでナビは不要です。一乗寺釈迦堂パーキングに8時48分、車を入れました。
ここから登りはきついです。今年の5月18日(月)に詩仙堂まで来てますが、その時は詩仙堂前のコインパーキングに止めたので、この登り坂は分かりませんでした。
9時になっても門が開かないので焦りました。帰ってから知ったんですが、水曜日と木曜日は拝観を休止されていたようで、知らずに来てて冷や汗もんでした😥。9時2分に開門されました。
佛日山(ぶつにちざん)金福寺(こんぷくじ)は、864年(貞観6年)安恵僧都(あんねそうず)が円仁(慈覚大師)の遺志を継ぎ創建。慈覚大師自作の聖観音像を本尊として安置し国家安泰、衆生救済を念じて創建された。もとは天台宗の寺院でしたが、その後、一時荒廃していたのを江戸中期に圓光寺の沢雲長老の法嗣(ほうし)鉄舟(てっしゅう)和尚が再興し、現在は臨済宗南禅寺派となり現在に至っている。松尾芭蕉が鉄舟と親交を深めたという芭蕉庵は荒廃したが、のちに与謝蕪村が再興。背後の丘に与謝蕪村ら近世の俳人の墓や句碑がある。また、舟橋聖一作歴史小説「花の生涯」や諸田玲子の「奸婦にあらず」のヒロイン村山たか女は1862年(文久2年)、勤皇の志士によって三条河原で晒し者にされたが、3日後助けられて金福寺に入り尼として1876年(明治9年)まで14年間過ごし、当寺で生涯を終った。本堂では与謝蕪村と村山たか女の遺品が拝観できる。庭園は皐月の築山と白砂の簡素な枯山水。3段の生垣ごしには素朴な趣の芭蕉庵の萱葺き屋根が見える。芭蕉庵からは洛中が一望できる。
拝観料は500円、御朱印は700円を納め、先ずは庭園を散策します。御朱印のデザインは芭蕉庵です。
芭蕉庵は鉄舟和尚と親交のあった松尾芭蕉が寺を訪れたゆかりから、和尚はは「芭蕉庵」と名付けた。その後、85年ほどして与謝野蕪村が当寺を訪ねた頃には荒廃していた。その荒廃を大変惜しみ一門と共に、1776年(安永5年)に再興した。以来、俳句愛好家から親しまれている。
中川四明(1849~1917)、京都生まれ。正岡子規・大谷句仏師の先輩にあたり、1896年(明治29年)京都と大阪の俳人初集団たる京都満月会を興し、1904年(明治37年)に俳誌「懸葵」を刊行した。京都に於ける明治、大正時代の文芸の元老として重きをなし、その作品には京都情緒をたたえたものが多く、金福寺をしばしば訪れ句を残した。
青木月斗(あおきげっと)(1879~1949)、本名は青木新護、大阪の人、俳句を正岡子規に学び精進し大阪俳壇の重鎮であった。満月会に加わり、後に三日月会を起こした。1899年(明治32年)俳誌「車百合」を創刊。後に「カラタチ」、更に1920年(大正9年)、「同人」と改題して、晩年までこの指導に当たった。その句風は平明で至味があると言われている。ここ金福寺詠んだ句「蕪村の墓に隣して寝る霜夜かな狸追いし和尚の話夜半(よわ)の冬提灯で墓へ参りぬ星冴(さ)ゆる」と書いてありました。
その前に、高浜虚子(1874年~1959)が蕪村の墓に参られての句が書いてありました。「ゆく春や京を一目の墓どころ」。
与謝野蕪村(1716~1783)は江戸時代中期の俳人、画家。現在の大阪市に生まれ、20歳の頃に江戸に出て早野巴人(はやのはじん、1676~1742)の弟子となり俳諧を学ぶ傍ら誌、書、画の研鑽に励んだ。師の没後に奥羽一円を修業遍歴の後、36歳で京都に上る。39歳から3年間丹後で画業に専念し、後に姓を与謝野と改めた。51歳で讃岐に渡り一層画技を磨き池大雅、円山応挙と並び賞されるようになった。俳画を得意とし軽妙な仮名書きをともなった俳趣に富む誌書画一体の酒脱な絵画世界を開拓した。晩年は当寺で度々句会を催した。絵画の代表作には「十宣之図」(国宝)、「奥の細道図巻」(重文)、「夜色楼台図」(国宝)などその他多数あり。
江森月居(えもりげっきょ、1756~1824)は京都生まれ。与謝野蕪村門下の高弟で高井几董と共に双璧と云われた。1790年(寛政2年)二条家俳諧の会に召され百韻(ひゃくいん)の連句を興行した一人である。蕪村没後は一門を統率して京阪地方に勢力をきづいた。「朝霧にまぎれて出む君が門」「敗軍の五六騎簔をうちかつぎ」。
呉月渓(呉春)(1752~1811)の本姓は松村(まつむら)、名は豊昌(とよまさ)、字を裕甫(ゆうほ)、のち伯望(はくぼう)、通称を嘉左衛門と云い、京の生まれで京の金座の役人をしていたが、20歳の頃辞職して画を大西酔月に学んだが、のち蕪村の内弟子となって画、俳道を研修した。その後摂津池田に仮寓居していたが、師蕪村の死に際して後事を託され、1789年(寛政元年)京に居を定めた。その居が四条東洞院にあったので画業での系統を四条派と云う。
呉景文(1779~1843)は、月渓の弟で、絵を兄に学び、風景・花鳥に妙を得ていた。光格天皇の御引立を蒙り法眼の位を頂き御所の襖絵に多くの名作を残した。
舟橋聖一作歴史小説「花の生涯」のヒロインである村山たか女(妙壽尼)が(慶応3年)に創建したのが当寺の弁天堂である。村山たか女は、1809年(文化6年)の己巳(きみ)の年に生まれた。巳(白い蛇)は弁天様のお使いとされているので、たか女は弁天さんを深く信仰していたものと思われる。村山たか女は、井伊直弼が彦根城の埋木舎で不遇な部屋住み生活をしてした頃の愛人であった。たか女は京都において幕府の隠密(スパイ)となり、攘夷論者達(薩摩・長州・水戸藩の浪人、公家)の動向を探索し、その情報を長野主膳を通じて幕府(大老)に密報することで「安政の大獄」に加担した。そのため、たか女は勤王方から大変恨まれ、井伊大老が1860年(安政7年)の「桜田門外の変」で暗殺されると、勤王の志士に捕らえられ、京都三条河原で生晒にされたが、3日後に助けられ、1862年(文久2年)に尼僧となって金福寺に入り、名を「妙壽」と改め、14年間の余生を送り1876年(明治9年)に67歳の波瀾の生涯を閉じた。
金福寺を出て、来た道を戻り、また少しだけ登ります。その先に次の目的地である圓光寺の案内が出ています。金福寺も空いてましたが、次の圓光寺も空いていたらと思いながら歩いて行きました。
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